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【夜の画家】ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの生涯と作風をご紹介します。

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こんにちは。管理人の河内です。

今回ご紹介するのはフランスで17世紀に活躍した“忘れられた画家”ジョルジュ・ド・ラ・トゥールです。

暗い室内で蝋燭の光に照らし出された幻想的な人物画で、日本でも人気の画家ラ・トゥール。

でも作品数も少なく展覧会で紹介される機会もないのでそれほどメジャーではないかも知れません。

このラ・トゥールの同時代には、レンブラントルーベンスベラスケスといったいわゆるバロックの大御所たちがいました。
しかし彼らの評価が一貫して美術の歴史に燦然と輝いているのに対し、ラ・トゥールはフェルメールと同じく、生前はそれなりに人気があったものの、その死後急速に忘れ去られた画家でした。

そして3世紀も歴史の闇に埋もれた末、近代になってようやく“再発見”された画家なのです。

バロック美術の始祖カラヴァッジョの影響を色濃く残しつつも、ラ・トゥールの穏やかで静謐な、見る者の精神を静かに揺さぶる深い静寂の世界はカラヴァッジョの激しい劇場的なリアリズムとは対極にあります。

そんな画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとは一体どのような人物だったのでしょうか。
見ていきたいと思います。

ラ・トゥールってどんな人?

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール Georges de La Tour
1593-1652年

ラ・トゥールは暗い室内に人物を配した画風で知られ『夜の画家』とも言われています。

蝋燭に照らし出された穏やかで感動的な人物の静謐でどこかメランコリックな表情は、瞑想と孤独を感じさせます。

 

ラ・トゥールは、生前は生地ロレーヌ地方や一時滞在したことがあるパリでもよく知られていたようで、国王付き画家として国王ルイ13世を初め宰相リシュリューや陸軍卿ルーヴォワ、造園家ル・ノートルたちが彼の作品を所有していました。

政府高官や貴族たちの人気を得てラ・トゥールの作品は高額で売買され、後年は相当な資産家となって貴族的な生活を送っていたようです。

しかしその静謐で穏やかな画風とは裏腹に、ラ・トゥール本人は暴力事件を起こす粗暴な性格で、しかも金にうるさく自身の貴族的特権をことさら主張するような人物でした。

暴力をふるって賃金の取り立てをしたり、召使いに盗みをさせていた、などとして訴訟を起こされ息子のエティエンヌが被害者と示談に奔走したなどの記録が残っています。

そんなことからラ・トゥールは周辺からは嫌われていたようですが、一方でラ・トゥールが活躍した当時のロレーヌ地方は戦争や疫病の脅威にいつもさらされていたため、自ら築いた財産を過剰に守ろうとしたのかも知れません。

 

そしてその死後、ラ・トゥールの記録や作品は散逸し、歴史のかなたに忘れ去られることになります。

ラ・トゥールにはサインのない作品も多く、当時頻発した戦争や侵略による略奪や消失、また1661年からのルイ14世治世では、反写実主義、反バロックへと舵を切り古典主義を促進したことも忘れ去られる原因となりました。

その後も18世紀にはフランス革命によって押収されたり、作者不詳として扱われたり、聖堂や修道院、個人コレクションにあったものまで四散していきます。

そして20世紀、1915年にドイツの美術学者ヘルマン・フォスによって“再発見”されました。
その後研究が進んで巨匠として注目を浴びたのはごく最近のことになります。

そのため40年ほどの長い画家として活動期間にもかかわらず、現在ラ・トゥールの作品と定まっているのは40点ほどにすぎません。

ラ・トゥールの生涯~ざっくりと

ではここでラ・トゥールの生涯をご紹介してみたいと思いますが、上述したように死後忘れられた画家となったためにラ・トゥールに関する資料はとても少なく研究者たちの間でも意見が割れたり、推測によるものが多くありますのでご了承ください。

特にラ・トゥールが生まれ、晩年を過ごしたロレーヌのあるフランス東部は、多くの国と国境を接しているため中世以降度重なる戦争と侵略により王家や支配者が目まぐるしく変わり、国の名前や形が変わる地方であったこともその背景にはあります。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは1593年にフランス、ロレーヌ地方のヴィック=シュル=セイユで比較的裕福なパン職人の次男として生まれました。

はじめに当時ヴィックで活躍していたスイス人画家クロード・ドゴスのもとで修業を始めた可能性が指摘されています。

その後ナンシーのジャック・ド・ベランジュのアトリエで学び、そのマニエリスム的な表現の影響を長く受け継ぐことになります。

そこでの最初の修行は1610年ごろに終わったと考えられていますが、その後1616年までの記録がなく、歴史家の間でもカラヴァッジョ派が支配的だったヨーロッパ美術の中心地ローマに滞在したと考える説やオランダ、ユトレヒトに向かったという説、パリに滞在したという説などが考えられています。

ヨーロッパではルネサンスの中心地であったローマが1527年の“ローマの略奪”によって廃墟と化し、その栄光が終わりを告げていましたが、1610年ごろにはラファエロやミケランジェロといった過去の巨匠たちの遺産と、カラヴァッジョ、カラッチら同時代の新たな巨匠たちの作品によって再度画家たちの憧れの地となっていました。

そのため若い大志を抱く画家ラ・トゥールが、ローマでカラヴァッジョ本人の作品をはじめ彼の追随者であるマンフレディやジェンティレスキなど“カラヴァッジョ派”の作品を見に言ったのではないかという説が有力ですが確証はありません。

1617年7月ラ・トゥールはリュネヴィルの上流階級出身でロレーヌ公の財務官を務める父を持つディアヌ・ル・ネールと結婚します。

この婚姻によってラ・トゥールは上流階級の仲間入りを果たすことになりました。

1618年、ドイツの新教徒諸侯と神聖ローマ帝国の間で三十年戦争が始まる。
父、ジャンが亡くなる。
ラ・トゥールに第一子が生まれる。

1620年妻の一族の出生地であるリュネヴィルに居を構える。
この年ラ・トゥールは27歳、彼はロレーヌ公アンリ2世に手紙を書き「貴族身分の女性」と結婚したことや絵画の技が「それ自体高貴である」ことを理由に、すべての税金の免除や社会的特権を要求し、これが許可されます。

また4人の弟子を4年の契約で受け入れます。

1621年次男エティエンヌが生まれる。
彼は成人して画家となり、父ラ・トゥールとともに働きその家系と芸術を継承することになります。

1623、24年にはロレーヌ公アンリ二世がラ・トゥールの作品を購入。

1631年フランスと神聖ローマ帝国との戦争がロレーヌ地方にも波及してくる。

1633年ごろからロレーヌ地方やパリの美術愛好家たちに『夜の情景』が非常に好まれるジャンルであったため数多く制作するようになる。

1638年フランス軍が、リュネヴィルで略奪、放火をするなど街を蹂躙します。ラ・トゥールは逃げ延びることが出来ましたが、彼の工房や作品も破壊されてしまいました。

1639年ナンシーに一時的に身を落ち着かせる。
国王付き画家となり、翌年国王の好意によってルーブル宮殿のギャラリーに居住する特権を得ました。

ロレーヌに戻ってからは地方の愛好家や修道会など多くの顧客を得て成功し、相当豪奢な生活を送るようになります。

しかし貴族のような贅沢な暮らしをしながらも、ラ・トゥールは彼の家畜などの財産に掛けられた税金の支払いを拒否し、逆に市を提訴するなど自身の特権を主張しています。

1645年からは毎年リュビネル市からロレーヌ地方総督ラ・フェルテへ送るための絵画の注文を受けるようになりました。
ラ・フェルテは教養ある美術愛好家で、通常年始の贈り物として地方総督には大金が収められていましたが、彼はお金より画家の作品を好んでいたそうです。

1647年息子エティエンヌを富豪の娘アンヌ=カトリーヌ・フリオと結婚させ、披露宴では新郎側からは多くの貴族たちが、新婦側からは裕福な商人が列席しました。

この頃は息子エティエンヌもまた画家となり、多くの弟子を抱える工房を開いています。

1648年天然痘によって末娘のマリーが亡くなる。

1652年初めに妻ディアヌが先立ち、その後を追うようにラ・トゥールも半月後に突然亡くなりました。

ラ・トゥールの死後1654年に息子のエティエンヌは貴族に列せられますが60年にはすでに画家としての記録は残っていません。

 

 

ラ・トゥールの画風と技法

ラ・トゥールの画風の特徴

ラ・トゥールは師匠のベランジュから細部描写へのこだわりと旅回りの音楽家や使徒と言った主題、人間の身振りや手の優雅な表現、そして夜の情景などを受け継いだようです。

また彼を通してマニエリスムの影響を受けました。

※マニエリスムとは…ルネサンス様式が最盛期を過ぎた後、ミケランジェロたちの表現を理想とし、様式化した美術様式。細く引き伸ばされた人体や圧縮されたような空間表現が特徴。

マニエリスムの作品

マニエリスムの作品

 

その後当時一世を風靡したバロック絵画の始祖カラヴァッジョの影響を受けて写実主義に傾きます。
しかしバロック美術と言えば、カラヴァッジョやルーベンスに代表されるような強い明暗ントラストとダイナミックな動きで見る者に迫ってくるドラマチックな情景がその最大の特徴ですが、ラ・トゥールの画風は簡素な構成と優しく暖かな光と影に包まれた世界であり、見る者がふっとその世界に吸い込まれるような、あるいは偶然その場面に出くわしたような感覚を憶えさせます。

そこには《蝋燭の灯》と《窓から差し込む陽光》という違いはありますが、フェルメールと共通する“静”の世界を感じさせます。

『昼の情景』と『夜の情景』

この記事のタイトルのようにラ・トゥールは『夜の画家』として知られており、そのオリジナリティ、人気においても圧倒的に『夜の情景』に軍配が上がりますが、彼のキャリアを通してみるとその作品は『昼の情景』と『夜の情景』に分類されます。
場面設定はどちらも共通して奥行きをあまり感じさせない空間に一人または複数の人物たちが配され、細部まで写実的に描き込まれています。

『昼の情景』は主に庶民の暮らしや日常を描いた風俗画で、人物たちは被害者と加害者という配役のもと表情豊かに表現され、嘘や欺瞞、欲望などが風刺的に表現されています。

 

一方で『夜の情景』では聖書の物語や聖人をテーマにしながらも、ごく普通の人間の生活を描いた風俗画のように表現されています。
そのため聖書やそこでの約束ごとを知らない私たちにもその状況がすぐに理解でき親しみを感じさせてくれます。

しかし人物たちの表情は乏しくどこか虚ろであったり物思いに耽ったりしていて、そこからは孤独や瞑想、慈愛などが表現され深い精神性が感じられます。

 

複数ある同じ絵

飾り気もなく薄汚れた壁があるだけの簡素な室内で写実的ではあるのですが、人物たちはどこか理想化(様式化)された印象を受けます。

これらはラ・トゥールは作品のレパートリーが少なく、同じ主題、同じ構図の作品をいくつものバリエーションで描く画家だったこととも関係しているかも知れません。

それはある意味画家としての成功を意味しています。
つまり人気のある作品、売れ筋を何枚も描くというのは商売の上では当然のことなのです。

しかしラ・トゥールの場合はそれ以上に、生涯にわたる連続性と「ひとつのテーマの変奏」として同じ主題を粘り強く追求したとも言えます。

 

 

ラ・トゥール まとめ

いかがでしたか?「夜の画家」ジョルジュ・ド・ラ・トゥール。

その作品は深い精神性を感じさせ詩情豊かな世界観で私たちを魅了しますが、ラ・トゥール本人は強欲で自己中な文字通り“イヤなやつ”だったというのは驚きでしたね。

残念ながらラ・トゥールはその追随者もなく、他の画家に影響を与えることもありませんでした。
そうしたこともあって生前は国王付画家にまで上り詰めながら時代の波に忘れ去られ資料や作品が極端に少ない謎多き画家となりましたが、それがまた作品をより神秘的で魅力的に見せてくれるのかも知れませんね。

 

 

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