こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは、南国タヒチに楽園を夢見て渡り、波乱に富んだ人生を送った画家ポール・ゴーギャンです。
美術史的には19世紀後半のゴッホ、セザンヌと並んでポスト印象派(後期印象派)に分類される画家です。
この三人は、それぞれとてもアクの強い個性的な3人で、ポスト印象派(後期印象派)と呼ばれてはいますが、実際にグループとして活動したわけではなく、印象派の画家たちと親しく付き合い影響を受けた後、独自の路線を切り開いた孤高の画家たちです。
ゴッホとゴーギャンとの共同生活と「耳切事件」は有名ですね。ことあるごとに衝突して二人の関係はたった2か月で破綻しますが、実はその後もお互いの作品にお互いの要素を取りいれたりしています。またあまり知られていませんが、ゴッホが亡くなった後、タヒチで暮らしていたゴーギャンは、ゴッホへのオマージュとして『ひまわり』を描いていたりもしています。
ゴーギャンの描いた『ひまわり』
一方、売れていない時期のセザンヌの絵を購入し、とても大切にしていました。(残念ながらセザンヌはゴーギャンを評価していなかったようですが…)
ではそんな画家ポール・ゴーギャンとは一体どんな人物で、どんな人生や画風だったのでしょうか?迫ってみたいと思います。
目次
ゴーキャンってどんな人?
本名:ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン Eugène Henri Paul Gauguin
19世紀後期印象派(ポスト印象派)に数えられるフランスの画家。
また『総合主義』という様式を提唱し、原始美術(プリミティヴアート)を取り入れました。
※総合主義とは対象の質感や色、立体感などを否定し、強い輪郭線で囲った平らな色面を用いて描く手法。”クロワゾニズム”とも言う。
印象派が自然を感覚によって見えたまま、感じたままを描き出そうとしたのに対し、ゴーギャンにとって絵画は、象徴的な意味を込めたり、画家の内面や感情を表現したりするものでした。
こうした考えは、続く20世紀の表現主義や象徴主義、ピカソやマチスのフォーヴィズムなどに大きな影響を与えました。
ゴーギャンは1848年パリに生まれました。性格は自信家で皮肉屋だったようです。
ジャーナリストの父に連れられ、生後すぐに南米に移住。そこで幼少期を過ごしました。この時の体験が、後の南国への憧れにつながったと思われます。
数ある画家たちの波乱の人生のなかで、ゴーギャンほど波乱万丈の人生を送った画家も珍しいのではないでしょうか。
実はゴーギャンもゴッホ同様、絵を描き始めたのが非常に遅く、35歳まで株の仲買人をしていました。そのころは経済的にも安定した生活を送っており、絵は趣味として描き始めたのです。それがどんどん絵にのめり込むようになり、当時注目されつつあった印象派の画家たちに魅せられて、彼らの作品を購入したりします。
実際に印象派の画家カミーユ・ピサロと親交を結び、そのピサロを通じて他の印象派の画家たちとも交流し、まだ日曜画家ながら『印象派展』にも参加するほどになります。
そんな中、株式市場の不況から仕事を辞め、絵で食べていく決心をします。しかしそれほど甘い世界ではありませんでした。家族を妻の実家に預け、一人制作に励みますが絵は全く売れず、食うや食わずのどん底生活。ゴッホとの共同生活は有名ですが、それもたんに生活費がかからないという理由からでした。
そんな中、ゴーギャンは急速に近代化が進むヨーロッパの文明社会に嫌気がさし、南太平洋の島の文化に憧れを抱くようになります。
「私はタヒチに決めた。…そしてこの野性味のある素朴な国で、私の芸術を磨きたいと望んでいる」ゴーギャンは素朴で原始的な社会に自己の芸術のインスピレーションを求めたのです。
そうして南国タヒチに“楽園”を夢見て渡りました。
現代社会に疲れた都会のサラリーマンが、沖縄やタイへ移住なんて話は今でもよく聞きますが、100年も前にゴーギャンはやっていたんですね。
しかしそのタヒチはにゴーギャンの想像した“楽園”ではありませんでした。当時すでに母国フランスの植民地として西洋化されていたのです。
それでも離島のまだ原始的社会が残っている場所を見つけて住み着きます。そこでなんとまだ10代の幼い妻をもらい、子どもまで産ませています。
しかし生活は厳しく、病気と極貧の中で制作を続け、最後はほとんど友人もなく孤独のうちに生涯を閉じました。
皮肉にも死後数年たってから、画商のアンブロワーズ・ヴォラールによってその作品が世に広められ、評価を得るところとなったのです。
こうしたゴーギャンの波乱万丈な人生は、イギリスの作家、サマセット・モームがゴーギャンをモデルに『月と6ペンス』という小説にもしていて、今年(2018年)1月にはフランスの名優ヴァンサン・カッセル主演で映画化され公開されています。 (→ゴーギャン タヒチ、楽園への旅)
ゴーギャンの生涯~ざっくりと
1848年6月7日パリで生まれる。
ジャーナリストの父に連れられて生後すぐに一家でペルーに亡命する。
1855年にフランスに帰国しオルレアンに住む。
17歳で航海士になり海軍に在籍。
1871年 パリの証券仲介会社に就職する。
1873年 メット・ソフィ・ガットと結婚。
余暇の趣味で始めた絵画に没頭。セザンヌやピサロなどの作品を購入したり、ピサロから絵を教えてもらったりする。日曜画家ながら印象派展にも参加し、絵もそこそこ売れていました。
1883年株式市場の混乱で証券仲介会社を退職し、プロの画家として生きることを決意。
1884年 妻の実家があるデンマークのコペンハーゲンに移住しますが、翌年長男を連れてパリに戻ります。
しかし絵は一向に売れず、極貧の生活を強いられ、長男を妻のもとへ戻すと、1886年当時芸術家が集まっていたブルターニュ地方のポン・タヴァンに移る。
1887年現金収入を得るためにパナマ運河の建設現場で働き、マルティニック島を訪れる。
破産してフランスにもどる。
1888年 ゴッホの招きに応じアルルで共同生活を始める。(2か月でゴッホの「耳切事件」で破たん)その後、またポン・タヴァンへと戻り、エミール・ベルナールとともに「総合主義」芸術を確立する。この頃ポン・タヴァンで活動していた芸術家グループは『ポン・タヴァン派』と呼ばれるようになります。
1891年 マルセイユを出港しタヒチへと移住。
1893年 一時フランスに帰国。伯父の死去により遺産を相続。愛人にしていたジャワ女アンナに金品を盗まれ逃げられる。
1895年 再度タヒチへ出発。
1897年 大作『我々はどこから来たのか…』を制作後、自殺未遂をする。
1901年 マルキーズ諸島へ移る。
1903年 5月8日マルキーズ諸島ヒヴァ・オア島で死去。享年54歳。
ゴーギャンの代表作
ではここでゴーギャンの代表作を簡単にご紹介します。
詳しい解説付き記事は、後日アップいたしますのでそちらをご覧ください。
「麗わしのアンジェール(サトル夫人の肖像)」
1889年 92×73 cm オルセー美術館蔵
「説教の後の幻影」
1888年 73×92㎝ スコットランド・ナショナル・ギャラリー蔵
「黄色いキリスト」
1889年 92×73㎝ オルブライト・ノックス・アートギャラリー蔵
「浜辺の2人の女」
1891年 68.5×91㎝ オルセー美術館蔵
「市場」
1892年 73×92m バーゼル美術館蔵
「死霊が見ている(マナオ・トゥパパウ)」
1892年73×92㎝ バッファロー オルブライト・ノックス・アート・ギャラリー蔵
「アレアレア(喜び)」
1892年 75×94㎝ オルセー美術館蔵
「我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへいくのか」
1897年 139×374.5㎝ ボストン美術館蔵
「赤い花と乳房」
1899年 94×73㎝ ニューヨーク メトロポリタン美術館蔵
「浜辺の騎手たち」
1902年 75×92.5㎝ アテネ 二アルコス・コレクション蔵
ゴーギャンの画風と技法
ゴーギャンにとって趣味で始めた絵画ですが、印象派の画家たちとの交流を通して印象派の影響を強く受けた作品を描いています。
その後、エミール・ベルナールとともに『クロワゾニズム』という平坦なベタ塗りの色面によって画面を構成する手法を提唱します。これは中世の七宝焼き(クロワゾネ)を思わせることからこう呼ばれています。
その後、「芸術とは一つの抽象作用。自然を前にして夢想しながら、自然から芸術を抽き出すこと」だと語っているように、現実のものと、画家の内面を綜合するという「総合主義」へと発展しました。
またヴァン・ゴッホとは違うかたちですが、ゴーギャンもまた強く自由な色彩表現が特徴で、これらはプリミティヴ美術(原始美術)から単純なフォルムと鮮やかな色彩の持つ力強さを学んだものです。
そして現実の色にとらわれず、感情を表す手段として色彩を選択したことは、続くナビ派や20世紀の表現主義、フォーヴィズムなどに大きな影響を与えました。
ゴーギャン まとめ
いかがでしたか?波乱の人生を送った画家ポール・ゴーギャン。
ゴッホと同じく生きている間にその才能が認められることはなく、ゴッホは南仏アルルに、ゴーギャンは南国タヒチに楽園を夢見て渡りました。
病気と貧困、孤独のうちに最期を迎え、死んでから評価された不遇の天才という点で共通していますね。しかしその波乱に富んだ人生は、一発逆転を狙った山師的な思いもあったり、その性格から画家仲間から孤立してしまい、パリに居場所がなくなったという側面もあるようです。
ともあれ苦しい状況でも自身の芸術を貫き通し、新しい様式を確立して後世に多大な影響を残した偉大な画家であることに違いはありません。
この記事へのコメントはありません。