こんにちは。
管理人の河内です。
今回は日本でもっとも有名でもっとも人気のある画家、”情熱の画家”ヴィンセント・ヴァン・ゴッホについて、良く知られているものからあまり知られてないエピソードまでいろいろとご紹介してみたいと思います。
若干37歳という若さで亡くなった上に、実際に画家として活動したのはわずか10年足らずという短い人生を、熱く走り抜けた”炎の画家”ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの人生にはさまざまなエピソードに彩られていました。
目次
ゴッホ・エピソード① 耳切り事件
ゴッホにまつわるエピソードとして最も有名な事件ですね。
誰もが一度は耳にしたことがあるかも知れませんが、ここで改めてご紹介してみたいと思います。
ゴッホは画家を目指して芸術の都パリに出ます。
しかし大都会のパリになじめず疲弊していきます。1888年にはストレスから酒におぼれ、心身ともに憔悴しきったゴッホは、療養のために温暖な南仏アルルに移りすみました。
そしてゴッホはこの地で芸術家による共同生活を夢見ます。
ゴッホはパリにいる友人たちに誘いの手紙を送りますが、それに応じたのはゴーギャンただ一人でした。
当時ゴーギャンもまた絵が認められず、極貧の中にありました。そこでゴーギャンは、アルルでは生活費がかからないというゴッホの誘い文句と、旅費をゴッホの弟テオが工面するというのでしぶしぶ応じたようです。
ゴッホはゴーギャンの到来を心から喜び、二人は共同生活を始めます。
しかし、この二人の強烈な個性の持ち主はことあるごとに衝突し口論が絶えませんでした。
現実を写し取ろうとするゴッホに対して、ゴーギャンは写実的な描写を良しとせず、現実離れした色彩や大胆な色面を取り入れた作風を目指すなど、芸術論でもぶつかったようです。
そんなある日、(1888年12月23日)その夜も二人は激しく討論となった末、ゴッホは興奮のあまり剃刀で自らの耳を切り取り、それをなじみの娼婦ラシェルのもとへ送りつけたのです。
この奇行によって二人の関係は決定的となります。ゴーギャンはすぐにパリへ戻り、ゴッホは自ら精神病院へと入院してしまいました。
これが一連の事件の流れです。
しかし近年になって、この説とは別にゴッホとゴーギャンが、馴染みの娼婦を巡って口論となり、激昂したゴーギャンがゴッホの耳を切り落としたとする新説が出ているようで、いまだ議論を呼んでいる事件なのです。
ゴッホ・エピソード② ゴッホと浮世絵
西洋から遠く離れた日本の大衆文化である浮世絵。
19世紀後半のゴッホの生きた時代には、多くの浮世絵が海を渡り彼フランスでもてはやされました。
いわゆるジャポニスムの時代です。
西洋画の伝統とは全く違う文化から生まれた浮世絵は、構図、色彩、モチーフなど、いろいろな面で印象派をはじめ多くの前衛画家たちに影響を与え、画家たちはこぞって自らの作品に取り入れようとしました。
そんな中ゴッホも同様に浮世絵に魅了され、貧乏生活にも関わらずアントワープ時代から数多くの日本版画を買い集めていました。
そしてゴッホ自身で1887年3月に、レストラン・タンブランの店で日本版画の展覧会を開いたりもしています。
ゴッホ自身、渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」、歌川広重の名所江戸百景「亀戸梅屋舗」「大はし あたけの夕立」などの模写を数多く描き、積極的に自分の作品に取り入れています。(「タンギー爺さん」(1887)の肖像画の背景には壁一面に浮世絵が貼られている)
具体的にはゴッホは浮世絵から平面的色面や、それまでの西洋画にはない大胆な構図を学び作品に取り入れています。
またゴッホは鮮やかに彩られた浮世絵の世界を現実のものと受け止め(勘違いし)、日本をある種のユートピアと考えていたようで、南仏アルルにそのイメージを重ね合わせていました。
アルルにやって来たゴッホは、「ここではもう僕に浮世絵は必要ない。なぜなら、僕はずっとここ日本にいると思っているのだから。したがって、目を開けて目の前にあるものを描きさえすればそれでいい」、「画家たちの天国以上、まさに日本そのものだ」とまで言っています。
ゴッホ・エピソード③ 自殺の真相
兄ゴッホに献身的に援助をしていた弟のテオは、画商として働いていました。そんなテオは1890年頃には、画廊を独立するかどうかでもめている時でした。
また結婚してこどもを授かったばかりであり、兄だけでなく母親へも仕送りをしていたので、これら両方の仕送りはテオにとっても大きな負担となっていました。
それが原因で弟夫婦はもめていたのです。
それを目にしたゴッホは、自分がいかに彼らの負担になっていたかを痛感し、自ら命を絶ったのだといわれています。
ゴッホ・エピソード④ 生涯で売れた絵はたった一枚
現在でこそ高額な値段で取引されるゴッホですが、生きている間に売れた絵はたったの一枚だったそうです。(諸説あり)
それがこちらの「赤いブドウ畑」という油絵。
アルル時代、まだゴーギャンと共同生活をしていたころ(1888年11月)に描かれたとされています。
1890年、ゴッホ自殺の5か月前、買ったのはベルギーの芸術家組合「二十人会」の組合員アンナ・ボックという女性でした。
現在では数十億から100億円以上で取引されている絵がなんと11万円程度(400フラン)で購入したというから驚きです。
このアンナ・ボックはアルルでゴッホが知り合った画家ウジェーヌ・ボックのお姉さん。なんとこのボック家というのは「ロイヤルコペンハーゲン」「マイセン」と並ぶ世界3大陶器メーカーの創業者一族で、とても裕福な家庭だったようです。
ゴッホ・エピソード⑤ 幻・芦屋の「ひまわり」
日本にある「ひまわり」といえば東京の損保ジャパン日本興亜美術館所蔵のものが有名ですが、それ以前にももう一枚「ひまわり」があったことはあまり知られていません。
それが兵庫県の「芦屋のひまわり」。
1920年、スイスから日本の実業家 山本顧弥太が、白樺派の作家武者小路実篤に依頼され2万円(現在の2億円)で購入しました。
当時東京や大阪でも展覧会が開かれ「ゴッホのひまわり」として話題になりました。
ゴッホがアルルで描いた一連のひまわりの二番目に描いたとされています。
ゴッホの「ひまわり」といえば、黄色を主に鮮やかで明るいイメージですが、この作品では枯れかかった(?)ひまわりが5本渋い色調で描かれていて、背景は濃いブルー。画面全体が暗い印象を与えていて特異な感じを受けますね。
「芦屋のひまわり」として市民にも親しまれていましたが、残念なことに太平洋戦争末期、阪神地方の大空襲で焼失してしまい「幻のひまわり」となりました。
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