この記事では20世紀美術の巨匠、アンリ・マチスの生涯を年代を追って詳しくご紹介します。
天才ピカソに匹敵する才能と言われる「色彩の魔術師」は、一体どのような人生を送ったのでしょうか?
目次
マチスの生涯① 出生~画家を目指す修行時代
1869年12月31日、フランス北部ノール県のル・カトー=カンブレジで、帽子店を営む母アンナと服地店員の父エミールの間に長男として生まれました。
一家はマチスが生まれてほどなく、ホアン=アン=ヴェルマンドワに移り、ドラッグストアを営みマチスはそこで育ちました。
1887年父の意向でパリへ出てパリ大学で法律を勉強し、その後サン・カンタンの町の法律事務所で書記として働きはじめます。
1889年虫垂炎で入院中に、母親の勧めで絵画と出会います。
絵の魅力に取りつかれたマチスは、退院後仕事をしつつもカンタン・ラトゥールの画塾へ通い始めます。
日々の生活にうんざりしていた彼は「楽園のようなものを発見した」「絵を描き始めると天国に送られたような気分だった」と語っており絵画に心の静穏と平安を見出し画家へ転向する決意をします。
父親はマチスが画家になることに反対でしたが、ようやく許しを得るとパリへ戻ります。
そこで私立美術学校アカデミー・ジュリアンで当代随一のアカデミック画家アドルフ・ブーグローに師事します。
↑ウィリアム・ブグローいかにも大先生という風貌ですね(^^;)
シャルダンやプッサンなどの古典の巨匠からアカデミックな絵画の基礎を学びますが、マチスの目指す方向性とは合わず結局は1年でアカデミーを去ります。
その後1892年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)を受験しますが不合格。
しかし彼の情熱に打たれた教授であり象徴主義の大家であった、ギュスターヴ・モローから非正規ではありましたが指導を受けるようになります。
↓モローの作品。
モローはルーブル美術館での模写などを通して過去の作品を学ばせる一方で、学生たちに自由に絵を描かせており、この頃すでに「君は作品を単純化するだろう」とマチスに言っていて、すでにマチスの本質を見抜いていました。恐るべし…
そこで生涯の友人となるジョルジュ・ルオーやアルベール・マルケと出会います。
ギュスターヴ・モロー自身は象徴主義の画家として知られていますが、アカデミックなやりを押し付けることはせず、学生たちに自由に絵を描かせ、マチスの色彩画家としての才能を見出します。
マチスの生涯② フォーヴィズム時代
1894年 キャロライン・ジョブロウとの間に娘のマルグリットが産まれる。
1896年ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールのサロンに4点の作品が展示されプロの画家として踏み出します。
1898年アメリ―・パレイルと結婚。
新婚旅行で訪れたロンドンでターナーの作品に出合い感銘を受ける。
1899年長男ジャン、1900年次男ピエールが生まれる。
サンミッシェル河岸のアパルトマンに居を構える。
この頃アンドレ・ドランやジャン・ピュイらと出会い、またゴッホ、セザンヌらの強い影響を受けて独自の表現を模索する。
1904年 アンブロワーズ・ヴォラールで初めての個展を開く。
新印象主義のポール・シニャックの影響で、点描を用いて「豪奢、静寂、逸楽」を制作。
フォーヴィズム表現が確立する。
1905年、マルケ、モーリス・ド・ブラマンク、アンドレ・ドランらとともにサロン・ドートンヌ(秋のサロン)に出品。
「絵画の錯乱」「言語に絶する幻想」と評され、その大胆で自由な色彩表現は、野蛮な色彩と受け取られ「野獣(フォーヴ)」と呼ばれました。
この頃ロシアの富豪シチューキンやアメリカのスタイン兄妹など、新しく生まれた新興国のコレクターたちにその先進性を認められます。
実際にフォーヴィズムとして活動したのは3年ほどで、それ以降は慰めや幸福感を生む作品を作り続けました。
マチスの生涯③ フォーヴィズムを越えて~光の発見~古典回帰
1906年 大コレクターのガートルード・スタインのサロンでピカソと出会う。
ピカソとは終生友人であり良きライバルでありました。
アルジェリアを旅し、アフリカのアートに影響を受けるようになります。
この頃にはスタイン、モロゾフなどのパトロンを得て、経済的に余裕が出てモンパルナス駅から10分ほどのイッシ―・レ・ムリノーに大きなアトリエを借ります。
1907年~ 若手芸術家の育成を目的に、美術学校を開きます。(2年で止める)
1909年、ロシアの富豪でマチスのパトロンであったシチューキンのモスクワの私邸を飾るためダンスを制作。
1910年イスラム文化の展覧会を見て影響を受ける。
スペイン、ロシア、モロッコを旅し、地中海とは別の装飾的なアラベスクや自然の光を見出します。
特にモロッコのタンジールでの経験がその後の創作に強く影響を与えました。
1914年第一次世界大戦勃発。
友人たちのことが気に掛かり絵をほとんど描けなくなる。
その代わりにエッチングとヴァイオリンの練習に没頭します。
1916年以降、冬の間を南仏リヴィエラ海岸のニースで過ごすようになります。
南仏のまばゆい陽光を受けて、マチスは色彩と光がマチスの最大のテーマとなる。
1910年代後半には、彼の作品にピカソと並ぶほどの値がつくようになります。
この頃フォーヴィズムの荒々しさは影を潜め、古典的な表現へと回帰する。
1921年フランス政府によって作品が買い上げられたことによって、マチスの公的な評価が確立します。
1925年レジオンドヌール勲章シュバリエ章を授与される。
1930年タヒチ、アメリカを訪れる。
1931年 詩人マラメルの詩集の挿絵やバーンズ財団のために壁画「ダンス」を制作。
1937年モンテカルロのロシア・バレエ団によるショスタコーヴィチ「赤と黒」上演のため舞台美術と衣装を担当。
マチスの生涯④ 第2次大戦~晩年
1939年 第二次世界大戦が勃発。
ブラジルへの移住を図るもドイツ軍の侵略によって、パリに留まらざるを得なくなる。
ロシア人女性のリディア・デレクターズカヤとの交際がもとで離婚。
1941年十二指腸癌の手術を受ける。
↑ベッドで制作するマチス。晩年マチスはこうした大病のため車椅子の生活のとなります。
マチスの妻と娘マルグリットがレジスタンス運動に参加してゲシュタポに一時拘束される。
ニースの豪華なホテル・レジーナのスイートルームを借り切り病後の回復に努める。
イタリア軍のニース進駐や空爆により、マチスはヴァンスに移る。
1948年ヴァンス、ドミニコ会修道院のロザリオ礼拝堂で、マチスの集大成ともいえるステンドグラスなどの装飾を手がける。
1950年ヴェネツィア・ビエンナーレ絵画部門最優秀賞を受賞。
1952年 ル・カトーにマチス美術館が設立される。
1954年 ニースで永眠。享年84歳。
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