こんにちは。
管理人の河内です。
今回はカミーユ・ピサロの人生をご紹介する後編です。
印象派の立役者となったピサロはその後どのような変化をしていくのでしょうか。
前半の記事はこちら⇒【『印象派の父』と呼ばれた画家カミーユ・ピサロの生涯の生涯を詳しくご紹介します】
目次
ピサロの生涯④ 1870年代~“印象派”の時代へ
1870年『秋』と『風景』の2点が入選し、批評家たちから「将来、風景画の巨匠となるだろう」と好評をえますが、これがピサロにとって最後のサロンとなりました。
この年ピサロ一家はモンフーコーへ移ります。
10月に娘のアデル=エマが生まれましたが生後三週間で亡くなりました。
12月普仏戦争を逃れてロンドンに移ります。そこでドービニーと再会し彼から画商のポール=デュラン=リュエルを紹介される。彼はピサロをはじめ印象派画家たちの重要な画商となりました。
同じくロンドンに来ていたモネと一緒に美術館を周りイギリスの画家ターナーやコンスタブルの作品に感銘を受けます。
1871年6月にピサロはジュリーと正式に結婚。
一家はル―ヴジェンヌに戻りますが、家はプロセインに荒らされていました。
11月4人目の子どもジョルジ=アンリが誕生。
1872年画商のデュラン=リュエルがピサロの絵を22枚、5600フランで購入し初めて経済的に自立します。また作品が競売に出されても売れるようになります。
1872年から82年までポントワーズに滞在し、のどかな田園風景やそこに生きる人々の日常の光景を誇張することなく描いています。
ポントワーズには友人画家たちも多く訪れ一緒にイーゼルを並べることもありした。
特にセザンヌとはお互いに影響し合い、人付き合いが苦手で気難しいセザンヌを第一回印象派展に誘い入れたりもしました。後にセザンヌは「ピサロは私にとって父のような存在だった。相談相手で神のような人だった」と語っています。
しかし74年から86年はまたも経済的に苦境に陥りますが印象派展によって実りの多い時期でもありました。
1873年『画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社』設立に参加。
30人もの芸術家が署名し、翌74年キャピュシーヌ大通りにある写真家ナダールのスタジオで後に『印象派展』と呼ばれる展覧会が開催される。(86年まで計8回開催され、ピサロがただ一人すべての展覧会に参加しました)
この時批評家のルイ・ルロワがモネの作品『印象・日の出』を揶揄したことばから後に「印象派」と呼ばれるようになりました。
しかしこの展覧会は批判の的となり、赤字になった『共同出資会社』は12月には解散となってしまいました。
画商のデュラン=リュエルも資金難に陥りピサロの作品購入を中断してしまいました。
そのためまたもピサロは経済的に厳しくなり、友人のデュレから援助を受けたりもしました。
また1875年友人画家のビエットが所有するモンフーコーの農場に滞在し、農村の風景や農民たちの日々の様子を描くようになる。
そのころピサロ夫妻は9歳になる娘ミネットを亡くす悲劇にみまわれますが、翌年ジュリーが妊娠し息子のフェリックスが生れています。
1876年第2回目の『印象派展』がデュラン=リュエル画廊で開かれ、ピサロはポントワーズとモンフーコーの風景画を12点出品します。
しかしこの時もまた彼らは批評家たちから酷評を受けます。ピサロの絵は未完成で奇妙な色合いの作品で「これらの風景はみな一様に、青、黄、紫で見る者を当惑させる。このような自然が、世界のどこにあるのだろうか」と非難されました。
そんな中、作家で友人のエミール・ゾラは「柔らかく色とりどりの彼の風景画には、素人を驚かせる側面がある。~しかしそこには非常に大きな才能と、自然に対する個性的な解釈が見られる」と熱心に擁護しました。
さらに批評家のルイ=エドモン・デュランティが印象派をはじめて本格的に分析した『新しい絵画』を出版するなど彼らを認め始める動きも出つつありました。
しかしピサロの経済的苦境はますます悪化します。
「いつになったらこの窮地から抜け出し、仕事に専念することが出来るのか!」と嘆き、ジュリーは「私はあまりにも不幸です。いつもお金がなく、すっかりやつれてどうしようもなく惨めです」と愚痴をこぼしています。
1873年から住んでいたパリの家を手放し、画家カイユボットのおかげでポントワーズの自宅の財産の差し押さえは免れました。そしてより簡単に売ることが出来る陶製タイルに絵を描く仕事も始めました。
ピサロの生涯⑤ 印象派の分裂
翌1877年第三回印象派展が開かれピサロはポントワーズとモンフーコーの風景画を22点出品し、代表作である《マチュランの庭、ポントワーズ》が医師のジョルジュ・ド・ベリオによって購入されました。
この展覧会でグループは、ドガは反対しましたが初めて自分たちを“印象派”と名乗るようになります。(実際ドガの技法は印象派というより伝統的なものでした)
そしてモネの『サン・ラザール駅』やルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』などが注目を集め、ピサロを擁護する批評家も出始める時期です。
しかしルノワール、シスレー、カイユボットらと共に作品を競売に出すも安値で叩かれ失敗におわり、ピサロは新しい顧客を求めてパリ中を駆けまわりました。
1879年印象派内で対立が起こります。
作品の売れ行きが芳しくないとルノワールやシスレー、モリゾなどがサロンへ復帰したのです。もともとサロンに抵抗する形で始まった印象派でしたが、やはりパリで絵が売れるにはサロンで認めてもらうことが王道だったのです。そして第4回展ではドガがサロンへ出品したものは、参加させないと主張しルノワール、シスレー、セザンヌなどが参加せず、名称も『アンデパンダン展(独立派展)』としました。
この夏、ポール=ゴーギャンがポントワーズのピサロのもとを訪れます。
当時のゴーギャンはまだ裕福な株式仲買人で印象派の作品を収集していたのです。
そして趣味として熱心に絵画や彫刻の制作に励んでいましたが、ピサロはセザンヌの時と同じくいち早くゴーギャンの才能を見抜いていました。
1885年までピサロはゴーギャンに助言と励ましを与え、ゴーギャンは緻密で細かいタッチと明るい色調など印象派の手法を学びました。
またこの頃ピサロはドガと共に版画の技法を研究しています。
1880年第5回印象派展が開催されピサロはエッチング(銅版画)を出品します。
この展覧会はドガを中心に開催されましたがモネも参加せず、翌6回展ではカイユボットが離脱します。
この年デュラン=リュエルは再びピサロの作品を積極的に購入しはじめる。
1881年第6回印象派展開催。
8月ポントワーズで7人目の子どもジャンヌ=マルグリット(通称ココット)が生まれる。
1882年、この年画商デュラン=リュエルが融資を受けていた銀行が破たんしリュエルが破産。ピサロと仲間たちは彼を支援するために第7回印象派展を開催します。
経済的に苦しい中にあってもデュラン=リュエルはピサロの作品を買い続け、83年にピサロの初個展を開きます。70点もの作品が展示されたこの回顧展は大成功に終わりました。
しかしこの頃からピサロは風景画より人物画へと関心が移り多くを描きますが批評家たちからはフランソワ・ミレーの模倣だと非難されます。
1884年4月エプト川沿いの田園地帯にある小さな村エラ二―に引っ越す。
ピサロの生涯⑥ 晩年~印象派から新印象派へ
1885年はじめ、ピサロは画家ギヨマンの紹介でシニャックとスーラと知り合いました。当時スーラは様々な科学的色彩論について学び、代表作『グランド・ジャッド島の日曜日の午後』を制作中でした。
ピサロ自身80年ごろから対象を細かい点の集合で描く表現を模索しており、スーラの“点描”に魅了されました。
1886年最後の印象派展(第8回)に40点の作品を出品する。
この時にピサロはスーラたち“新印象主義”の画家たちを参加させようと“印象派”の仲間たちを説得するために尽力しますが、結局モネやルノワール、シスレーたちは“新印象派”には否定的で参加しませんでした。
この時期ヴァン・ゴッホの弟で画商のテオとも取引をしていたピサロは、ゴッホの療養のためにオーヴェール=シュル=オワーズに住むガシェ医師をテオに紹介しています。
1889年母のラシェルが亡くなる。
1890年ゴッホの弟テオが積極的にピサロの作品を購入し、ピサロの個展を開催する。
この頃にはピサロは時間と手間のかかる点描画法を放棄しもとのスタイルに戻ります。
また息子のジョルジュに会うためロンドンに行く。
1891年スーラが若くして亡くなる。
1892年画商デュラン=リュエルによってピサロの大回顧展が開かれ成功をおさめます。
しかし目の病気が再発し風にあたると酷く傷むようになったため戸外での制作が難しくなりアトリエでの制作が増えるようになります。
そして風景からピサロの興味は人物へ移っていき『裸婦』や「水浴する人」などのテーマに没頭するようになる。
1897年の終わりごろにピサロはパレ・ロワイヤル広場に面したグラン・ドテル・デュ・ルーブルに部屋を借り窓から見える風景を描く。
1899年友人のシスレーが亡くなり深い喪失感を味わう。
1900年初めにシテ島のアパルトマンに移り住む。
1902年エミール・ゾラが亡くなりピサロは深い悲しみに沈みます。
1903年9月に自宅の階段で倒れ、前立腺の感染症で11月13日に亡くなりました。
享年73歳。パリのペール―=ラシェーズの墓地に埋葬される。
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