こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのはバロック美術最大の画家、ペーテル・パウル・ルーベンスです。
ルーベンスが活躍したのは17世紀のヨーロッパ。それまで権力の座にあったカトリック教会が衰退していく一方で、各国の王様が力をつけたいわゆる絶対王政の時代でした。
日本ではちょうど戦国時代が終わり、関ヶ原の合戦から江戸時代が始まるころに当たります。
ルーベンスは私たち日本人(40代以上?) にとっては、アニメ『フランダースの犬』でおなじみの画家ですね。
主人公の少年ネロが憧れ、大聖堂で死の間際にようやくその作品を見ることができたあの絵を描いたあの画家です。
↓ワアントワープ大聖堂の『十字架降架』この絵の前でネロは天国に召されます。
当時はルーベンスの作品を見ることがそれほど難しかったのでしょうか?それともルーベンスの作品が希少だったのでしょうか?じつはなんとルーベンスは生涯に2000点以上もの作品群を残したとても多作な画家でした。
しかしそれらは単純に王侯貴族や教会など権力者、上流社会のために描かれたものであり、一般庶民が目にすることがなかったというのが悲しい現実なのです。『王の画家』というのはそういう意味なんですね。
では『画家の王』とは一体どうしてそんな栄誉あるあだ名がつけられたのでしょうか?
そしてそんなルーベンスとは一体どんな人物で、どのような生涯を送ったのか見ていきたいと思います。
目次
ルーベンスってどんな人?
本名:ペーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens
1577~1640年
ルーベンスはバロック美術を代表する17世紀フランドル(現在のベルギー)最大の画家です。
美術史の全体を通してみても、第一級の画家であり、また最も成功した画家です。
若くして才能を開花させ、様々な国で宮廷画家となり、各地の権力者から引っ張りだこの超売れっ子画家でした。
また画家としてだけでなく、洗練された物腰と堪能な語学によって、諸国の宮廷人を相手に外交官としても活躍し、その活動はヨーロッパ各地に広がり名声を博しました。
そんなルーベンスのもとにはヨーロッパ各地の宮廷や教会から注文が殺到し、それらを驚くべきスピードで捌きました。
その数実に2000点。そのため現在でもルーベンスの作品は、ヨーロッパ中の美術館や大聖堂などで見ることができます。
もちろんそんな膨大な数を一人で描いたわけではなく、大工房を作って多くの優れた弟子や助手たちとともに共同制作をしていました。
制作にあたってはその数の多さから、ルーベンスは下絵を描いただけであとは助手が描いたり、最後の仕上げをルーベンスが入れたりするなど分業が行われており、ルーベンス本人の手がどれだけ入ったかによって、絵の値段が大きく変わりました。
そしてアントワープの工房で仕上げられた絵画は、大きいものは丸めるなどしてヨーロッパ各地の顧客の元に送られたのです。
つまりルーベンスは大工房を指揮運営する経営者としても大変優れていたのです。
外交官としてヨーロッパ中を飛び回り、各国の国王や宮廷人と交際し、大きな屋敷に住み、美術史に残る数々の傑作を残す。家庭では8人の子供を持つ良き父親であり夫。そんな出来過ぎなところが『画家の王』と呼ばれる所以です。
ルーブル美術館に展示されている『マリー・ド・メディシスの生涯』の大連作。
ルーベンスの生涯~ざっくりと
ではここでルーベンスの辿った生涯を簡単に見ていきましょう。
「フランドル最大の画家」だとご紹介しましたが、実はルーベンスはドイツで生まれました。
1577年、ドイツのジーケンに、法律家の父のもとに生まれる。
1587年父が亡くなり、母とともにフランドル(現在のベルギー)アントワープ(アントウェルペン)に移ります。
3人の師匠について修行したのち1598年アントワープで画家組合に親方として登録しています。
修行を終えると1600年に当時の美術先進国イタリアに赴き、マントヴァの宮廷に仕えながらヴェネツィア、ローマ、ジェノヴァなどに滞在します。
ここで古代やルネサンスから同時代までの美術を研究し、自らの表現を形成していきます。そして当地で肖像画、宗教画を中心に画家として頭角を現し評価を高めていきました。
1603年 最初の外交任務でスペインを訪問する。
1608年イタリアでの活動を続ける予定でしたが、母の死去に伴いアントワープに帰郷します。
ルーベンスがイタリアにいるときから自らの宮廷に迎え入れたいと狙っていたネーデルランド総督アルブレヒト大公とイザベラ夫妻は、この機を逃すまじと、ルーベンスを宮廷画家に任じました。
以降ルーベンスはこのアントワープを本拠地として生涯活動をします。
1609年最初の妻、イザベラと結婚。
この年、それまで長く続いたカトリックとプロテスタントの宗教戦争に休戦協定が結ばれ、フランドルではカトリックの信仰を強化するために教会堂の再建や新築、祭壇画の制作が盛んに行われルーベンスのもとに注文が殺到します。
1621年ごろからは国外での製作が多くなり、また外交官としても多忙な日々を送ります。
1622-25年 大連作『マリー・ド・メディシスの生涯』を制作。
1624年 妻のイザベラが死去。
1628-29年スペインを訪問し、ベラスケスと親交を持ちます。
1629年 イギリス国王チャールズ1世からナイト(騎士)の位を授かります。
1630年 エレーヌ・フールマンと再婚。
この頃には再び画業に専念し、神話画や宗教画のほかに風景画に新天地を開きます。
1631年 スペイン国王フェリペ4世から騎士の位を授かる。
1635年 ステーンに館を購入。
1640年アントワープで死去。享年62歳。
ルーベンスの生涯について詳しくはこちらの記事をご覧ください。
【『バロック最大の巨匠』ルーベンスの生涯を詳しくご紹介します!】
ルーベンスの代表作
ここではルーベンスの代表作を簡単にご紹介します。
詳しい解説付きの記事はこちらをご覧ください。
「サムソンとでリラ」
185×205㎝ 1609年 ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
「十字架昇架」
中央パネル460×340㎝ 両翼460×150㎝ 1610年ごろ
「十字架降架」
1611~14年 アントワープ大聖堂 中央パネル420×310㎝ 左右翼パネル420×150㎝
「河馬狩り」
1615年ごろ 247×320㎝ アルテ・ピナコテーク蔵
「子供の顔」
37×27㎝ 1618年ごろ リヒテンシュタイン公コレクション
「麦わらの帽子」
79×54.5cm 1620~25年 ロンドンナショナルギャラリー蔵
「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」
394×295㎝ 1622~25年 ルーヴル美術館蔵
ペルスケン(毛皮さん)~毛皮のコートをまとうエレーヌ=フールマン」
175×96㎝ 1635~40年ごろ
「パリスの審判」
145×194㎝ 1632~35年ごろ ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
「虹のある風景」
86×130㎝ 1632~35年 エルミタージュ美術館蔵
ルーベンスの画風と技法
バロックとは?
ルーベンスはバロック時代を代表する画家ですが、ここでバロックの意味をご説明しておきます。
バロック美術とは、16世紀末から18世紀にヨーロッパ中で広まった美術様式の名前です。
絵画だけにとどまらず、建築、彫刻、音楽に至るまで広範な芸術一般に使われますが、特に美術では動的で過剰なまでに装飾的、絵画では強い明暗のコントラストを用いた劇的な表現が特徴です。
バロック(Baroque)とはもともとポルトガル語で『いびつな形の真珠』を表す言葉だったようです。そこから「いびつな」「歪んだ」「誇張された」などの意味合いが派生し『異常な』『悪趣味な』と言った否定的な意味合いがありました。
それが示すように、バロック美術はヨーロッパ宮廷文化を背景にした、装飾過多な表現によって見る者を圧倒し、感情を揺さぶるようなドラマチックな様式といえます。
バロック様式の建築↓
バロックの体現者ルーベンス
ルーベンスの画風は何といっても演劇的で動きのあるダイナミックな構成と、生き生きとした人物表現、放漫な女性の裸体表現、きらびやかな宮廷装飾などゴテゴテのまさに「ザ・バロック」と言った感じですね。
『宗教画』『神話画』だけでなく、『マリー・ド・メディシスの生涯』に代表されるように、彼の生きた同時代の人物や出来事までも、神話を紡ぐかのような壮大なスケールと演出で表現しました。
その圧倒的な画力によって描かれたスケールの大きさと幅の広さ、迫真のリアリティは、権力者たちの威光を最大限に誇示し『王の画家であり画家の王』と呼ばれるにふさわしい表現だったのです。
ルーベンスの画風と技法
『どれだけ絵が大きくても、どれだけ題材が多様でも、私に描けないものはない』と豪語するほど神話画、宗教画、歴史画、肖像画、風景画などあらゆるジャンルの作品を制作しました。
ルーベンスの手掛けた作品は当時考えられるすべてのジャンルにわたっていると言ってもよいでしょう。
上述のように、ルーベンスの画風の特徴はバロック美術の特徴であり、そのスケールの大きさと動的でドラマチックな構成、過剰なまでの装飾と演出にあります。
それはまさに演劇のクライマックスのワンシーンを見るようであり、登場人物たちはそれぞれの役を迫真の演技で演じ、見る者の感情を揺さぶります。
また忘れてはならないのが『女性たち』です。ルーベンスの描く女性は、現代では完全なメタボ体型。しかし肉感的でふくよかすぎるその肢体は、ルーベンスの趣味というよりは、当時は富と健康の象徴であり、『美』の基準だったのかもしれません。
ここからオランダでは、このような女性を「Rubenslaas」(ルーベンス風)と呼び日常的に使われているそうです。
また一方で、ルーベンスは自らの妻や子供たち家族を描いた作品も多く残しています。それらは、『王の画家』として描いたものとは違う、自愛のこもった優しい夫、父親のまなざしで描かれています。
こうしたルーベンスの画風は天性の才能はもちろんですが、イタリア滞在で得た古代様式、ルネサンス様式などを吸収して生まれたものです。古典に学び、独自のダイナミックな表現と故郷フランドルの伝統である緻密な写実表現が融合して生まれました。
そしてそれらを驚くべきリアルさで表現する技術力、圧倒的な人物描写を可能にするデッサン力は美術史上でもピカ一です。
簡単に描いた下書き用の線描などが多く残されていますが、それらはすでに生き生きと迫力に満ちています。
管理人が学生の頃、師匠に「歴史上一番デッサンが上手いのは誰でしょう?」と質問したところ「ルーベンス」との答えが返ってきました。当時の私はまだあまりよく分かりませんでしたが、勉強のため色んな模写などをする中でルーベンスの偉大さが分かるようになりました。
ルーベンスまとめ
いかがでしたか?バロック最大の巨匠ピーテル・パウル・ルーベンス。彼の才能、生涯、作品すべてにおいてこれほどの存在感を放つ画家は美術史上他にはいないといっても過言ではありません。まさしく『王の画家にして画家の王』と呼ばれるにふさわしい画家でした。
パリのルーブル美術館をはじめ、世界中の名だたる美術館に彼の作品が収められていますので、旅行などで作品の現物を見て圧倒された方も多いのではないでしょうか?
現代のような映像技術やCGも3Ⅾもない400年前に、彼の作品を見た当時の人たちはきっと少年ネロのように天国をまざまざと見た感じがしたと思います。
今秋から上野の国立西洋美術館で『ルーベンス展~バロックの誕生』として展覧会が開催されますので興味を持たれた方は是非実物を見に足を運んでみてください。
http://www.tbs.co.jp/rubens2018/
【ルーベンスに関するこの他のお勧め記事】
・『バロック最大の画家』ルーベンスの生涯を詳しくご紹介します。
この記事へのコメントはありません。