こんにちは。管理人の河内です。
今回は『情熱の画家』ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの生涯を詳しくご紹介していきましょう。
日本で最も有名で愛される画家ゴッホはいかにして『魂の画家』の画家になったのか?
情熱と狂気、挫折と苦悩に満ちた37年の短い人生をどうぞ。
目次
ゴッホの生涯① 出生から画家を志すまで
本名はVincent Willem van Goghフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホ。
現地発音ではゴッホではなくホッホというそうです。
ゴッホは1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ズンデルという村に、牧師をしていた父テオドルス(ドルス)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥスとの間の長男として生まれました。
彼が生まれる一年前、死産の第一子がいたのですがその子にヴィンセントと名付けていたそうでゴッホはその名をそのまま引き継いだのです。
彼の後には妹が3人(アンナ、55年生、エリザベート59年、ヴィレミーナ62年)弟が2人(ヴィンセントを生涯助けるテオことテオドルス57年、コルネリス67年生)います。
ヴィンセントは生まれつき癇癪持ちで気性の激しい難しい子供だったようです。
1864年寄宿学校に入るも中途退学して実家に戻り、69年には伯父が共同経営するハーグの画商グーピル商会で働きはじめます。
73年、転勤先のロンドンでは下宿先の娘との恋に破れ、75年パリ勤務になりますが上司と衝突して解雇されてしまいます。
そのような時期、74年ごろからゴッホはキリスト教への関心を深めていきます。
76年(23歳)の時ロンドンで教師の職に就きますが、当時の労働者の惨状や貧しい人々の過酷な状況に心を痛め、彼らに寄り添いたいとの思いから伝道活動を始めます。
ベルギー内を転々としながら78年頃まで伝道師を目指して活動を続けますが、その熱心さと苛烈さが仇となり、結局は聖職者になる願いは叶いませんでした。
ゴッホの生涯② 画家を目指す・オランダ時代
1880年27歳の時ゴッホはようやく絵の道へ踏み出します。
「伝道師として挫折した私は絵画を通じて、救い、救われたかった」。弟テオへの手紙の中で画家を目指すことを告白し、素描(デッサン)の訓練を開始します。
しかし仕事を持たないゴッホは父親からの援助に頼って生活しており、口論が絶えませんでした。
テオの兄への生活援助もこのころから始まったようです。
本格的に絵を学ぼうとブリュッセルへ出て労働者や兵士をモデルにデッサンをしたり他の画家から遠近法などを学んだりしました。
しかし翌81年には経済的な理由から実家に戻り、田園風景や貧しい農夫を題材に描くようになります。
そこで従妹で当時未亡人だったケー(↓)に好意を寄せますが失恋。ハーグへと移って行きました。
ハーグではで親戚で画家のアントン・モーヴから絵を学んでいます。
またこの頃子持ちの娼婦シーンと同棲をはじめ、モデルとして彼女を描き続けます(↓)。
彼は彼女との結婚を考えるも周囲の反対によって別れることに。その後東部のドレンテ地方に移っていきました。
83年には父の住むニューネンへ移り、ミレーなどバルビゾン派の影響を受けながら絵を描き続けます。
そしてそれまでのデッサンの集大成として過酷な生活を送る農民たちを描いた最初の傑作《ジャガイモを食べる人たち》が生まれます。
85年に父が急逝。
その後アントワープへと移り美術学校に通っています。この頃日本の浮世絵と出会い、その斬新な構図、色、輪郭に強い感銘を受けました。
そして翌86年に画商グーピル商会で働くテオを頼ってパリへと旅立ちます。
ゴッホの生涯③ パリ時代
86年2月にパリのモンマルトルに住むテオのアパートに転がり込んだゴッホですが、二人は口論が絶えませんでした。
当時パリでは隆盛を極めた印象派の画家たちに代わり、スーラやシニャックなど新印象派と呼ばれる画家が台頭してきていました。
それら印象派、新印象派から大きな影響を受けたゴッホの作品は、色彩は明るくタッチを生かした作風へと変わっていきます。
ロートレックやシニャック、ゴーギャンたちと親交を深め精力的に製作をしますが、またも周囲との軋轢からアルコールにより憔悴し、療養のため88年南仏アルルへと移ります。
ゴッホの生涯④ アルル時代
明るく温暖な南仏アルルにゴッホはまだ見ぬ浮世絵の国、憧れの“日本”をイメージしていました。
彼の手紙には「この地方の大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。
水が美しいエメラルドと豊かな青の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ」と書いています。
温暖なアルルで精神的にも身体的にも健康を取り戻したゴッホは制作に打ち込みます。
焼け付くような太陽のもとゴッホの色彩はさらに激しく色があふれ、大胆なタッチで絵具を熱く塗り重ねるゴッホ独特の筆触ができていきます。
現在私たちがゴッホと聞いて思い出す作品「ひまわり」や「アルルの跳ね橋」「夜のカフェテラス」「麦畑」などの多くはこのアルル時代から終焉の地オーヴェール時代の約4年の間に描かれました。
ゴッホはこの地で芸術家たちで共同生活をする「芸術家村」を作ることを夢見ます。
パリにいる芸術家たちを何人も誘いますが、これに応じたのはポール・ゴーギャンただ一人でした。
ゴーギャンもまたゴッホと同じく苦しい生活を送っていましたが、テオがその旅費を工面するということでしぶしぶ応じ、共同生活を始めたのです。
ゴッホが芸術家の共同生活をしようと借りた黄色い家(↓)代表作の『ひまわり』はこの家を飾るために描かれました。
しかしここでもその気性と、さらにはゴーギャンの皮肉屋で尊大な性格がぶつかり言い争いが絶えなかったようです。
また制作に対する意見も、写実を基本とするゴッホに対して想像力を駆使して描くことを求めたゴーギャンとでは全く意見が合わなかったのです。
そして僅か9週でこの関係は破たんします。いわゆる耳切り事件です。
この事件を機にゴーギャンはアルルを去り、ゴッホは精神に異常をきたしてんかんや分裂症を発症しサン・レミの精神病院に入院することになります。
しかし入院中の治療、てんかん発作の合間に、彼は「糸杉」「星月夜」「花咲くアーモンドの枝」など200点にも上る作品を残しました。
そして皮肉なことに死まであとわずかとなったこの頃、ゴッホの作品は徐々に認められだします。
ブリュッセルの展覧会で、生涯唯一となる作品が売れ、パリの展覧会ではモネの絶賛をうけていたのです。
ゴッホの生涯⑤ 晩年~最後の地 オーヴェール=シュル=オワーズ
90年5月には旧友ピサロの提案でパリの北西にあるオーヴェール=シュル=オワーズへと移り住みます。
そこでゴッホの健康は回復し、カフェの2階に下宿しながら旺盛な制作を続けます。
しかしそのたった2か月後の7月27日、ゴッホは村のはずれの麦畑で拳銃で自ら胸を撃って自殺を図ります。
しかし弾は急所を外れ、死にきれないまま自宅に戻ります。
翌日知らせを受けてパリから駆けつけた弟テオやガシェ医師、僅かな友人たちに見守られながら息を引き取りました。
享年37歳、この稀代の天才、情熱の画家ファン・ゴッホが画家を志して10年後のことでした。
しかし現在ではこのゴッホの『自殺』については多くの疑問が投げかけられており、『他殺』説もある中真相は分かっていません。
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