こんにちは。管理人の河内です。
この記事ではルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯について年代順にみていきましょう。
なにせ500年も前に生きた人物なので、資料はそう多くはないと思いきや、さすがは生前から天才として知られていた人物だけに、自身も画家であった伝記作家ジョルジュ・ヴァザーリの残した「芸術家列伝」をはじめ様々な資料や研究によってレオナルドの送った人生の輪郭が見えてきます。
万能の天才は一体どのような人生を送ったのでしょうか?
目次
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯① 出生から修行時代
1452年4月15日、イタリア半島中部フィレンツェ共和国の郊外にあるヴィンチ村で裕福な公証人※のセル・ピエーロと農夫の娘カテリーナとの間に私生児(婚外子)として産まれました。
「ダ・ヴィンチ」とは「ヴィンチ村出身の」という意味です。
※公証人とは今でいう弁護士と会計士を合わせたような職業で、公の文章作成など扱い社会的地位は高かったようです。しかし婚外子として産まれたレオナルドはその家業を継ぐことはできませんでした。
幼少時の詳細は分かっていませんが、5歳ころまでは母と一緒に暮らしていたようです。
その後父が名家の娘と正式に結婚しますが、二人に子供が出来なかったためレオナルドは実母から引き離され、父に引き取られて父夫婦と暮らすようになります。
豊かな自然の中で少年期を過ごしたレオナルドは、自然現象に飽くなき興味を示し鋭い観察眼をもっていました。
1466年14歳のときに、父の尽力もありフィレンツェに出て当代随一の画家・彫刻家として名を成していたヴェロッキオの工房へ入門します。
当時の工房では一度に多くの注文を捌くために、多くの弟子たちや雇われ画家などが一丸となって絵画、彫刻の制作にあたりました。
そこでレオナルドは、ギルランダイオやボッティチェリらルネサンスの数々の巨匠たちと共に仕事をし、絵画だけでなく彫刻、冶金、建築、設計、工学とあらゆる分野の知見を得ていったのです。
そして20歳の頃、有名な「キリストの洗礼」で左隅に描かれた二人の天使のうち左側を若きレオナルドが担当しました。
そのあまりの出来栄えに、師匠ヴェロッキオは以降絵筆を執らなかったと言われています。
↓左下の天使の左側がレオナルド、右が師匠ヴェロッキオの手になる。
またレオナルドは美少年であったことから、ヴェロッキオの絵画や彫刻などのモデルも務めています。
↓このヴェロッキオ作「ダヴィデ像」のモデルが、若き日のレオナルドと言われています。
20歳になるころには、その技術の卓抜さで聖ルカ組合(ギルド)からマスター(親方)の資格を受けていますが、その後もしばらくはヴェロッキオの工房に留まり仕事をしていたようです。
1476年、24歳のとき同性愛の疑いをかけられ拘留されています(すぐに釈放)『サルタレッリ事件』。
当時カトリックの教えで同性愛は犯罪でした。
1481年にフィレンツェ郊外のサン・ドナート・ア・スコペート修道院から祭壇画「東方三博士の礼拝」の注文を受けます。
レオナルドは約7か月の間この絵の制作に没頭しますが、理由は不明ですがミラノへ行ってしまったため途中で中断されました。
↓「東方三博士の礼拝」下絵の段階で放棄されました。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯② ミラノ時代
1482年にミラノ公国に向かい、以降この地で99年まで宮廷芸術家として17年間活動しました。
当時の納税記録から、実母エカテリーナをミラノに呼び寄せ最後を看取ったようです。
1490年、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァの命により初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像を手掛けます。
しかし例によってその製作には数年を要したうえ、粘土による原形を成形しただけで、鋳造用に用意されたブロンズがフランスとの戦争のために武器・砲弾の材料として徴用されたために結局は未完成に終わりました。
その粘土像も、1499年には第2次イタリア戦争でイタリアに侵攻してきたフランス軍により破壊されてしまいました。
このミラノ滞在期間中、画家として「岩窟の聖母」「最後の晩餐」をはじめスフォルツァ宮廷の人々の肖像画「白テンを抱く貴婦人」「ベル・フェロニエール」「音楽家の肖像」などを制作します。
また建築家としてミラノ大聖堂のドームやパヴィア大聖堂の設計に関わり、そのほか舞台装置デザイナー、宮廷舞台劇の演出などの仕事をしています。
そして土木、建築、機械工学、数学などあらゆる分野の研究を推し進め膨大な手稿を残したのもこの時期でした。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯③ フィレンツェ時代
1499年フランス軍の侵攻にミラノ公ルドヴィーコ率いるミラノ軍は敗北し、レオナルドは弟子らと共に一時ヴェネツィアへと避難したあと1500年に17年ぶりにフィレンツェへと帰還します。
1500年~06年までフィレンツェに滞在。
1501年レオナルドはサンティッシマ・アヌンツィアータ修道院で祭壇画「聖アンナと聖母子」の画稿を公開すると、それを見るために老若男女が列を作って押しかけ、誰もがそれを見て驚嘆したとヴァザーリは書いています。
1502年には教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事土木技師としてウルビーノなどを8か月間従軍します。
その後フィレンツェ共和国政庁の依頼で、ヴェッキオ宮殿(フィレンツェ市庁舎)の大会議室を飾る大壁画「アンギアーリの戦い」を手掛けます。
これは当代随一の天才画家、レオナルドとミケランジェロを同じ広間の向かい合った壁に壁画を描かせて競わせようと目論まれたものでした。
ですがレオナルドの実験的な描き方が上手くいかず、絵具が剥がれ落ちるなどしたために途中で制作が中断となってしまいました。
一方、ミケランジェロも教皇庁より招聘されてローマへと旅立ってしまい、この世紀の天才直接対決は未完に終わりました。
それらの作品は、現在では後世の画家が部分的に模写したしたものが残るだけです。
↓バロック時代の大画家ルーベンスによる部分模写。
1504年。父セル・ピエーロが死去。
その後兄弟間で遺産の相続をめぐりいざこざがあったようです。
1513年からは弟子のサライやメルツィらとともに、教皇レオ10世の弟、ジュリア―ノ・デ・メディチの招きでラファエロやミケランジェロが活躍していたローマに赴き、バチカンのヴェルベデーレ宮に滞在。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯④ 晩年
1516年フランス国王のフランソワ1世に招かれて、アンボワーズ城近くにクルーの邸宅を与えられ、そこで最後の3年間を過ごします。
↓晩年を年過ごしたクルーの館
その時にレオナルドが携えて行き、最後まで手もとに置いていたのが「モナ・リザ」「聖アンナと聖母子」「洗礼者ヨハネ」の3点でした。
そこでフランソワ1世によって買い上げられたため、イタリア人であるレオナルドの最重要作品「モナ・リザ」がフランス所有になったのです。
1519年67歳で死去。
レオナルドが書き溜めた膨大な手稿は、忠実な弟子フランチェスコ・メルツィに託されましたが、後年様々なかたちで編纂され世界中に散逸してしまいました。
↓レオナルドの死を悲しむフランソワ1世(アングル作)
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