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【生と死を見つめた画家】エドヴァルド・ムンクの生涯を詳しく解説します!

こんにちは。管理人の河内です。

今回は『叫び』でおなじみのノルウェーの画家、エドヴァルト・ムンクの生涯を詳しく辿ってみたいと思います。
これほど世界的にも有名な画家であり作品ですが、意外と画家がどういった人生を送ったかは知られていないのではないでしょうか。
作品のインパクトの強さにムンクの人となりが霞んでしまったのだと思いますが、その人生を知ることで、また違った感想や見え方がしてくると思いますので是非読んでみて頂ければと思います。

ムンクの生涯① 出生~青年時代

エドヴァルト・ムンクは1863年12月12日、ノルウェー南部の小さな農村、ロイテンに生まれました。
父はクリスチャン、母はローラ・キャサリン・ビョルスタと言い、エドヴァルドはこの夫妻の間に生まれた5人兄弟の2番目として生まれました。
父は軍医をしていて、その兄(つまり伯父)ペーテル・アンドレアス・ムンクは有名な歴史学者でした。

ムンクが生まれた翌年に父がアーケシュフース城で医療官として勤めることになったため一家は首都クリスチャニア(現在のオスロ)に移ります。

ムンクがまだ幼かった1868年に、母が結核に侵され次女を産んだ後33歳という若さで亡くなります。
そして悲劇は続き77年にムンク最愛の姉ソフィエも同じ病気で亡くなってしまいました。

このように続いた悲劇は少年エドヴァルドの心に深い傷となり生涯にわたって付きまといます。
少年時代から病気がちな子供であったムンクは、幼児期のかなり長い間家に閉じ込められて生活し、閉所恐怖症でもあり重苦しい日常をおくりました。

また妻を失った父クリスチャンは、熱狂的なまでに信仰にのめり込むようになり、何時間も祈りを捧げるようになります。
「病気と狂気と、死がわたしのゆりかごの番をする黒い天使たちであり、生涯私に付きまとって離れなかった」とムンクは自らの幼年時代を語っています。

母親は亡くなりましたが、幸い叔母のカーレンがムンク一家の世話をすることになりました。
彼女自身がアマチュア画家であったことから、ムンク家の子供たちに絵を描くことを薦めたのが彼女でした。
そこでムンクはグリム童話の挿絵を模写したりしはじめ、成人する頃には自分の作品を雑誌社に売り込もうとしたりするなど職業として画家を目指し始めます。

ムンクは1879年に工業学校に入り技師になる勉強をしていましたが、病気で休みがちであったこともあり、それを中断して1881年にクリスタニア国立美術工芸学校に入学しました。
そこでユリウス・ミッデルトゥンに師事しますが、後についた自然主義の画家クリスチャン・クローグの方からより大きな影響を受けます。
1882年ムンクは6人の画家仲間と共同でアトリエを借り、そこでクローグから個人指導を受けたのです。
ムンクはこのクローグを通じてパリやベルリンの影響を受けたノルウェーの急進的な芸術家やボヘミアンのグループとも知り合います。彼らはブルジョワ的モラルを批判して徹底的な性的、芸術的自由を主張しました。

この頃ムンクは初めての恋を経験します。
相手は2歳年下のミリー・ベルク。彼女はすでに人妻でしたが自由恋愛の信奉者でした。この恋愛に若いムンクは恍惚となりながらも激しい嫉妬や罪悪感に苛まれ、悩み苦しむことになります

1883年、ゴーギャンの義理の弟であるフリッツ・タウロヴが運営する野外美術アカデミーに参加し、この2年後にはタウロヴの推薦で奨学金を得、パリへの旅をしました。
パリにはわずか3週間の滞在でしたがモネや印象派の画家たちによる最新の芸術に触れることが出来ました。

1886年初期の代表作『病める子』『思春期』などを制作。

病める子(部分)

ムンクの生涯② パリへ

1889年、ムンクはパリでさらに時間をかけてフランス美術を学ぶ機会を得ました。
最初の個展が成功し、適切な指導を受けるという条件付きでノルウェー政府から奨学金を得たのです。そこでムンクはパリでレオン・ボンナの美術教室に入りました。
ムンクは当初ボンナのアトリエで熱心に学びますが、後に方向性の違いから交わりを断つことになります。
この年に父親が亡くなります。ムンクは衝撃を受けますが、狂信的で異常に厳しく画家になることに反対していた父の束縛から解放され自由になります。

また当時の熱狂的な芸術運動から大きな影響を受け、特に象徴主義からはその色の使い方やフォルム(形体)の単純化、魔性の女を意味する『ファム・ファタール』という象徴主義の画家たちが扱った主題からもインスピレーションを得ました。

1892年、ムンクはベルリン芸術家協会に招かれ展覧会を開催し初期の重要な作品『病める子』『朝』『不安』などを出品します。しかしこの作品たちが大きな論争を巻き起こし、新聞などで激しく酷評されました。そしてわずか1週間で運営委員会より作品の撤去を求められたのです。
マックス・リーバーマンを中心にした何人かの会員はこれに反対し芸術家教会を脱退、その後ベルリン分離派を結成するに至ります。
この騒動は“ベルリン・スキャンダル”と呼ばれ皮肉にもこの騒ぎでムンクの名は一躍知れ渡ることになりました。しかし当のムンクはこの騒ぎを面白がり、すぐにデュッセルドルフとケルンで個展を開く手はずを整えます。
その後ドイツ以外にも北欧の都市へと巡回展を開き、これらの展覧会の入場料から作品が売れるのと同じくらいの収入を得ることが出来るなど徐々に愛好者も増やしていきました。

こうしてスキャンダルから名を挙げたムンクはベルリンに居を定め、やがて《黒仔豚亭(ツム・シュヴァルツェン・フェルケル)》をたまり場にしていた新しい芸術家グループの仲間入りをするようになります。

1895年にはベルリンのウンター・デン・リンダ―通りの画廊、続いてクリスチャニアのブロムクヴィスト画廊で大規模な個展が開催され、代表的な連作『生命のフリーズ』が展示されました。

こうして画家として成功する反面、私生活では弟のアンドレアスが肺炎で亡くなったり、妹ラウラ・カトリーネが精神分裂病で入院するなど不幸が続き、ムンクは改めて死の不安に苛まれ孤独の中にありました。

私的な哀しい出来事にムンクはさらに自らの芸術テーマである《生きることの不安》《生と死》を強く意識します。そして自身の作品群を『生命の連鎖』としてとらえ『叫び』や『嫉妬』などの作品を《生命のフリーズ》となづけたのです。

『嫉妬』

 

そんな時期新しい恋が芽生えます。相手は芸術家たちの“マドンナ”ダグニー・ユール、愛称ドゥーシャ。彼女は知性と愛らしさを兼ね備えた『聖母』でありムンクは彼女に心奪われます。
しかしムンクは初恋の苦い経験を思い出し、彼女に近づくことが出来ずドゥーシャをモデルにした『マドンナ』を描くことしかできませんでした。

『マドンナ』

 

1896年パリに移り住む。

1898年オスロの富豪の娘マティルデ・ラーセン(通称トゥーラ)と知り合い交際を始めます。ムンクは内的な悩みを抱えつつも彼女とドイツ、イタリア、フランスに旅行する。

1902年6月オスロ南西部の避暑地オースゴールストランの別荘に滞在中、恋人のマティルデが結婚を拒むムンクに対して拳銃で自殺をほのめかせ、二人がもみ合ううちに拳銃が暴発し、ムンクは左手中指の第一関節から先を失います。

この事件によって精神的に追い詰められたムンクは現実から逃れるため酒におぼれ各地を放浪します。
1903年ベルリンで個展開催。同4月にパリのアンデパンダン展に作品を出品し好評を得ます。同じ年イギリス人ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチと知り合い恋に落ちます。

また眼科医で美術愛好家のマックス・リンデと交友するようになり、リンデの子供部屋を飾るための作品をいくつも制作します。

1905年にはプラハで大規模な個展が開かれ若い芸術家たちに熱狂的に迎え入れられました。
ムンクはこの時のことを「まるで王侯のようなもてなしを受けた」と回顧しています。

ドイツに本拠地を置いていましたが頻繁にあちこち旅をし、パリを訪れた時はポール・ゴーギャンと彼の弟子たちと出会い、美術商ビングのアール・ヌーボー・ギャラリーで日本の木版画の素晴らしい展覧会を見ました。

また版画家オーギュスト・クロの指導を受け新しい印刷技術に対する関心を高めます。

 

1906年から7年にかけてムンクはマックス・ラインハルトから数点の重要な仕事の依頼を受けます。それは新しい小劇場の壁画装飾とイブセンの『幽霊』、『ヘッダ・ガブレル』のための舞台装置の制作でした。この仕事にとりかかる間、ムンクは劇場に泊まり込み昼間は絵を描き夜は酒を飲んでいました。他人とは付き合わす周りからは「未知の人であり、謎であった」と言われていました。

ムンクの生涯③ 精神病院へ入院

マティルデとの“暴発事件”以来、過度の飲酒と心身の過労によってムンクは迫害の妄想に憑りつかれるようになり、1908年3日間の大暴飲の末、神経症に陥ります。
そして自らのうちに狂気を自覚したムンクは望んでコペンハーゲンのダニエル・ヤコブセンの病院に入院しました。

その7か月後、様々な治療を受けた後に退院したムンクは久しぶりに故国ノルウェーに帰国します。
その時には幼い頃から持ち続けた“生への不安”を克服していました。
“生命”を前向きにとらえるようになったムンクは自分の感情を描くのではなく、身の回りの見たものを描くようになります。彼のパレットには明るい色が並び、作品を覆っていた陰鬱とした頽廃感が薄れていきます。
こうしてムンクの画風は一変しますが皮肉なことに過去のもっとも独創性の強い時期の作品が一般的に広く認められるようになっていきました。

そして1908年、聖オラヴ大十字章のナイトの称号を贈られ、1911年には大学講堂の装飾壁画のための名誉あるコンクールに優勝します。
ムンクはここに新しい『生命のフリーズ』を並べますが以前のような魂の内面の働きではなく《太陽、歴史、アルテ・マーテル》という自然、宇宙という普遍の力を描きました。

1909年にはそれまでの放浪生活にも終止符を打ち、海岸の町クラーゲリョーに居を定めます。
この頃には画家として国際的にも名声を得ていたムンクはオスロ郊外のアトリエで静かに制作を続けていました。

ムンクは公共の壁画制作を計画し、労働者たち産業をテーマとした一連のフリーズのアイデアを温めていました。
1922年にはチューリッヒ美術館で大展覧会が開かれます。
またフレイア・チョコレート工場の食堂に下図を描きましたが完成させることはできませんでした。さらにオスロの新しい市庁舎の壁画の制作を申し出ましたが、建築作業が33年まで遅れ、ムンクはこの頃には眼を病んでいてもはや絵を描くことが出来ない状態でした。

ムンクの生涯④ 戦争と晩年

1929年ムンクはエーケーリーに『冬のアトリエ』を建て、晩年はこの屋敷で一人孤絶した日々を過ごしました。
ここで“私の子供たち”と呼んだ自らの作品に囲まれて質素な生活を送ったのです。
しかしそんなムンクにも戦争の悲劇が襲い掛かります。
ナチス・ドイツの台頭と第二次世界大戦が勃発したのです。
1937年のストックホルム、アムステルダム、パリ万国博のノルウェー館でムンクの展覧会が開催されますが、ヒトラーの意向によって近代芸術は『頽廃芸術』の烙印を押され、ムンクの作品82点が押収されてしまいます。
また1940年にノルウェーはドイツに占領され、ムンクの所有地は差し押さえられてしまいました。

そして1943年12月、オスロ港のドイツ軍爆薬倉庫が爆発事故を起こし、爆風によってムンクの家の窓が吹き飛ばされました。このため凍えるような外気に晒された年老いたムンクは気管支炎を発症し、翌年1月23日80歳で亡くなりました。

ムンクの亡骸はオスロ西にある救世主墓地に葬られています。

ムンクの遺言によって彼の所有していた2万点に及ぶ版画や絵画はそのままオスロ市に寄贈されました。

 

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