こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは、19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍したオーストリア最大の画家グスタフ・クリムトです。
クリムトと言えば官能的で装飾的、きらびやかな女性たちを描いた画家として日本でも有名ですね。
その洗練された美しい装飾性から、現在でも様々な商業広告やポスターなどに使われているので名前は知らなくても作品はご存知の方も多いと思います。
僕の運営する絵画教室でも、特に若い女性に人気がありますね。
クリムトの代表作には壁画(↓)も多く、それだけを見にわざわざウィーンに行かれた方もいらっしゃるほどです。
クリムト芸術の何がそれほど彼女たちを惹きつけるのでしょうか?見ていきたいと思います。
目次
クリムトってどんな人?
Gustav_Klimt
19世紀後半から20世紀前半にかけてウィーンで活躍したオーストリア最大の画家。
ウィーンに生まれ、一生をウィーンで過ごしました。
クリムトの生前の写真はいくつか残っていますが、どれも汚れたスモッグを着て髭も髪もボサボサ。全くと言っていいほど洒落っ気のない格好のおじさんで、彼の筆からあれほど優雅な美しい女性たちが生まれたギャップはとても興味深いですね(^^;)。
クリムトの性格は温厚で友人も多くいましたが、自らの芸術については多くを語ることはありませんでした。
クリムトは19世紀末の時代不安を背景に、退廃的な雰囲気をまといエロスを前面に押し出した官能的な表現が特徴です。
その宝石を散りばめたような煌びやかで性的な意味を象徴的に描いた作品は、100年たった現代でも一向に古さを感じさせることはなく、多くの人々を魅了しています。
クリムトの父は銅板彫刻師、弟は父の後を継ぎ、もう一人の弟も絵画に素晴らしい才能を持つ芸術家一家でした。クリムトも学生時代から才能を開花させ、30代半ばでウィーンの公共建築の名だたる装飾を数多く手掛け、オーストリア美術界の中心人物となりました。
しかしクリムトは、大きな成功を収めても体制に順応するより「個人や芸術の自由」を愛し、高いスーツを身に着けるより、青いスモッグで自由でいる方が合うボヘミアン的な気質の持ち主でした。
若くして名声を得たクリムトでしたが1894年、ウィーン大学講堂の天井画のために描いた作品が大きなスキャンダルを巻き起こします。この時描かれた作品『哲学』が「無秩序」で「途方もない作品」「ポルノグラフィーだ」などと酷評され大学という場にそぐわないと大学関係者からも嫌悪されたのです。
その後描かれた残りの2枚もさらなる議論を巻き起こし、初めはクリムトも非難に負けず、完成を試みますが1905年にこの計画を放棄してしまいます。
このスキャンダル以降、クリムトは公の仕事からは離れます。しかし反対に裕福な実業家や資本家たちの間で人気を博し多くの肖像画を手掛け成功をおさめました。
(↑)いかにも上流階級のご婦人方が喜びそうな、優雅で美しい肖像画ですよね(^^;)これなら自分や奥さんを描いてほしいと人気が出るのも納得です。
こうした中、クリムトは若く進歩的な芸術家たちと知り合い、西ヨーロッパの“印象派”や“象徴主義”の作品に触れて視野を広げると、既存の体制に不満を覚えるようになり保守的な美術家協会を脱退して独自の組織を結成しました。
このグループはウィーン・ゼツェッション(分離派)と呼ばれ、クリムトはそのリーダーとなってウィーンの閉鎖的な郷土主義を批判したのです。
〈分離派メンバーの集合写真。左手奥で座っているのがクリムト。ほかのメンバーは気取った格好なのに、クリムトだけはトレードマークのスモッグ着ています〉
彼らは美術と工芸を融合させた総合芸術を目指し、彼らの装飾的な画風は、当時ドイツ語圏で起こった新しい芸術運動「ユーゲント・シュティール(若者様式)」の一つととらえられています。
またクリムトは同時代の他の芸術家同様、日本の文化に大きな影響を受けました。特に琳派に代表される平面的で装飾的な金箔を使った煌びやかな表現が特徴で、日本の美術工芸品の収集も熱心にしています。
私生活では多くのモデルと愛人関係を持ち、子どもまでつくっています。特に弟エルンストの妻の妹、エミーリエ・フレーゲとはアッター湖畔で毎年夏を共に過ごすなど親密な関係にありました。しかし生涯独身を通し結婚することはありませんでした。
クリムトの生涯~ざっくりと
ここではクリムトの生涯を簡単に年代表記しています。
詳しい生涯についてはこちらの記事をご覧ください。 【ウィーン世紀末の巨匠】グスタフ・クリムトの生涯を詳しくご紹介します。
1862年ウィーンで彫刻師の父のもと、7人兄弟の第2子として誕生する。
1876年 ウィーン工芸美術学校に入学。
1883年友人フランツ・マッチュ、弟エルンストたちと工房を設立。
1886~88年ブルク劇場の装飾を手掛ける。
1890~92年ウィーン美術史美術館の装飾画を制作する。
1892年 弟エルンストが死去。
1894年 ウィーン大学の天井画を依頼される。
1897年 ウィーン分離派の創設に参加する。
1900年 ウィーン大学天井画をめぐって議論が巻き起こる。
1905年 大学のための制作を放棄する。
ウィーン分離派から独立。
1909年 ストックレ邸のための制作に着手する。
1918年 脳卒中で倒れ肺炎を併発し死去。
クリムトの代表作
ここではクリムトの代表作を簡単bにご紹介します。
【詳しい解説付き】は、後日アップいたしますのでしばらくお待ちください。
「パラス・アテナ」 1898年 60×44cm ウィーン市立歴史美術館蔵
「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」(部分)
1899年 252×56.2㎝ ウィーン国立図書館演劇コレクション
「接吻」
1907~08年 180×180㎝ ベルベデーレ宮殿オーストリア絵画館蔵
『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像』
1907年 138×138㎝ ニューヨーク ノイエガレリエ蔵
「ダナエ」1907年 77×83㎝ 個人蔵
「エミリー・フレーゲの肖像」(部分) 1902年 181×84㎝ ウィーン市立歴史美術館蔵
『処女(おとめ)』190×200㎝ 1913年ごろ プラハ国立美術館蔵
「生命の樹」
「樹下の薔薇」110×110㎝ 1906年 オルセー美術館蔵
クリムトの画風
クリムトの作品は、官能的なエロス・性や愛と言ったキーワードが一貫したテーマとなっています。
画面には常に退廃的なムードが漂い『死』を予感させる危うさを併せ持っています。それは世紀末という時代の不安、ウィーンという古都の閉塞感などが背景にありました。
また描かれた女性たちは、クリムト自身の女性への理想や幻想を表しており『聖女』であり『妖女』でもあるという二重性をもち、神話の女神やファム・ファタール(男性を惑わす、あるいは破滅させる宿命の女)妊婦など、美しくもどこか物悲しさが漂う神秘性を秘めています。
それらがクリムト作品を、単なる性的なポルノグラフィティに貶めることなく作品を魅力的にしています。
クリムト「金魚」(部分)
しかしクリムト自身は自らの作品について多くを語る画家ではありませんでした。そのため当時からクリムトの作品については様々な解釈がなされてきましたがそれらはクリムト作品に見られるいくつもの二重性、多義性からくるものではないでしょうか。
①クリムトの技法と画風への影響
クリムトの作風で最も特徴的なのは、自然主義的(写実的)な生々しい人物描写と、平面的で装飾的な抽象性を融合した表現にあります。
クリムトは同時代のベルギー象徴主義の画家フェルナン・クノップフやフェルディナンド・ホドラーらの影響を受けていますが、なんといっても日本文化、特に琳派に見られる金色の使用と渦巻き模様や唐草模様などの装飾美に強く惹かれ取り入れています。
ベルギー象徴主義の画家フェルナン・クノップフの作品
日本の尾形光琳の作品
その他エジプト文明や古代ギリシャなどあらゆる文化から学び取り入れておりその作品をエキゾチックな雰囲気を作り出しています。
クリムト自身は生涯ウィーンという保守的な古都の狭い世界で活動しましたが、「性」や「死」、「愛」と言った人類共通の普遍的なテーマを、多くの場合西洋の神話に乗せて古今東西の文化が入り交じって結晶化したものなのです。
クリムトが活躍した同じころ、西ヨーロッパのフランスなどでは次々と新しい芸術運動が起こっていました。それらは近代に新しく生まれた科学や精神分析などを取り入れた自由な表現でしたが、クリムトの生まれ育った帝政オーストリアはまだまだ閉鎖的であり保守的な土地柄でした。その反動もあってクリムトは貪欲に世界中の文化、様式を自身の作品に取り入れることで新しい表現を確立しようとしたのかも知れません。
②クリムトの風景画
あまり知られてはいませんが、クリムトは人物画だけでなく多くの風景画を描きました。その数は実に全作品の4分の1に上ります。
多くは正方形のキャンバスに描かれており、ほとんど人は描かれていません。
それらは人物を描いた作品同様、装飾的で平面的ではありますが、余忬情豊かで静けさに覆われた独特な雰囲気が漂っています。
こうした風景画を描くようになったのは1900年以降夏にアッター湖畔に長期滞在するようになったことが一つのきっかけと言われています。
クリムトは自身の作品が多くの論争を呼んだ都会を離れ、私的な時間を持つことで内省的な表現になったのかもしれません。
クリムトまとめ
いかがでしたか?世紀末という不安の時代、保守的なウィーンで伝統に真っ向から立ち向かい、多くの非難や中傷に晒されながらも自らの表現を追求し、次第にその価値が認められ特に富裕層から支持を受けました。
ウィーン分離派を率いて若い芸術家たちを支援するリーダーでもあったクリムトは、自らの作品については多くを語らない画家でしたが、後の画家や建築家をはじめ商業デザインなど広い分野で影響を与え続けています。
来年(2019年)の春には、クリムト没後100年を記念して東京と大阪で「『ウィーン・モダン』クリムト、シーレ世紀末への道」というウィーン世紀末の華麗な芸術を紹介する展覧会が開かれる予定ですので興味を持たれた方は是非足を運ばれてみては?
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