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『ロマン派風景画の巨匠』ウィリアム・ターナーの生涯をたどります。

こんにちは。管理人の河内です。

今回はロマン派風景画の巨匠ウィリアム・ターナーの生涯を詳しくご紹介します。

ターナーは幼少の頃より非凡な才能を発揮し、若くして栄誉あるイギリス、ロイヤル・アカデミーの正会員となりなりました。

英国美術界で長きにわたり名声をほしいままにしながらも、飽くなき創造の探究心で最晩年まで数多くの作品を描き続けました。

ターナーはその人生を通してリアリティを追い求め、イギリスだけでなくヨーロッパ各地を精力的に旅して周りその情熱は最後まで衰えることを知りませんでした。

目次

ターナーの生涯① 出生~青年期

ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナーは1775年4月23日、ロンドンのコヴェント・ガーデンに生まれました。

一家はコヴェント・ガーデンのメイドゥン・レインで理髪店を営んでおり、父親は息子のターナーが12歳のころから描いた絵を店先に並べて自慢していました。

ターナーには3つ下に妹メアリが生れていますが、83年に幼くして亡くなっています。

 

母親のメアリ・マーシャルは肉屋の娘でした。

彼女は極度の癇癪持ちで、それが長じて精神を患い後年精神病院に入院し、そこで亡くなっています。

幼いターナーはこうした母親から充分な愛情を受けられなかったためか、逆に父親とはとても強い絆で結ばれていました。

父親はターナーに深い理解と愛情を与え、亡くなるまで良き友人であり心の支えでもありました。

息子が成人してからも同居し、独身の息子の身の回りの世話を焼いていました。息子のために絵具の用意やカンヴァスを張ったり下塗りをしたりするなど助手のような役割もしていたのです。

ターナーは、子どもの頃は満足な学校教育を受けられませんでしたが、1789年12歳で風景画家トーマス・マートンの弟子となって絵画の基礎を学びました。

 

ようやく14歳の時にロイヤル・アカデミー・スクールズ(王立美術学校)に授業料を免除された候補生として入学します。

1790年15歳で初めてロイヤル・アカデミー展に水彩画を出品。

この頃にパンテオン劇場の背景を描くアルバイトをしています。しかしそのパンテオン劇場が火事になるや、スケッチブックを抱えてそれを写生しています。

 

1796年、21歳でロイヤル・アカデミーに初めて油絵《海の漁師たち》を出品して好評を博します。

ターナーの生涯② 画家としての成功

1799年にロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれます。

経済的に自立したターナーは、ハーレーストリートに居を構え一人暮らしをはじめました。

 

またこの年、アンガースタインのコレクションに含まれていたクロード・ロランの作品に触れて大きな衝撃を受けます。ターナーはこのロランから光を表現する可能性を見出しました。

クロード・ロランの作品

1800年母親が精神錯乱のためベスレム精神病院に入院。

 

1802年 26歳という若さでロイヤル・アカデミー正会員に選出される。

これによって作品の販売価格は跳ね上がり、若くして名誉も財産も手に入れました。

この年ターナーは初めてヨーロッパ大陸へ渡り、フランス、スイスを回りアルプスの大自然に魅了されます。

この頃ナポレオンが、ヨーロッパを征服する間に各地で略奪した膨大な美術品をルーブル美術館で展示することを決め、それを見るために旅の帰路にフランスを訪れます。

その後ナポレオンが皇帝となりフランスはその支配下にあり、戦争状態が続いていたのでイギリス人であるターナーはしばらくは大陸へは行くことが出来ませんでした。

 

1804年ベスレム病院で母親が亡くなる。

 

ターナーはこの頃には多くのパトロンを得ており、大人気の画家となっていましたが、生来の気難しい性格と人付き合いの悪さからアカデミーではターナーを良く思わないものも多かったようです。

また展示の仕方に対するこだわりから、自宅にギャラリーを設け、そこで自らの作品を展示し公開しました。

1807年32歳でロイヤル・アカデミーの遠近法の教授になる。

しかしターナーは講義の間助手に向かってつぶやくだけで、学生たちは誰も彼の話を聞き取ることが出来ませんでした。

この年、再び父親と同居をはじめます。

1813年テムズ河畔のトゥイックナムにサンディク―ム・ロッジを作りそこをソーラス・ロッジ(独りの宿)と呼び隠れ家としました。

 

ターナーの生涯③ イタリアの影響~晩年

1819年、44歳の時、最初のイタリア旅行に出ます。

イタリアはルネサンス以降西洋美術の規範であり、ヨーロッパ中の画家たちにとって憧れの地でありイタリアで勉強することが一つのステイタスでもありました。

特に大陸から離れたイギリスは、芸術後進国でありターナーもそうしたことからイタリアを訪れます。そしてイタリアの陽光に深く心を動かされ、作品の色彩は鮮やかになり抽象性を増していきました。また折しもヴェスヴィオ火山の噴火を目にしてそれを描いています(↓)。

ターナーは2か月のイタリア滞在中に1500点ものスケッチを描いています。

 

1828年再度イタリアを訪問。

1829年父親が亡くなりターナーは精神的に大きな打撃を受けます。

人付き合いの悪かったターナーにとって、父は良き友人でもあり大きな心の支えだったのです。

ある友人は後に「ターナーは父親の死後、同じ人間には見えなかった。家庭が崩壊してしまったのだ」と述べています。

父を亡くした後、1831年から芸術の庇護者でパトロンでもあったエグラモント卿の所有するペットワースの屋敷を頻繁に訪れそこに慰めを見出します。

ターナーはこの屋敷の最上階にアトリエを与えられ、外界の雑事に煩わされることなく制作に励みました。

 

また遺言書を作成し、財産の一部を恵まれない風景画家のための基金に遺贈することを表明しました。

1830年代初期にはヴェネツィアの風景画を発表しはじめ、35年以降はヴェネツィアに取りつかれたようにその風景画を描いています。

1833年生涯の愛人となるブース夫人と知り合います。

チェルシーのチェイン・ウォークに家を購入し、そこにブース夫人を住まわせました。

 

最晩年には健康も衰え始め、ますます世間に背を向けるようになります。

1837年62歳でアカデミーの教授職を辞する。

1838年代表作『戦艦テメレール号』を制作。

1840年ジョン・ラスキンと出会う。

1843年ラスキンの『近代画家論』第1巻が刊行され、ターナーの作品を解説し擁護する。

1844年『雨、蒸気、速力』を制作。

1846年アカデミーを辞職。

1851年12月19日テムズ川を見晴らす自分の寝室で亡くなり、遺体はセント・ポール大聖堂に埋葬されました。

ターナーは遺言によって、その死後は10年以内にターナー専用の特別展示室を作りそこに展示するという条件で、すべてをロンドンに遺贈すると書かれていました。

 

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・『光と大気を描いたロマン派の巨匠』ウィリアム・ターナーの人生と作品をご紹介します。

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