こんにちは。管理人の河内です。
今回はトゥールーズ・ロートレックの生涯を詳しく辿ってみたいと思います。
名門貴族の嫡子として生まれながら、幼くして体に障害を持ってしまったために父親からは疎まれ、世界から疎外感を感じながら生きたロートレック。しかしパリにでて、画家となって同じように苦しみながらも強く生きていく女性たちとの交流と通して独自の表現を確立していきました。
目次
ロートレックの生涯① 出生~少年時代
アンリ・トゥールーズ・ロートレックは1864年11月24日、アルフォンス・トゥールーズ・ロートレック=モンファ伯爵夫妻のもとに長男として生まれました。
ロートレック家は、フランスで最も古い歴史を持つ貴族の家柄で、その歴史はブルボン王家よりも古く1000年の歴史を持つ由緒正しい家柄でした。祖先の中には十字軍で戦ったものもいるといいます。
19世紀末のフランスでは貴族階級は政治的な影響力はほとんど失っていましたが、一族は裕福でフランス南西部のトゥールーズにほど近いアルビ近郊に土地を所有し、パリにもアパートを保有していました。
ロートレックはこどもの頃から虚弱な体質でしたが、家族からは『小さな宝石( Petit Bijou )』と愛情をこめて呼ばれえるほど愛らしいこどもでした。
父のアルフォンス伯爵(↓)は、類を見ない変わり者として知られ、軍人であった祖先の真似をして鎖帷子を着て楽しんだり、狩猟や女色にうつつを抜かし家族を顧みない人物でした。
反対に母アデール・タピエ・ド・セレイランは、物静かで敬虔な女性で、ロートレックに生涯深い愛情と庇護を与えた優しい母親でした。息子が後年アルコール依存症になってからは看病し、最後を看取りました。
夫妻は従兄妹同士であり、アンリはそうした近親婚のためか生まれつき虚弱で骨が弱い体質で生まれました。
1872年、ロートレックが9歳の時に一家はアルビからパリに移り、リセ・フォンターヌに入学します。
フランス語、ラテン語などを学びかなり優秀でしたが、2年の時にひどい神経衰弱になったため、学校へは行けず家庭教師を雇って家で勉強をしました。
事件が起こったのは1878年、5月30日、ロートレックが14歳の時、椅子から落ちて右の大腿骨を骨折し、さらに翌年小さな溝に落ちて反対の左大腿骨を骨折してしまいます。この2度の骨折によって、ロートレックの下半身は成長が止まってしまったのです。
ロートレックはこの事件以降は少年期のほとんどを祖父の家、ボスクの邸宅で過ごしました。体が不自由になると、父からは疎まれるようになり敬遠されるようになります。
彼の祖父も父も絵が上手く、アンリもその影響を受けたようで14歳の頃には馬や狩猟の絵を専門に描き、父から贔屓にされていた聾唖の画家ルネ・プランスト―から絵の指導を受けました。そしてこの師匠の影響を受け、馬車や鷹狩りをする父を描いたりしています。
ロートレックの生涯② 画家の道へ
1882年ロートレックは母と共にパリに移ります。
ここで肖像画や歴史画を専門とする画家レオン・ボンナのアトリエに入りました。
その後ボンナがアカデミーの教授に任命されてアトリエを閉めたため、歴史画家のフェルナン・コルモンの画塾へ入ります。
コルモンはロートレックの才能を見抜いており、そこでエミール・ベルナールや10歳年上のヴァン・ゴッホらと知り合い大きな刺激と影響を受けました。
ロートレックが描いたゴッホの肖像画
同じ時期にロートレックは浮世絵と出会い、さらにドガの作品を知って感銘を受けます。ロートレックのドガに対する敬意は終生変わりませんでした。
ロートレックが後年、踊り子や普通の女性たちを描くようになったのはドガの影響が見逃せません。
1885年ごろにはロートレックはパリで画家として歩み始めます。
ロートレックは、当時急速にパリの歓楽街として、また芸術家たちのたまり場となりつつあったモンマルトルに目をつけ、そこに住みたいと思いましたが、両親の反対にあいます。
そこで彼は家を出て同じくコルモンの画塾出身のルネ・グルニエのもとで寄宿し始めました。グルニエは夫妻でロートレックの良き仲間で、ロートレックをよくパーティーやキャバレーに連れ出しました。
1886年にロートレックの両親は、彼のアトリエを借り医学生の友人アンリ・ブールジュとアパートに一緒に住むために仕送りをします。
アパートもアトリエもこの頃にはモンマルトルにあり、ロートレックは足しげくキャバレーやナイトクラブに通っては酒を飲み、しゃべり、絵を描くといった生活になっていきました。
そこで歌手のアリスティード・ブリュアンと親しくなり、ロートレックは彼の特徴をよくとらえたポスター(↓)を制作しています。
この頃は定期的に雑誌に挿絵を描いたりしていました。
1888年、《サーカス・フェルナンド》を制作。
ブリュッセルの近代芸術家たちのグループ展『二十人展』、ついで翌年パリで前衛芸術家たちによるアンデパンダン展に出品しました。
1889年モンマルトルのクリシー通りに最大のナイトクラブ『ムーラン・ルージュ』が開店します。『ムーラン・ルージュ』とは『赤い風車』という意味で、実際に赤い風車(模型)が立ち、中には大きなダンスフロア、バー、舞台、商館があり入り口ロビーは大きなギャラリーになっていました。
出典:Wikipedia
(↑)現在のムーランルージュ
そこには毎晩大勢の客が押し寄せ踊ったり酒を飲んだり色恋の場となったのです。
娼婦、踊り子、ポン引き、バンドマン、曲芸師、歌手や道化師などありとあらゆる人が集まる一大歓楽施設となったムーランルージュの当時の様子をあるイギリス人記者が次のように書いています。「ここではどのような欲情も抑える必要はない。喚き声とバカ騒ぎがある。女たちは男たちの肩にすがってホール中引き回されている。酒を注文するすさまじい叫び声がある」と。
ロートレックもまたこのナイトクラブのオープン当時からの馴染みの客となります。
そして1891年に『ムーラン・ルージュ』から店のポスターを依頼され、このポスターによってロートレックは一躍パリで名声を獲得することになったのです。
またこの10年ほどの間にロートレックは収集家のアルバムや、飲食店のメニュー、劇場のプログラム、本の挿絵など様々な商業広告を手掛けていました。
1890年代には演劇にも興味を持ち上流階級の知識人たちとも交際するようになります。
当時の芸術雑誌『ラ・ルヴェ・ブランシュ』の挿絵を描いていた画家ピエール・ボナールやエドゥアール・ヴィヤールたちとも交際するようになりました。
1891年ボナールの勧めでリトグラフを始める。
ロートレックの生涯③ 晩年
ロートレックが30歳の頃にはパリの夜の世界にのめり込んだ代償として、アルコール依存症となり梅毒に侵されてしまいました。
1893年それまで同居し、またロートレックの梅毒の治療もしてくれていた医師のブールジュが結婚して引っ越したため、その治療はおざなりになり彼の健康はますます悪化していきます。
ロートレックは母親のところに身を寄せますが、孤独を紛らわすように娼館へと入り浸ります。
ローレックはそこで娼婦たちと客として以上に親密な関係を築き、彼女たちから信頼される友人とります。そうした関係の下ロートレックは彼女たちの生の姿を絵にしていきます。
2月グーピル画廊で個展を開く。
1896年ジョワカン画廊で二度目の個展を開く。
1897年モンマルトルのすぐ下にある中産階級の住むフロショ街に引っ越しますが、そのころにはすでに健康を酷く害していました。
1899年、母親がマルメロの田舎の屋敷に去ります。
精神錯乱状態で激しい発作にみまわれた後、ロートレックは母親に連れられパリ郊外にあるヌイイーの個人病院に監禁状態にされます。
そこで記憶を頼りにサーカスのデッサンを多数制作。
退院後、ボルドーに旅行する。
この頃にはロートレックは36歳にしてすでに老人のようだったといいます。
(↑)友人の画家ヴィヤールが描いたこのころのロートレック
1901年の夏、ボルドー近郊の海辺で風に当たっているところロートレックはは倒れます。
母親にマルロメの城に連れて帰られ、9月9日その地で亡くなりました。
ロートレックの遺体はサン=タンドレ=デュ=ボワに埋葬されましたが、後にヴェルドレに移されます。
アトリエに残された作品は母の手で整理されアルビ市に寄贈されました。
(↑)ロートレックの墓
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