こんにちは。管理人の河内です。
今回はルネサンスの幕を開けた画家ジョット・ディ・ボンド-ネの生涯について詳しくご紹介してみたいと思います。
同じルネサンスでも幅が広く、いわゆるダ・ヴィンチやミケランジェロたちのような大スター巨匠たちと比べると前時代の後期(ビザンチン美術の時代)に当たるジョットの残された作品や資料は少ないため伝説や逸話、謎な部分も多くあります。
しかしジョットが田舎の貧しい農民の生まれからまさに“花の都”フィレンツェで大成功をおさめ歴史に名を刻んだことは確かです。
目次
ジョットの生涯① ジョットの時代
まず初めにジョットが生きた時代について少し触れておきたいと思います。
ジョットが生まれたのは1280年代、この時代はまだいわゆる中世と呼ばれる時代が色濃く残る時代でした。
そんな中イタリアの諸都市では商業や産業が徐々に発展していきます。
中でも中部のフィレンツェは、遠隔地貿易と羊毛工業そして金融業で成功し、イタリア第一の商業都市として政治的経済的に大いに発展しました。
この繁栄を謳歌するように街には新しい大聖堂や政庁舎、新市壁など大規模な都市建設が進む、いわゆる日本の戦後“高度経済成長期”のような時代でした。
こうした世相を背景に文化活動も活発となり美術においても新しい表現が求められたのも自然なことかもしれません。
ジョットの生涯② 出生~修業時代
ジョットは、1267年フィレンツェ北東のムジェッロにある小さな村コッレ・ディ・ヴェスピニャーノの農民の家に生まれました。
少年時代は父親の飼う羊の番人をして過ごしたようです。
1280年前後に当時フィレンツェで有名だった画家チマブーエの弟子となりますがその修業時代については詳しく分かっていません。
ただこんな有名な逸話が残っています。
15世紀半ばの彫刻家ロレンツォ・ギベルティの著書『覚書』によると、少年だったジオットは羊の群れとともに野原で岩の上に一匹の羊をデッサンしていた。
フィレンツェの有名な画家チマブーエがそこを通りがかり、その天性の素質に驚嘆した。
チマブーエは少年を村に連れ帰り、自分の弟子にしたいと彼の父に許しを求めました。
父のボンドーネは貧しかったがこれに同意し、ジオットを画家の工房に入れることを承諾しました。
このドラマチックな話に確証はないものの、ジオットがまだ幼かった1270年代には当時すでに有名画家であったチマブーエの工房に入り修行を積んだことは確かなようです。
しかし1280年ころに師匠のチマブーエがアッシジのサンフランチェスコ聖堂の内陣装飾に携わっており、ジョットもこれに参加したかも知れませんが、この時まだ10代だったことを考えるとフィレンツェに残り他の弟子たちとともに工房の仕事に励んだとも考えられています。
1285年ごろには、初めてローマを訪れ師のチマブーエが熱心に研究した初期キリスト教絵画や古典彫刻作品を目にします。
そして1287年前後にアッシジに移りサンフランチェスコ聖堂の仕事に参加。
この時期までのジオットの作品と断定できるものはありませんが、このサンフランチェスコ聖堂の仕事を機にその後数年でジオットは画家としてある程度の名声を得ていたと考えられています。
ジョットの生涯③ 独立~成功
1290年ごろまでにジョットは画家として独立し結婚もしていたようです。
妻となったリチェヴェータ・ディ・ラポ・デル・ペラ(通称チウタ)との間に8人の子どもをもうけています。
アッシジでは、さらにサンフランチェスコ聖堂堂上を飾る「聖フランチェスコ伝」のうち28点の壁画を受け持ったと考えられており、この連作壁画によって画家としての名声を高めました。
ジョットとその弟子たちは99年ごろまではここでの仕事に掛かり切りだったようです。
それが完成すると、ジョットは教皇ボニファティウス8世に呼ばれローマに赴きます。
教皇は1300年の初頭にローマで聖年祭を行うことを布告していて、当時の住まいであったラテラノ宮殿のバルコニーから群衆に説教する自分の姿を記念するフレスコ画を描くようジョットに依頼したのです。
その後1301年までにはフィレンツェに戻り、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の教会区内に屋敷を購入しここに居を構えました。
しかしここには長く落ち着かず、フランシスコ会士たちの招きによってパドヴァを訪れ聖フランチェスコに捧げられた聖堂でフレスコ画の制作にあたります。
このパドヴァ滞在中にジョットは世俗のパトロン(=教会など宗教関係者でないという意味)から記録上の初めての注文を受けます。
当地の富裕市民エンリコ・デッリ・スクロヴェー二が、ジョットに同家の私設礼拝堂の壁画を制作依頼したのです。
スクロヴェー二は大権勢を誇った富豪で1302年にパドヴァの司教から古代ローマの闘技場(アレーナ)の跡地に私設の礼拝堂を建立する許可を得ました。
スクロヴェー二は地元の修道士会の苦情にも関わらずアレーナ礼拝堂を建立したのです。
しかし完成したジョットの壁画は、ジョットにとっても美術史上においても記念碑的な作品となり依頼主のスクロヴェー二はその見事な装飾壁画を世間に誇示したくて仕方なく、これを定期的に一般公開するほどでした。
このためにジョットの礼拝堂壁画は広く万人に知れ渡ることになり、完成当初から賞賛を浴びることとなりました。
こうして1306年ごろにジョットがフィレンツェに戻った時、その名声はゆるぎないものになっていたのです。
1310年詩人のダンテは有名な『神曲』の中で、ジョットを当時の最高の画家として取り上げ「絵画においては、チマブーエは自分がこの分野を掌握していると思っていたが、今やジョットが名を上げ、それがためにもう一人の名声はかすみかけている」と書いています。
この年ジョットはローマに滞在し、旧サンピエトロ大聖堂の柱廊玄関上のファサードに大モザイク画「ペテロの小舟」を制作しています。
1311年以降20年はフィレンツェにとどまりますが、その間もローマやリミニ、パドヴァへ短期間訪問していました。
1320年ころ、富裕な商家ペルッツィ家の私設の礼拝堂壁画の制作を依頼されますが、これを完成させるとすぐ、隣にあった著名な銀行家バルディ家礼拝堂の壁画装飾も依頼されます。
このように名声を得たジョットは、次々と舞い込む注文を多くの助手を使い工房としてこなしていたようです。
また一方でジョットはこの頃多くの商取引にも手を出していた記録が残っています。
ジョットの生涯④ 晩年
1328年ジョットはアンジュ―家のロベール・ダンジュー王に招かれてナポリへと赴きます。
当地で王の居城であるカステル・ヌオーヴォで制作に励んだのですが、残念ながらその時の作品は後年破壊され残っていません。
しかしロベール王は、ジョットをとても気に入りその制作現場に幾度も足を運び、その才能を高く評価して1332年にジョットに年金を授けています。
そこにはジョットの作品だけでなく機知に富んだ言葉と人の良さが王の関心を引くのに大いに役立ったと考えられます。
1334年までにはジョットはフィレンツェに戻ります。
その年の4月12日、ジョットは当時建設途中であった大聖堂の造営総監督に任命されました。
そして彼の監督下で壮大な鐘塔(カンパニーレ・ディ・ジョット=ジョットの鐘楼)が建てられました。しかしこの鐘塔が記録として残るジョットの最後の作品となります。
さらには市の建築工事監督官に任ぜられ、新しい城壁の建設をも担当することになりました。
その後はミラノに短期の旅行をしたのち1337年1月8日フィレンツェで亡くなります。享年70歳でした。
ジョットの生涯⑤ ジョットの死後
ジョットの死後、その功績から彼の葬儀は市の主催によって芸術家としてはかつてないほど壮麗に行われました。
遺体は大聖堂に埋葬されましたが、こうした待遇は名高い軍人に対してのみ供される名誉であり、いかにジョットが当時の人々から親しまれ賞賛されていたかが伺えます。
その名声は死後1世紀以上にわたって続き聖堂の中には大きな記念碑が建立されました。
そしてその墓碑銘にはこう刻まれています。『私は絵画に生命を与えた人間である。・・・自然の中に見出されるものはなんであれ、わが芸術の中に見いだされるであろう』。
しかしジョットの死の10年後、1348年に疫病(ペスト)が流行し人口の半分が死ぬ事態となりました。
この大きな厄災に対し無力感を味わった人々は、これを天罰であり神の怒りに触れたために起こったことだととらえます。
そこで富裕な市民たちはその財産を神に捧げる美術作品に注ぎ込み、それによって罪を贖おうとしました。
こうして様式化された厳格で装飾華美な宗教画を求めるようになり、ジョットの築いた自然な写実表現は影をひそめ、それが復活するのはまさにルネサンスが花開く15世紀マザッチョの登場まで待たなくてはならなくなりました。
ジョットの生涯~まとめ
いかがでしたか?ルネサンス美術を切り開いた画家ジョットの生涯。
地方の貧しい農民の子から身を起こしたジョットは、その卓抜な才能だけでなく人当たりの良さといった人間的な魅力も備わっていたと多くの資料が書いています。
日本からも毎年多くの方がイタリアに旅行されていますが、時間の都合上ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアなど大きな町だけを回られることが多いと思います。
ジョットの作品は、アッシジやパドヴァと言った地方にその傑作があるのでなかなか訪れるのは難しいかも知れませんが、機会があれば一度訪れていただきたいと思います。
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