こんにちは。管理人の河内です。
今回は、ポール・ゴーギャンの生涯を詳しくご紹介します。
パリに生まれ、35歳で証券マンとして成功した人生から突然画家に転身、妻子を捨ててまで楽園を求めたゴーギャン、死後ようやくその功績が認められますが…波乱万丈の人生とは一体どのようなものだったのでしょうか?
目次
ゴーギャンの生涯① 出生~日曜画家へ
ポール・ゴーギャンは、1848年6月7日パリで生まれました。
父は共和主義のジャーナリストであったクローヴィス、母アリーヌは、ペルー生まれの女権拡張論者で社会主義者のフローラ・トリスタンの娘で、ともに急進的な考えの両親のもとに生まれました。
この年フランスでは、ルイ・ナポレオンが権力を握り、政敵が次々と姿を消そうとしていた時期。共和主義者だったゴーギャンの父クローヴィスも職を失い、また迫害を恐れて妻の親類を頼って一家でペルーのリマに亡命しました。
しかし1849年ペルーに向けての船旅の途上、父クローヴィスは心臓発作を起こして死亡してしまいます。そして母のアリーヌと妹のマリーと共に母の大伯父の庇護のもとで6年間を過ごしました。
その後フランスにいたゴーギャンの祖父が亡くなると、その遺産を受け継ぐために祖父の故郷であるオルレアンに戻ります。
オルレアンでは神学学校に通い、17歳の時に航海士となります。商船に乗って3年間働いたあと、1868年海軍に在籍、普仏戦争にも従軍しました。
1871年軍務から解放されると、海に出ている間に亡くなった母の遺言で、裕福な銀行家ギュスターヴ・アローザが後見人となり、アローザの紹介でパリの大手株式ブローカーに就職します。
仕事は順調で給料もよく、株式売買で有利な投機の機会にも恵まれたことで裕福な中産階級としての未来は保証されていました。
1873年 デンマーク人のメット・ソフィ・ガットと結婚。5人の子供に恵まれます。
この頃から余暇に絵を描き始め、次第にのめり込むようになります。
後見人のアローザは素晴らしい絵画コレクションを有しており、彼の家には著名な画家が出入りしていました。ここでゴーギャンは、印象派の画家たちと出会い、彼らの作品を購入するなど美術への情熱が盛り上がります。
74年には印象派の画家カミーユ・ピサロから絵の教えを受けますが、基本的には独学で絵を描き続けました。
ゴーギャンの生涯② 画家への転身
1870年代後半、ゴーギャンは当時まだアマチュア画家でありながら、印象派のグループ展にも出品するなど、この時期彼らと行動を共にしています。
この頃はゴーギャンの描く絵はよく売れ、数々の賞を受けるまでになりました。
そんな中、1882年の株式市場の暴落が彼の画家への本格的な転身を決意させました。
絵で家族を養えると確信したゴーギャンは、1883年証券仲介会社を退職します。
しかし株式市場の不況の影響は、絵画市場にも波及し、作品が一気に売れなくなってしまいました。そのためそれまでの蓄えはすぐに底をついてしまいます。
一時ゴーギャン一家は、生活費を抑えようとパリからルーアンに移ります。
1884年には生活が困窮し、妻の実家があるデンマークのコペンハーゲンに移住します。
ゴーギャンはそこで営業の仕事をしますが、言葉の壁もあって上手くいきませんでした。
しかしそのような状況でもゴーギャンはますます絵画制作に打ち込みます。
1885年ゴーギャンは、コペンハーゲンに家族を残し、6歳の息子クローヴィスだけを連れてパリに戻ります。しかし生活はさらに困窮を極め、栄養失調からクローヴィスは天然痘に罹ります。なんとか回復した息子は妻のメットが引き取り、安い住居を見つけるためと、当時画家仲間が集まっていたブルターニュ地方ポン・タヴァンに移りました。
そこでエミール・ベルナールらと出会います。
しかしここでも思うような結果が出ず、パリに戻りますが食べることにも事欠いた状況で、餓死寸前の状態まで追い込まれます。
「パリは貧しい男にとっては砂漠だ。私はエネルギーを取り戻す必要がある。現地人のような生活をしにパナマへ行こう」そう決意したゴーギャンは、何とか運賃をかき集めて1887年パナマへ渡ります。そこで当時建設中だったパナマ運河の建設現場で働きました。
しかし数週間で熱病に罹ってパナマを諦め、フランス領西インド諸島のマルティニック島へと渡ります。ここでも熱病と貧困に苦しみながらも制作をしています。この時に描いた作品が、パリに戻った際にヴァン・ゴッホの弟で画商をしていたテオの目に留まり、彼の勤めるグーピル商会で展示されたことから兄のヴァン・ゴッホとも知り合い親交を結ぶことになります。
結局ゴーギャンはフランスへ帰国、ブルターニュへ戻ります。
ゴーギャンの生涯③ アルル~タヒチへ
1888年、ポン・タヴァンに戻ったゴーギャンは、『説教の後の幻影』↓を描き、ベルナールやラヴァルらとともに総合主義の様式を確立します。
40歳になっていた彼にはブルターニュの冬は厳しく、以前パリで知り合っていたゴッホからの「南仏アルルで共同生活をしよう」という招きに応じてアルルに向かいます。しかしよく知られているように、二人は性格や芸術感の違いから事あるごとに対立し、ゴッホの『耳切り事件』によってわずか2か月でアルルを去らざるをえませんでした。(近年の研究では耳を切ったのはゴッホ自身ではなく、激高したゴーギャンだという説も出ています)
その後はパリとブルターニュを行ったり来たりしながら制作をしており、いくつかの傑作を描いていますが、未だ世間には認められず生活は苦しいままでした。
そんな1889年パリのカフェ・ヴォルピ二でエミール・シュフェネッケルと『印象主義及び総合主義グループの絵画』展を開きます。この時初めて「総合主義」という言葉が生まれました。
しかしゴーギャンはこの頃にはヨーロッパの文明社会を嫌い、素朴で原始的な社会を夢見て南国への憧れと熱望を抱きます。
そして1891年、当時フランスの植民地であった南国タヒチへと移住します。
しかし当時のタヒチはすでにゴーギャンが求めていた“楽園”ではありませんでした。
「ここは依然としてヨーロッパだ。私が逃げ出してきたはずのものが、植民地の俗物根性によってさらに悪くなってここにある」と書いています。
ゴーギャンはそんなタヒチの首都・パペーテを避け、まだ素朴な暮らしが残る農村地帯のマタイエアに移り住み、そこで彼の望んでいた平和と一緒に住む娘を見つけます。
そこは昔ながらの自給自足の家族共同体であり、都会から来たゴーギャンは魚を捕るすべも、畑を耕すこともできず、結局はヨーロッパから輸入された高価な缶詰などに頼らざるを得ませんでした。そしてそれらを買う蓄えが尽きるとたちまち生活は困窮し、フランスに帰らざるを得なくなったのです。
1893年ゴーギャンは現地総督にフランスへの送還を願い出ます。
ゴーギャンの生涯④ フランス帰還~再びタヒチへ
屈辱的な帰還でしたが、その時持ち帰った作品がパリの有力な画商ポール・デュラン=リュエルの目に留まり、1894年11月展覧会を開くことができました。その時は幾つかの作品が高値で売れ、またオルレアンの伯父が亡くって、その遺産を受け継いだことで経済的に余裕ができます。
パリに戻ったゴーギャンは、画家が集まるモンパルナスの外れにアパルトマンを借り、ジャワの娘で「輝く目を持った素晴らしい混血児」と言われたアンナことアン・マルタン(↓)と暮らし始めます。
そんなある時、ポン・タヴァン近くのコンカルノーで、水夫たちが彼女を嘲笑したことに怒ったゴーギャンは、彼らと喧嘩をして足首を骨折してしまいました。ゴーギャンは療養のためブルターニュにとどまり、アンナだけパリに戻ることになりました。しかしその間にアンナはゴーギャンのアトリエを荒らし逃げてしまったのです。
ゴーギャンの生涯⑤ 最後のタヒチ~晩年
ゴーギャンは、パリで画家仲間からも孤立し、またタヒチへの思いが捨てきれず1895年7月再びタヒチへと向かいます。
そして以降は再びフランスに戻ることはありませんでした。
タヒチへ渡った最初の頃は、絵より彫刻に専念していたようです。
しばらくは首都パペーテの近くで暮らします。この時は絵も売れ、友人や支持者に支えられ生活は安定していました。またこの時期ゴーギャンは、植民地社会とそれがタヒチ人へ及ぼす影響に嫌気がさして地元の新聞に辛辣な批判記事を投稿しています。
今回のタヒチ滞在は、ゴーギャンの芸術にとって大変重要な時期ではりましたが、健康状態は次第に悪化して入退院を繰り返しています。また生活は苦しくなり、絶望的に貧しく悲惨なものになっていきます。
梅毒に侵されますが、病院に通院することもままならない状態でした。
1897年には自らが集大成とする『我々は何者か?~』を制作した後、服毒自殺を図りますが失敗に終わります。
その後ようやくパリで作品が売れはじめ金が届くようになります。そのおかげで絵の制作に打ち込むことができるようになり1901年タヒチを去って、1300キロも離れたマルキーズ諸島のアツオナ村に移住しました。そこでゴーギャンは「快楽の家」と名付けた住居を建てて住み着きます。
一方で植民地行政府やカトリック教会への強烈な批判をしたために「名誉棄損」で3か月の禁固刑を宣告されますが、ゴーギャンはそれに従わず上告します。しかし1903年5月8日その上告の結果を聞く前に、ヒヴァ・オア島で看取るものもなく孤独のうちに亡くなりました。享年54歳。
ゴーギャンの死因については詳しいことは分かっていませんが、心臓発作や肝炎、梅毒など諸説あります。どちらにしても長年の栄養失調などで体は随分と弱っていたことは想像に難くありません。
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