こんにちは。管理人の河内です。
今回は『踊り子の画家』として知られるエドガー・ドガの生涯を、年代を追って詳しくご紹介します。
裕福な銀行家の家に生まれたドガは、何不自由ない生活のもと画家として成功をおさめていきますが、後半は父親や兄弟の莫大な借金を背負って困窮し、また視力の低下やその気難しい性格から孤独な最期を迎えました。
目次
ドガの生涯① 出生~修業時代
1834年7月19日パリに生まれる。
ドガの一家がイタリアのナポリからパリに移ってきて間もない頃でした。
洗礼名はイレール=ジェルマン=エドガー・ド・ガスでしたが、画家になるとごく簡単に「ドガ」と名乗るようになりました。
父親は名の知れた銀行家オーギュスト・ド・ガス、母方も植民地の裕福な家柄で、ニューオーリンズ出身のセレスティーヌ・ミュソン。母親はドガが13歳の時、第七子を産んですぐに亡くなっています。
11歳でパリの名門高等中学校リセ(ルイ・ル・グラン)に入学。そこでギリシャ語やラテン語などの古典を学び、また生涯の友人となるアレヴィ、ルアール、ポール・ヴァルパンソンと出会います。
1853年に学校を卒業後、ルーブル美術館の模写生として登録しますが、父の意向で法律を学ぶべくパリ大学法学部に入学しました。
しかし一年後、ドガは画家になる決意をします。父に許しを請い、息子の真剣さに撃たれた父はそれを認めます。
1855年初めにフェリュクス=ジョセフ・バリアス、続いて新古典主義の巨匠ドニミック・アングルの弟子であったルイ・ラモットなどに師事しデッサンや模写などをして古典を学びます。
友人ポールの父、アンリ・ヴァルパンソンの紹介で、75歳になっていた巨匠アングルに会い、「線をたくさん引きなさい、とにかくたくさんの線を」というアドバイスを受ける。
その後ドガは国立美術学校(エコール・デ・ボザール)に入学します。
そこでファンタン・ラトゥール、ドローネーらと出会いました。
ルーブル美術館での模写も続け古典の巨匠ばかりでなく、アングルやドラクロア、クールベなどの同時代の画家も研究し吸収していきます。
ドガの生涯② イタリア時代
1856年、22歳の時にエコールを中退し、父の生地でもあるイタリアの親類に合う目的でナポリに向かいます。
イタリアは当時希望に燃える若い画家たちにとってあこがれの地でした。そこにドガは数度にわたって3年間滞在します。後にイタリアで過ごした3年間は「生涯の中で最も特殊な期間だった」と書いています。
ヴィラ・メディチ(在ローマ、フランス・アカデミー)で象徴主義の巨匠ギュスターヴ・モローらと交流する。
ドガはイタリアで他のフランス人画家同様、伝統的なイタリア芸術を研究し、伝統的絵画スタイル「グランド・スタイル(大様式)」を学びます。
しかし実際にはイタリア美術からはそれほど大きな影響を受けず、むしろ同じフランス人のモローやウジェーヌ・ドラクロアに影響を受けたようです。
1858年再びイタリアを訪問。フィレンツェの叔父の家に滞在し初期の傑作『ベレリ家の人々』(↓)を制作する。
1860年第前半は、『運動するスパルタの青年男女』(↓)など伝統的な主題である歴史画などを多く描いています。
またこの頃に日本美術に注目する。
ドガの生涯③ マネと親交
1862年ドガはルーブル美術館で写実主義の画家エドワール・マネ(↓)と出会います。
マネについてはこちらの記事をどうぞ。
マネはドガより2歳年上で、ドガ同様上流階級の出身でした。
当時すでに画家として名を成していて、若手前衛画家たちの尊敬を集めていました。
その後マネとドガはお互い尊敬し合い、影響し合っていきます。
1860年代は肖像画を多く描き、また音楽家や劇場をテーマにした作品を描き始め、「踊り子」もこの頃から描き始めました。
当時ドガは仕事に没頭し「ほんの数時間仕事から離れていると、自分が罪深く、愚かで下らない人間に思われてくる」と話しています。
またこの頃カフェ・ゲルボアで若い画家たちと交流する。
1870年、フランスはプロシアと戦争(普仏戦争)を始め敗北。
ドガはこの戦争に召集され砲兵隊として兵役につきました。そこでパリが包囲された際、何らかの原因で視力が著しく低下します(ドガ自身は寒さが原因だといっています)。
1872年から73年母方の親類が住むアメリカのニューオーリンズに6か月滞在します。
その時描かれた作品「ニューオーリンズの綿花取引所」(↓)
この時期に踊り子たちの練習場を訪れバレエを描き始めます。
パリ・コミューンの間、メニル=ユベールに滞在。
ドガの生涯④ 前衛画家たちとの交流
1874年、ドガの父オーギュストが死去します。
すると父の経営する銀行に莫大な負債があることが分かりました。
さらに弟のルネが事業を始めるためにした借金があり、1876年に負債者から訴訟を起こされそうになると、ドガは義弟とともに自分たちの家や美術品などの財産を手放してその返済に当てました。
こうしてドガはそれまでの優雅な生活を捨て、自分の作品を売って生計を立てなければならなくなりました。
ドガは不満を漏らしながらも日々生活のために作品を描き続けます。
一方でドガは完全主義者であったため、注文された作品を期日に間に合わせることができなかったり、手直しするために買い戻していたりしたためにさらに経済的な困窮に陥りました。
同じころピサロやモネ、ルノワールらとともに公的な場所であるサロンとは別に、作品発表の場を設けるべく新たな協会を設立します。
1874年、キャピュシーヌ通りにある写真家ナダールのスタジオでその展覧会が開かれました。後に「印象派」と批評家から揶揄された展覧会です。
ドガはこの後1886年までに合計8回開催された『印象派展』に7回も出品しています。
また新しく完成したパリのオペラ座に足繁く通い、稽古中や公演中の踊り子たちをスケッチしました。
1870年代後半にアメリカの女流画家メアリー・カサット(↓)と出会い親しくなります。
周囲は彼らを恋人同士だと思っていましたが、二人は画家として良い影響を与え合い、時にはドガが教師のような役割を果たしていました。
1878年『ニューオーリンズの綿花商会』がポー美術館に買い上げられます。これがドガの作品が美術館に入った最初の作品となりました。
ドガの生涯⑤ 晩 年
1880年メアリー・カサット、ピサロらとともにエッチングを制作。
80年代に入ると視力は一層衰え、油絵の代わりに彫刻やパステルのように細部まできちんと描かなくてもよい素材を使うようになります。
1881年蜜蝋製の踊り子の彫像を第6回印象派展に出品する。
彫刻のほかリトグラフ、モノタイプ、パステルの作品を制作。
1885年、ル・アーヴルやディエップを訪れゴーギャンと知り合います。
1886年第8回印象派展に湯浴みする女性の絵を数点出品。これが最後の『印象派展』となり、その後ドガは作品を発表することが極端に少なくなりました。
世間との付き合いも避けるようになり、数少ない昔からの友人のみを頼りとするようになります。
1887年スペインを訪れる。
競馬場の情景や『サーカスのララ嬢』を制作(↓)。
1890年数少ない友人で彫刻家のポール・バルトロメと一緒にブルゴーニュ地方を旅行する。
1893年パステルによる風景画の連作を展示。
視力はますます低下し制作が困難になり油絵を諦めます。
1894年。ドレフュス事件が起こる。
※ドレフュス事件とは、フランス陸軍でユダヤ人のドレフュス大尉が、スパイの疑いをかけられ有罪となり南米に送られた冤罪事件。
しかしこの事件は確たる証拠もなく不当な裁判が行われたとして、国内の意見が国粋的な反ユダヤ主義者と自由平等を訴える人々で二分しました。
ドガは右翼思想の持主で、反ユダヤ主義であったため、ユダヤ人の友人をはじめリベラルな考えを持つピサロやアレヴィといった長年にわたる友人たちとの付き合いを断ってしまいました。
1912年ドガのヴィクトール・マッセ街のアトリエが取り壊しとなり、強制的に立ち退かされます。これに加え健康と視力の衰えが相まってドガは以降制作を止めてしまい世間からも離れて孤独に暮らします。
しかしこの頃にはドガの作品は極めて高価な値が付くようになっていました。
1917年9月27日死去。モンマルトルの墓地に埋葬されました。享年83歳でした。
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