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「20世紀の巨人」パブロ・ピカソの生涯を詳しくご紹介します。

こんにちは。管理人の河内です。

この記事ではパブロ・ピカソの生涯について年代を追ってご紹介したいと思います。

「20世紀最大の芸術家」と言われるピカソは、様々なエピソードに満ちた光も闇も強い人生を送りました。

目次

ピカソの生涯① 出生、バルセロナからパリへ

パブロ・ピカソは1881年10月25日、スペインの町マラガのプラサ・デ・ラ・メルセドに生まれました。

難産で、生まれた時は息をしておらず、葉巻の煙を鼻に吹き込まれてはじめて産声をあげたといいます。

父は画家で教師のホセ・ルイス・ブラスコ。母はマリア・ピカソ・ロペス。

ピカソは後にこの母方の名前を名乗ります。

ごく幼少期から傑出した絵の才能を発揮します。

1895年、一家は当時芸術の中心であったバルセロナに移住。

ピカソはラ・ロンハ美術学校の上級クラスに入学しますが、98年病気療養のため学校を離れ田舎で暮らします。

1897年には父の指導を受けて描いた「科学と慈愛」↓がマドリードの国展で佳作を受賞します。

バルセロナの知的で自由な空気の中、ピカソはカフェ「四匹の猫」に通い詰め仲間たちと哲学や芸術論を語り合いました。

1900年パリを訪れ、その後パリとバルセロナを行き来します。

当時前衛芸術の中心地であったパリでピカソはあらゆる様式の芸術に触れ吸収します。

マックス・ジャコブら詩人たちと交流。

ピカソの生涯② 青の時代(1901年~1904年)

友人カルロス・カサヘマスが恋に破れて自殺したことに大きなショックを受け、

ピカソは苦悩し鬱屈した精神を表現するように青を基調とした作品群を制作します。

盲人や娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々を描き絶望や孤独、貧困などあらゆる苦悩が象徴されています。

ピカソの生涯③ バラ色の時代(1904~1907年)

1904年若く貧しい芸術家たちが住み着いたアパート「洗濯船」に移り住みます。

そこでフェルナンド・オリビエと知り合い、交際を始めて作品の色調は暖かで明るくなっていきます。

サーカスの旅芸人やその家族を多く描きました。

このバラ色の時代を通して、ピカソの評価は高まり富と名声を得ていきます。

 

ピカソの生涯④ キュビズムの時代

1907年「アヴィニョンの娘たち」を制作。

アフリカ部族の面や彫刻からの影響と、セザンヌの多視点によるものの捉え方などを取り入れた「アヴィニョンの娘たち」を皮切りに後にキュビズム(立体派)と呼ばれる手法を開発します。

 

この衝撃的な作品に周囲から「とうとうピカソは狂った」と酷評を受けますが、時が経つにつれて評価が高まります。

 

またこの作品に衝撃を受けたブラックはその斬新さに強く魅かれピカソと共同でキュビズムの研究を行い、冬はパリで夏は田舎で共同生活をして制作に没頭しました。

 

セザンヌの風景画の模写のような作品から始まり、よりモチーフを徹底して分割し再構築するという「分析的キュビズム」、その後装飾的でコラージュなども使った総合的キュビズムの時代へと展開していきます。

1911年 ルーヴル美術館から「モナ・リザ」が盗まれピカソが容疑者の一人として逮捕されるもすぐに釈放されています。

1912年モンパルナスへ移る。

新しい恋人エヴァを連れてアヴィニョンに出かけるなど、フェルナンドとの関係が破たんします。

1914年第一次世界大戦の勃発により、ブラックは軍に入隊したことで二人の実り多き共同生活は終わりを告げます。

その後アポリネールら友人たちも次々と志願しますが、ピカソはスペイン人であり反戦論者でもあったため志願はしませんでした。

次第に孤独になる中、恋人エヴァが結核で亡くなります。

 

ピカソの生涯⑤ 新古典主義~シュルレアリスム時代

1917年、ジャン・コクトーの依頼で「ロシア・バレエ団」の美術、衣装を手掛けます。

その公演に同行しパリ、バルセロナ、ローマなどを回りました。

その途上バレリーナであったオルガ・コクローヴァと知り合い翌年結婚。

オルガはロシア将軍の娘で貴族の出身であったことから、ピカソも上流階級との交流を持ち、彼の作品は飛躍的に販路が広がりました。

しかしこの結婚自体がピカソにとって社交界への足掛かりとするための打算的なものだったようです。

 

二人の間に生まれた子供とオルガをモデルに「母と子」など、オルガの希望もありキュビズム的表現は影を潜めどっしりとした量感を持たせた新古典主義のスタイルに変更。

 

1920年代中盤オルガと不仲になる中、その精神的不安を表すかのように、当時始まった芸術運動「シュルレアリスム」に影響を受け非現実的な人物や世界を描くようになります。

1927年マリー・テレーズと出会い交際を始める。

1930年代には彫刻やオブジェなども多数制作。

1932年 マリー・テレーズと住み始める。

1936年 スペイン内乱勃発。

ピカソはフランコの軍事的反乱に対し、共和制政府を支持します。

人民戦線政府の依頼によりプラド美術館長に就任。

パリ万国博のスペイン館の壁画制作の依頼を受ける。

 

1937年 内戦中のスペインでドイツによる空爆が起こる。

その報を聞いたピカソは抗議の意思を表すため、パリ万博用に制作中の作品を取りやめ急遽「ゲルニカ」制作。

ピカソの生涯⑥ 晩年

1939年 ニューヨーク近代美術館で大規模な回顧展が開かれる。

1940年 ナチス占領下のパリに戻る。

1943年 まだが学生だったフランソワーズ・ジローと出会いその後同棲生活を始めます。

二人の間にはクロード、パロマという二人の子供をもうけますが、フランソワーズはピカソの支配欲の強さに耐えられず、子供たちを連れて家を出ます。

今まで捨てることはあっても捨てられることのなかったピカソはこのことに大きなショックを受けます。

しかしまたすぐにジャクリーヌ・ロックを見初め交際。

1944年8月、パリはドイツ軍から解放されピカソは共産党に入党します。

 

1950年代にはベラスケスの「ラス・メニーナス」、ドラクロワ「アルジェの女たち」、マネ「草上の食卓」など古典をモチーフにアレンジした一連の作品を多く残します。

60年代後半、最晩年はそれまでたどった彼のスタイルの混合作品のような作品を描いたり、エロティックな女性を描く銅版画などを数多く制作しましたがこの時すでにピカソは過去の人となっていました。

周囲からは辛辣な批判を浴びますが、ピカソ自身は「この歳になってやっと子どもらしい絵が描けるようになった」と語っています。

1961年79歳でジャクリーヌ・ロックと正式に結婚。

ムージャンのノートルダム・ド・ヴィに移ります。

1970年バルセロナ・ピカソ美術館開館。

1973年死去。

 

【ピカソの関するお勧め記事】

是非こちらも合わせてご覧ください。

・「20世紀最大の巨人」パブロ・ピカソとは一体どんな画家だったのか?詳しく解説します?。

・「美術の革命」ピカソの代表作を解説付でご紹介します。

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・創造と破壊!ピカソの画風とその変遷をたどります。

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