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【初期ルネサンスの花形画家】ボッティチェリの生涯を詳しくご紹介します!

こんにちは。管理人の河内です。

今回は初期ルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェッリの生涯についてご紹介したいと思います。

ボッティチェッリが生きた時代のフィレンツェは、“花の都”と言われるほど最も繁栄した時代でした。しかし「盛者必衰」の理(ことわり)通り、メディチ家の豪華王ロレンツォ・イル・マニイフィコの死を機に華やかな時代は終わりを告げます。

“花の都”の繁栄と没落を生きたボッティチェッリの人生を見ていきましょう。

目次

出生~修業時代

1445年3月1日-1510年5月17日

サンドロ・ボッティチェリは1445年3月1日、イタリアルネサンスの中心地、“花の都”フィレンツェで4人兄弟の末っ子として生まれました。

父マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピは皮なめしの職人でした。彼の工房のあった地区はアルノ川とムニョーネ川に近く、同業の職人が多く集まる地域でした。

兄のアントニオか金細工師であり、ボッティチェリも何らかの職人教育を受けていたかもしれません。

当時のフィレンツェは1434年に亡命から帰還したコジモ・イル・ベッキオが市政の実権を握りメディチ家が実質町を支配していました。

ボッティチェッリは1464年から67年まで画僧フィリッポ・リッピの工房で修業を積みます。そこで師匠の繊細で優美な画風をボッティチェリも受け継ぎました。

師匠フィリッポ・リッピの作品(↓)

リッピの工房を出た後、スポレートへと移ります。そこでアントニオ・デル・ポッライオーロやアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房に出入りして仕事をし、彼らからも影響を受け独自の画風を進化させます。

ヴェロッキオの工房では7歳年下のレオナルド・ダ・ヴィンチが修行していました。

そこで少年レオナルドが『キリストの洗礼』で見事な天使を描いており、それを見た師匠のヴェロッキオは以降筆を執らなかったという逸話が残っています。

この左側がレオナルドが描いた天使。右側が師匠のベロッキオが描いた天使。

1470年師匠のフィリッポ・リッピがスポレートで死去。

 

全盛期~サヴォナローラへの傾倒

1470年にボッティチェリは自らの工房を構えました。

フィレンツェの商業評定所から最初の公的な依頼を受け『剛毅』(↓)を制作、名声を得ていきます。

1472年、27歳の時フィレンツェの画家組合である聖ルカ組合に登録します。

『聖セバスティアーノ』を制作。

1473~4年『東方三博士の礼拝』を制作。

1478年代表作の『春』を制作する。

「パッツィ家陰謀事件」によってジュリアーノ・デ・メディチが殺害される。

この「パッツィ家陰謀事件」とは、反メディチ家の有力銀行家パッツィ家がローマ教皇シクトゥス4世の教唆のもと、メディチ家兄弟の暗殺を謀った事件。弟ジュリアーノは殺害され兄のロレンツォは辛くも脱出しました。その後ロレンツォは過酷な復讐を行い陰謀の関係者を約100名も吊るし首にし、そのときの様子をボッティチェッリにフィレンツェ政庁のポルタ・デラドガーナ門の上に壁画として描かせました。

処刑された者の中にピサの大司教が含まれていたため、ローマ教皇は激怒してフィレンツェの町を破門しました。しかしやがて両者は和睦。

その証としてボッティチェッリらが、教皇が計画していたいシスティーナ礼拝堂の壁画制作のために派遣されることになりました。

システィーナ礼拝堂の壁画と言えばミケランジェロがすぐに思い出されますが、その一世代前のボッティチェッリらによって最初の装飾がなされたのです。その中にはミケランジェロの師匠であるギルランダイオ、ラファエロの師匠であったペルジーノらもいました。

 

1485年『ヴィーナスの誕生』を制作する。

1489年フィレンツェのチェステッロ僧院付属聖堂のために『受胎告知』を制作。

1492年 最大のパトロンだったロレンツォ豪華王が43歳の若さで死去。

1493年兄のジョヴァンニが死去。

1494年フランス王シャルル8世率いる大軍がフィレンツェに侵攻し、ロレンツォの長男で次のメディチ当主ピエロ・デ・メディチが追放される。

ドメニコ会修道士のジェローラモ・サヴォナローラの交渉によって、フィレンツェの町はフランス軍による破壊を免れます。このことによりサヴォナローラはフィレンツェ市民の支持を得て影響力を持つようになりました。

サヴォナローラは以前からローマ教会の堕落を激しく批判し、フィレンツェが新しい教会を作ってイタリアを救済すべきだなどと預言者的な説教活動によって市民に訴えていました。また市民には自らを浄化し堕落を一掃することを説き道徳的退廃の粛清を行います。

こうした彼の説教に市民は沸き、それに傾倒したボッティチェッリは自らの「異教的な」主題の作品を燃やしてしまいます。

続いてピエロ・ソデリーニを首班として共和政府を樹立して反メディチ政策がとられました。

しかしこうした政策は、メディチ家残党や既存のブルジョワたちからの強い反発を買い、翌1495年にはローマ教皇アレクサンデル6世によってサヴォナローラは異端であるとして布教活動が禁止されます。

しかしその説教活動と影響力はこの頃ピークに達しその熱狂は97年まで続きました。

 

晩 年

ボッティチェッリは晩年もじく熱心なサヴォナローラ信者だった兄シモーネや甥たちと共に暮らしています。

1497年サヴォナローラはローマ教会から破門され、翌年4月フィレンツェ政府はサヴォナローラの追放を決定し5月23日シニョーリア広場で絞首刑となり遺体は燃やされました(↓)。

1504年ミケランジェロが制作した『ダヴィデ像』の設置場所を決める委員会にレオナルドらと共に参加。

1510年5月17日、フィレンツェで死去。享年65歳。オニサンティ聖堂に埋葬されました。

 

【ボッティチェリに関するこの他のお勧め記事】

・『優美なる初期ルネサンスの巨匠』ボッティチェリを紹介します!

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