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”幸福を描いた印象派画家” ルノワールを分かりやすく解説します。

こんにちは。管理人の河内です。

今回はモネと並ぶ印象派の巨匠ルノワールをご紹介します。

皆さんはルノワールと聞いて何を思い出しますか?

かわいい女の子や裸婦など女性を柔らかなタッチと色で描いた作品を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか。

また絵に興味のない人にとっては「ルノワール」と聞けばあの老舗喫茶店を思い浮かべる人も多いことと思います。

高級感あるホテルのロビー調の店内が人気ですが、お値段もそれなりですよね(^^;)

管理人が20数年前学生だった頃、まだ”ドトール”も”スタバ”もない時代、銀座で先輩と待ち合わせのために入ったルノアールで、コーヒー一杯500円という値段に驚愕したことを今でも鮮明に覚えています。

さてその名前の由来となった画家ルノワールを今回は取り上げます。

日本ではゴッホ、モネと並んでとても人気のある画家ですよね。

その愛らしい少女の肖像画などは、難しい芸術論などお構いなしで誰が見ても心が和み幸せを感じさせてくれます。

光と愛情に満ちた幸福感あふれる作品を多く残したルノワールですが、その人生は決して穏やかなものではありませんでした。

 

ルノワールってどんな人?

本名:Pierre-Auguste Renoir ピエール・オーギュスト・ルノワール

1841年-1919年フランス。 印象派の代表的画家。後に独自の画風を確立。

陶器の絵付け職人としてスタートしたルノワールですが、モネやピサロらとともに19世紀後半の前衛芸術運動である印象派の中心的メンバー。

モネが風景画を得意としたのに対し、ルノワールは人物画を得意としました。

 

家族や友人など、彼を取り巻く親しい人たちから社交界の著名人まで、とりわけ女性を好んで描き、その鮮やかな色彩と大胆なタッチで光あふれる瑞々しい作品を描きました。

後半生には印象派を離れ、古典的な作風を経て独自の暖かで幸福感ある作風に到達します。

小難しい芸術論よりも、ひたすら幸福や人生の喜びをその作品で追い求めたルノワール、こんな言葉を残しています。「人生は不快なものだらけだ!」

だからこそ「快」や「喜び」を作品に求めたのではないでしょうか。

そしてルノワールにとってその象徴が「若い女性たち」でした。

「もしも女性の乳房と尻がなかったら、私は絵を描かなかったかも知れない」とあけすけに語っています。

「芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ? 世の中は不愉快なことだらけじゃないか」

前衛グループの代表でありながら、高尚な芸術ではなく親しみやすく生の幸福を歌うための芸術、それがルノワールの最大の特徴であり魅力です。

晩年は関節性リュウマチ炎を患い、手足が麻痺しながらも死の間際まで筆を執り続けました。

 

ルノワールの生涯

 1841年フランス、リモージュに生まれる。

4歳のときにパリへ移住。

パリの小さな陶磁器工場で絵付け工として修業時代を送る。

産業革命で職を失い19歳で職人から芸術家の道へ入ります。

産業革命で職を失い画家に転身。

21歳で絵画を勉強し始め、モネやシスレーら後の印象派の仲間たちと親交を結びます。

アカデミックな作風を嫌いモネ達とともに独自の表現を目指しますが、評価を得られず経済的に苦しい日々を送ります。

1870年、普仏戦争が勃発し、徴兵されて戦地へ。

パリ・コミューンの動乱の中帰還したルノワールは、混乱が沈静化した後も保守的なサロンに出品し続けますが落選が続きます。

そんな中、モネらと落選展(印象派展)を開きますがここでも酷評にさらされます。

ようやく70年代後半にはシャルパンティエらパトロンを獲得していき徐々に評価されていきます。

その後サロンへ入選し始めると、印象派から距離を置くようになります。

81年、40歳のときにアルジェリア、イタリアへ旅をし、ラファエロらの古典に深く感銘を受け輪郭線を強調する冷たいアングル風の作風へと転換。

90年代以降は「アングル風」からも脱却し暖かい色調の裸婦像を多く描くようになります。

この頃には評価も定まり、作品を国が買い上げたり勲章を受けるなど巨匠の仲間入りを果たします。

しかし自転車事故が元で間接性リウマチを患い療養のため南仏カーニュに移住。

晩年は1915年妻アリーヌに先立たれ、また不自由な体を押してなお幸福感あふれる女性像を数多く残しました。

1919年没。

 

宜しければこちらも合わせてご覧ください。【ルノワールの生涯~詳しく】

 

ルノワールの代表作を紹介

ここでは簡単にルノワールの代表作をご紹介します。

詳しい作品の解説はこちらをご覧ください。 【ルノワールの代表作を解説付で紹介!】

春のブーケ(春の花) 1866年

 

踊り子 1874年

 

ムーラン・ド・ラ・ギャレット 1875年

 

舟遊びをする人々の昼食  1876年

 

 

陽光の中の裸婦 1876年

 

 

大水浴図 1884~87年

ルノワールの作風とその変遷について

ルノワールの作風は、風景の一部として人物を捉えていたモネに対し、人物の表情やしぐさなどにスポットを当てて生き生きとした表現を模索したところにその特徴があります。

人物、特に若い女性への興味とその美しさへの賛美がルノワールの技法の変遷にも大きくかかわっていいます。

印象派とは光の表現にその特徴がありますが、ルノワールにとってはそれも人物を生き生きとさせるための演出として使っていたのかもしれません。

印象派はパレットで色を混色するのではなく、キャンバスに直接色の点を並べ、離れて見ると濁ることなく鮮やかなまま色彩が混色して見えるという技法を編み出しました。

また輪郭線は描かないか、ぼやけたままで背景と溶け合うように見えるのも特徴です。

1880年代にはルノワールはこうした印象派の手法に行き詰まりを感じるようになります。

そうした時期に訪れたイタリアで、古典の名作に感銘を受けその技法を取り入れました。

その手法は輪郭線をくっきりと描き、計算された構図と陰影法によるどっしりとした量感を表現すというものです。

そのころのルノワールの作風は「アングル風の冷たい表現」とい呼ばれています。

(アングルとは、18~9世紀の古典的絵画の巨匠です)

その後、それらを自分の中で消化して明るい暖色を使った独自の表現を生み出しました。

晩年の作品。

ルノワールの技法についてはこちらもご覧ください。 【ルノワールその技法の変遷をたどる】

ルノワール まとめ

いかがでしたか?

印象派の巨匠ルノワールについて、少しは身近に感じていただけましたでしょうか?

陶器の絵付け職人としてその人生のキャリアをスタートしたルノワール。そのためか当時としては前衛的芸術集団である印象派の中心メンバーですが、彼の作品はよく言えば親しみやすく、悪く言えば俗っぽい作風といえます。

それは難しく高尚な芸術論より、生の喜びや女性の美しさ、幸福感などを表現することに素直に向き合ったからではないでしょうか。

若きルノワールが画家を志してシャルル・グレ―ルの画塾で学んでいたとき、その大胆な色使いに保守的なグレ―ルが「絵具を引っ掻き回すのが楽しんだろうね。」と皮肉を言うと、「もちろんです。楽しくなければやりません」と答えたり、「もし女性の乳房と尻がなかったら私は絵を描かなかったかもしれない。」との発言からもそうした態度がうかがえます。

ルノワールが前衛グループで新しい表現を模索しながらも、旧態依然として否定したはずのサロン(官展)に出品し続けたのも前衛、保守といった枠組みが彼にとってあまり意味がなかったからかもしれませんね。

ルノワールはこう言っています。「人生には不愉快な事が多い。 だからこれ以上、不愉快なものを作る必要はない」

ここにルノワールの美に対する純粋な思いが現れていると私は思います。

 

【ルノワールに関するお勧め記事】

・ルノワールの生涯を詳しく解説!

・ルノワールの作品・代表作を解説付で紹介します!

・ルノワールの技法とその変遷をたどる。

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