こんにちは管理人の河内です。今回は前回に引き続き“炎の画家“ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの死の真相について解説していきたいと思います。
前回はゴッホが最期を迎える直前の行動や出来事について見てきました。
少ない資料やゴッホ本人の不可解な言動から、あらぬ噂を呼び事実は煙の中というようなお話をしました。
今回はこうした死の前後の出来事を客観的な証拠や証言などから見えてくる数々の不可解な点と、そもそもゴッホは本当に自殺をしたのか?という核心の問題について見ていきたいと思います。
目次
ゴッホ死の真相③ 自殺説に対するいくつもの謎
前回でも少し触れましたが、ゴッホが銃による傷を負った後、医師による診察を受けた際すでにいくつかの不可解な点が出てきていますが、謎はそれだけにとどまらず当時のゴッホを取り巻く状況証拠や周囲の人々の証言などから数多くの謎が見えてきます。それらをまとめてみていきましょう。
ゴッホの死の謎①
ゴッホを直接診察した医師の診断の結果、銃弾は自分ではかなり撃ちにくい斜めからの角度で撃たれていたことが分かりました。
また銃弾が貫通していないことからある程度距離のある所から発砲された可能性があるというのです。(自分で引き金を引いたなら至近距離なので骨にでも当たらない限り球は貫通するはず)
そもそも自殺する気ならならば頭部や心臓を狙うはずではないのか?という疑問も残ります。
ゴッホの死の謎②
自殺ならばどうして傷を負ったまま宿に戻ったのか?
さらにゴッホは医者に腹を切開して弾を取り出してほしいと治療まで求めている。
ゴッホの死の謎③
ゴッホはどこで撃たれたのか?
通説では墓地近くの小麦畑で自分を撃ったとされているが、実はその場所は特定されていない。
仮に通説通りこの小麦畑だとするとラヴーの宿まではかなりの距離があり、しかも道が急勾配であること、腹部に銃弾を受けた体でしかも夕暮れの暗闇の中を歩いて帰ることは現実的に不可能。だとすれば事件現場はもっと近くの場所ということになる。
またこの小麦畑からラヴーの宿までは人通りの多い道もあり、当日は夏の暑い時期で村人たちは日没後も野外で食事や飲酒、立ち話をしていますがこの長い距離の間にゴッホを見たという証言は出ていません。
逆に宿から見て小麦畑とは反対方向にあるリュ・ブーシェの小農園に向かうゴッホを見たとの目撃証言が複数残されています。
ゴッホの死の謎④
ゴッホを撃ったピストルはおろか、持って出たはずのイーゼルや画材の入ったカバンなどはいまだに発見されていない。
ゴッホの死の謎⑤
そもそもお金を持っていないゴッホが銃をどこでどのようにして手に入れたのか?
小さな町でゴッホにピストルを売ったり渡したりした人物がいればすぐに特定されるはず。
ゴッホの死の謎⑥
実際ゴッホは「撃たれた」のか「自らを撃った」のか、 ゴッホ自身は何も語っていません。
傷を負ったゴッホの元へ駆けつけた際、弟のテオが妻に書き送った手紙でも、兄が自殺を企てたとか、自分がそれを疑っているなどといったことも一切書かれてはいません。
そしてゴッホの部屋から自殺をほのめかす様なもの、たとえば整理整頓がされていたとか遺書であるとかそういったものは一切残されていません。
反対に事件の数日前には、大量の絵の具や画材の注文をしており、事件当日もいつも通り午前中は制作に出かけ普通に昼食まで取っているのです。
以上のことから、そもそもゴッホが自らの腹をピストルで撃ちぬいたこと自体が事実ではなくほかの第三者が撃った事件の可能性を考える方が自然とさえ思えてきます。
ゴッホ死の真相④ 映画「炎の人ゴッホ」が決定付けたゴッホ神話のイメージ
ゴッホの死後40年以上たってからアーヴィング・ストーンという人が著した「炎の人ゴッホ」がベストセラーとなります(1934年)
これによってゴッホの名は一躍世に出ることとなり同時に今でも多くの人が持つゴッホのイメージが形作られます。
そしてその20年後の1953年、ゴッホ生誕100周年でゴッホの名声はゆるぎないものとなります。
さらにその3年後に公開された映画「炎の人ゴッホ」がアカデミー賞を受賞したことでゴッホ神話は決定的となりました。
映画の中で描かれるゴッホの貧しい生活、精神的な病、芸術的苦悩や孤独、こうした悲劇的人生を経て決行された麦畑でのピストルによる最後は、“物語”としては非常に強烈なイメージとして世界中の人々に刻まれたはずです。
こうして“神話”が“事実”となっていったのではないでしょうか。
ゴッホ死の真相⑤ 最重要人物ルネ・スクレタンとは?
ここでこれまで見てきた謎を解くキーマンとしてルネ・スクレタンという人物をご紹介しましょう。
このルネはパリ郊外で育った裕福な薬剤師の息子で、ゴッホと知り合った当時16歳でした。
彼はいわゆる“いいとこのボンボン”で札付きの不良少年として知られていました。
このルネとその兄ガストンは毎年夏に避暑としてこのオーヴェールに滞在していたのです。
彼は仲間を引き連れては釣りや狩りをしたり、時にはパリのムーランルージュから女性たちを呼んで舟遊びなどをしていたようです。
そんな勝手気ままな青春時代を謳歌した彼は、成人してからは銀行家、実業家として成功し射撃のチャンピオンになるなど輝かしい経歴を持つ成功者となっています。
ルネ・スクレタンが1956年82歳の時に映画「炎の人ゴッホ」が公開されました。
しかしその内容があまりにも事実とかけ離れているということで、当時つまり1890年の夏のオーヴェールのことをルネが語っているのです。
その内容はこうです。
その年もルネたちはオーヴェールで夏を過ごしていました。
ルネの兄ガストンは、弟とは正反対の性格で芸術や音楽を愛する繊細な少年でした。
そのガストンが実はゴッホと絵について語り合うなど親しくしていたのです。
そしてルネはその兄を介してゴッホを知ったようです。
“悪ガキ”のルネはこの少し変わり者として知られていた画家をわざと怒らせようとからかったり、かなりひどい悪戯したりしては笑いものにしていました。
そんな中ルネは前年にパリで開かれた万博でアメリカ西部開拓の“ヒーロー”バッファロー・ビルの《大西部ショー》を見た際に買ったカウボーイの衣装を身に着けて38口径のピストルを持ち歩いて「西部劇ごっこ」を楽しんでいたというのです。
と、ここまで見てくるといかがでしょうか?
このルネ・スクレタンという男からなにやら怪しい要素がいろいろ出てきました。
彼の人となりや当時の行動をゴッホの死にまつわる数々の不可解な点と照らし合わせてみると、まるでパズルのピースがピタッと合うようつじつまの合う仮説が見えてくるのです。
それを次に見ていきたいと思います。
ゴッホ死の真相⑥ 仮説:真犯人ルネ・スクレタン?
ではその仮説とはいったいどういうものでしょうか。
前述のようにゴッホが傷を負った場所も時間も正確には分かっていません。
仮に現場が通説となっている小麦畑ではなく、複数のゴッホ目撃証言があるリュ・ブーシェの小農園であったとしてみましょう。
ゴッホが定宿にしていたラヴーの宿からこの農園に通じるシャポンバルの途中には、ルネらがいつも屯する酒場や釣り場がありました。
その途上のどこかあるいは酒場でゴッホとルネが偶然出会うということはあり得ることです。
そこで何かしらのトラブル、例えばいつものようにルネがゴッホをからかい、それにゴッホが腹を立てたり小競り合いになったとか、あるいはお互い酒場で酒を飲んで酔った末にちょっとしたいざこざが起こったかもしれません。
そこで不良少年たちが激高したゴッホを恐れて、あるいは冗談でルネが所持していたピストルを発砲したとしたら…。
その弾がゴッホの腹に命中したのだとしたら?
負傷したゴッホは画材道具一式を置いてラヴーの宿へと逃げ帰ったのではないでしょうか?
そして少年たちはこの出来事(故意が偶然かは別として)に慌ててゴッホの画材やピストルを隠して逃げたのではないか?
ゴッホが負傷した1890年7月27日の夕暮れの出来事をこうしてとらえてみると諸々の矛盾が解決するのです。
負傷したゴッホが画材道具を誰にも見つからないよう処分することは不可能ですが、彼を撃った犯人ならば証拠隠滅を図ろうとしたと考えることができます。
さらに現場がラヴーの宿から見てちょうど真逆の方向にあるため、定説となっている“自殺現場”である小麦畑と宿を結ぶ道中でゴッホを誰も見ていないことを裏付けますし小麦畑を捜索してもピストルやゴッホの所持品など見つかるはずはありません。
またガシェ医師らが診断したように、ゴッホの傷の不可解な点も説明できます。
しかしルネ自身はこのゴッホの銃撃事件について、ゴッホが彼のピストルをこっそり盗んだとか、ゴッホの死はパリに帰ってから新聞で知ったなどと曖昧な供述をしているのですが…
以上はあくまでも推測ですが現時点で考えられるゴッホの死の真相の最も有力な仮説と考えられます。皆さんはどうお感じになるでしょうか?
実際アメリカの学者であり美術史家(特に印象派・ポスト印象派の権威)であるジョン・リウォルドが1930年実際にオーヴェールを訪ね、事件当時そこに住んでいた町の人たちから直接取材した結論としてほぼこの仮説と同じ内容で「若い少年たちが誤ってフィンセントを撃った」「彼らは殺人罪の問われることを恐れて名乗り出ず、ゴッホは彼らを守って殉教者となることを決意した」と語っています。
ゴッホ死の真相⑦ ゴッホは自殺を望んでいたのか?
実はゴッホ自身自殺を望んでいた節があることも事実です。
生前テオにあてた手紙の中で「もし僕がぽっくり死ぬとしたら―たとえそんなことになるとしても僕は避けるつもりはない。無論、わざわざそんなことを求める気もないが」という意味深なことを書いています。
しかし実際にそれまでゴッホがもっと病状が深刻で辛い状況にあった時でさえ、自殺しなかったのはゴッホが自殺は「不正直な人間のやること」と考え手紙などで書いていますし「邪(よこし)」であり「恐ろしいこと」であり「僕は絶対そういう傾向の人間ではない」と日ごろから言っていました。
ゴッホが最後まで自分で撃ったのか、他者に撃たれたのかを曖昧にしていたのは単に少年たちを守る気持ちからとも考えられますが、こうしたゴッホの中で相矛盾する「自死」への渇望と嫌悪が事故であれ不注意であれ実行されてしまったことが、ある意味「願ったりかなったり」だったためかもしれません。
ゴッホ死の真相 まとめ
いかがでしたか?
2回にわたって見てきました“ゴッホの死”についてここまでお読みいただいた皆さんはどのように感じられたでしょうか?
今となっては真実は闇の中であることに変わりはありませんが、通説であるゴッホの自殺説にはあまりにも多くの謎や不可解な点があることはお分かりいただけたと思います。
ゴッホのあまりにも情熱的な作品、激しい性格や波乱の人生を考えると、その結末を小麦畑でのピストル自殺というかたちでで完結させることは物語としては興味深く、それゆえ私たちもすんなり受け入れやすいといえるかもしれません。
しかし実際のゴッホは本当はどう思っていたのでしょうか?
考えても答えが出るわけではありませんが、次回改めてゴッホの絵の前に立った時自分なりの答えを探すのも面白いかも知れませんね。
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