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【モンパルナスの貴公子】アメデオ・モディリアーニの生涯を詳しく解説します。

安楽椅子の裸婦

こんにちは。管理人の河内です。

今回はアメデオ・モディリアーニの生涯を詳しくご紹介したいと思います。

 

モディリアーニが生きた時代は、フランスでは印象派の流行が収まり、セザンヌが亡くなって19世紀が終わりを告げる一つの時代の変わり目でした。

そして続く20世紀のニューヒーローたちが動き出します。

マチス達の『フォーヴィズム』、ピカソがアヴィニョンの娘たちで『キュビズム』を創始し抽象画が登場したまさにパリが芸術の都として最も光り輝いていた時代「ベル・エポック」の時代だったのです。しかし輝きの裏で世界を巻き込む空前の戦争の足音がひたひたと聞こえる不穏な時代でもありました。

モディリアーニの生涯① 出生~青年時代

アメデオ・モディリアーニは1884年7月12日、イタリアの地中海に面した港町リヴォルノに生まれました。

4人目の末っ子として生まれたモディリアーニは、美しい顔立ちで「デド」と呼ばれ、病弱だったこともあり甘やかされて育ちました。

両親は二人ともスペイン、ポルトガル系のユダヤ人(ファルディー)でユダヤ人の血を引いていました。

モディリアーニ家はかつてはローマの格式ある銀行家の家柄で、母親は有名な哲学者スピノザの血を引いていたと言われています。

モディリアーニの父フラミニオは、実業家でしたが、彼が生まれた年に破産しています。

フラミニオは事業の失敗によって各地を転々とし、母エウジェニアが所帯を切り盛りしていました。

長兄のエマヌエレは社会主義者の代議士に、次兄のウンベルトは鉱山技師になり、姉のマルガリタは後にモディリアーニの娘ジャンヌを育てました。

モディリアーニ家では、先祖代々の伝統を大切にしながらもリベラルな教育を施していました。

母のエウジェニアはイギリスの習慣であった紅茶を飲んだり文学に親しんだり翻訳をこなすなど因習にとらわれない進歩的な女性でした。

モディリアーニは母親からワイルド、ボードレール、ランボーといったロマン派や象徴派の詩人を教えられ、叔母のラウレからはニーチェの哲学を教わります。そのため少年時代から早熟で様々な文化的関心を抱くようになり、よく自作の詩を友人たちに読んで聞かせたりしていました。

 

1894年にリヴォルノの高等中学校に入り古典を学びますが、この頃には絵に興味を持ちはじめています。

1895年当初から病弱だったモディリアーニは肋膜炎を患い、98年には酷い腸チフスに罹ってしまいます。

この年グーリェモ・ミケーリの絵画教室に入り、その後まもなくして分派的な美術グループを作りました。しかし1900年の暮れに肋膜炎をこじらせ結核となってしまい、学業を放棄せざるを得なくなりました。

 

母は息子を転地療養させるため、マルセイユの伯父の支援を受けてイタリア南部、ナポリやカプリ島に滞在しました。

 

1902年には故郷を離れフィレンツェ、次いでヴェネツィアで絵の勉強をしました。

ヴェネツィアでは《未来派》のウンベルト・ボッチョー二ら多くの友人を得てベリーニやティツィアーノ、カルパッチョら過去の巨匠たちの作品に触れています。

 

また当時始まったばかりの“ヴェネツィア・ビエンナーレ”(2年に一度開かれる世界的芸術祭)を見て海外の様々な一流芸術家たちの作品から刺激を受けます。また多くの芸術家と交流を持ったようで「ヴェネツィアでは人生で最も重要なことを教えてもらった。成長してヴェネツィアを出る、勉強が終わって出ていく」と記しています。

 

 

 

モディリアーニの生涯② パリ時代

1906年1月モディリアーニは肖像画家を目指してパリに出てアカデミー・コラロッシに入学します。

1880年代以降芸術家たちの聖域であったモンマルトルを転々としながら当時ラヴィニャン街にあった前衛画家たちが共同で住んでいたアパート『洗濯船』でピカソやジョルジュ・ブラックらと知り合います。

 

母親からのわずかな仕送りで暮らしていましたが、次第に酒や娼婦に消えてき苦しい生活となっていきます。店の勘定が払えなくなり下働きをしたり、カフェで似顔絵描きをしたりしてしのぐ様になっていきます。

 

1907年からは数年アンデパンダン展に出品し、同じころ開かれたセザンヌの回顧展を見て後に『自分の師はセザンヌだけだった』と語るほど大きな衝撃を受けます。その色彩を使って空間とフォルムを構成する手法を取り入れる一方で、フォルムへの関心が高まったことで彫刻を試みるようになります。

またこの年最初のパトロンとなった医師のポール・アレクサンドルと知り合いました。

 

1907年にはセーヌ川南のモンパルナスへと移りさらにボヘミアン的な生活をおくります。

パリに出た当時はまだ粋で優雅な育ちの良い雰囲気をまとっていましたが、絶えず金不足に悩まされるうちに、モディリアーニの素行は悪くなっていきました。

芸術家たちのたまり場であったカフェ・ラ・ロトンドのパトロン・リビオンに排斥されたり喧嘩の末に他人の作品を壊したりしたためアレクサンドルが作った芸術家共同生活体から追放されるなど芸術家仲間からも孤立するようになっていったのです。

 

1909年にモンパルナスのシテ・ファンギエールに移ります。この「シテ」という名前は芸術家たちの居住区という意味で、シャイム・スーチンや藤田嗣治らも住んでいました。

 

1909年から14年に第一次世界大戦が勃発するまでの間モディリアーニは、前衛彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシの隣に住んで仕事をし、彫刻に専心していましたが作品はごくわずかしか完成させていません。

この頃は酒代や画材代にも事欠く状況で、地下鉄の建設現場から枕木を盗んで彫ったり、夜の建築現場や路面から石をはがしたりしたものを彫刻していると噂されていました。

 

1909年に一度リヴォルノに戻った時はかなり体が弱っていて、12年の帰郷ではかつての美術学校仲間からは「髭を剃り上げ、逃げ出した囚人みたいだった」と言われました。

 

1914年、南アフリカ出身のジャーナリストでモンパルナスの隣人たちからは“イギリスの女流詩人”として知られていたベアトリス・ヘイスティングスと出会います。

ベアトリスがモディリアーニの容貌に一目惚れして同棲を始めます。

しかしふたりの生活は共に酒におぼれ麻薬に耽るなど大変荒れたものでした。

 

この頃は精神的にも疲弊し度々病気になり、実家からの仕送りも途絶えるようになります。友人たちの多くは戦地へと赴き、たまり場であったカフェは外国人と病人だけでした。

 

この大戦の間、次第にモディリアーニは彫刻への興味は薄れ、肖像画へと向かいます。

また画商のポール・ギョ―ムがモディリアーニの作品をすべて買い上げアトリエまで貸し与えるなどモディリアーニを支えてくれるようになりました。

ここで一連の裸婦を制作したのです。

 

しかしベアトリスとの関係は相変わらず酷く荒れた状況で、二人はしばしば暴力的な喧嘩に発展することもあり1915年には麻薬、アルコール中毒の二人の関係は破綻しました。(その後ベアトリスは1943年自殺しています)

 

 

モディリアーニの生涯③ 早すぎる晩年

この頃には画家として少しずつ絵は売れていたものの、まだまだ無名であったモディリアーニですが、ピカソとは親交がありお互いに肖像を描き合ったり、ピカソが自分の画商にモディリアーニを紹介したりしています。

 

1916年からポール・ギョ―ムの後を継いでレオポルド・ズボロフスキーがモディリアーニの専属画商となり、彼を援助し作品を売り歩いてくれました。

 

翌年にはズボロフスキーの企画で初めての個展がベルト・ヴェイユ画廊で開かれます。

しかしモディリアーニは、公の展覧会には出品をせず全くの無名であったことから、個展に注目を集めようとズボロフスキーは、裸婦の絵を画廊の外から見えるところに飾ったのです。そのため画廊の前では大騒ぎとなり、また当時は戦時下であったことから「わいせつ」であるとしてことで警察に摘発され展覧会は初日で打ち切られてしまいました。

 

1917年彫刻家チャナ・オルロフの紹介で、藤田嗣治のモデルもしていたジャンヌ・エピュテルヌと知り合います。

彼女は内気で無口で繊細な女性でした。当時はまだ19歳で、モディリアーニは33歳でした。ジャンヌもアカデミー・コラロッシでデッサン学ぶ優秀な画学生で、モディリアーニから芸術的刺激を受けていました。

 

ジャンヌの家族は保守的なカトリックで、ユダヤ人の無名の画家との関係を快く思っていませんでしたが、二人はすぐに惹かれ合い同棲を始めます。

 

ジャンヌはモディリアーニにとって理想的なモデルであり、ジャンヌの肖像画を26点も描いています。

 

しかしモディリアーニは相変わらず酒を飲み二人の生活はベアトリスの時と同様に荒廃し、時にはジャンヌに暴力を振るうのが目撃されています。

しかしジャンヌはベアトリスとは反対に、内気で献身的であり、モディリアーニの虐待に黙って耐えていました。

 

モディリアーニは毎晩のように場末の酒場を飲み歩き、身を切るような寒空にもシャツ姿で徘徊し、当時の仲間は「したたかに酔っ払い、悪態をつき、酷くやつれて見えた」と語っています。

 

1918年、戦争末期になるとパリの爆撃は激しくなり、50万もの人が疎開をしました。

 

そんな危険を避けるためズボロフスキーは二人に強く南仏行きを薦めます。

費用はズボロフスキーが工面し妊娠中のジャンヌとそれを案じた母親のウードクシも一緒に行くこととなりました。

この南仏滞には画家仲間のスーチンや藤田嗣治らも同行し、ニースやカーニュなどでルノワールに会ったりピカソや同じイタリア人画家のジョルジュ・デ・キリコらと親しく交際しています。

 

11月にニースの産院でジャンヌは娘を出産、同じジャンヌと名付けました。

 

モディリアーニは1919年5月まで南仏に滞在し、パリに戻りますが12月に突然健康状態が悪化して肺炎に罹ります。

 

ジャンヌと共同で使っていたアトリエでモディリアーニは倒れますが、動転したジャンヌは医者を呼ぶこともなくただ怯えてモディリアーニを見つめるだけでした。

そして1月24日モディリアーニはパリのシャリテ病院で、結核性脳膜炎で亡くなります。35歳の若さでした。

その翌々日、第2子を身籠っていたジャンヌはアパートの5階から身を投げて後を追いました。

仲間の芸術家たちは二人の死を悼み葬儀には多くの人が参列し荘重に行われました。

キスリングが葬儀代を出し、ズボロフスキーはモディリアーニに敬意を表して残された娘のジャンヌの養育費ために基金を募りました。

 

モディリアーニの後を追ったジャンヌの遺体は5年後にバニュー近くの墓からペール・ラシェーズのモディリアーニの墓のそばに移されました。

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