こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは初期イタリア・ルネサンスの巨匠サンドロ・ボッティチェリです。
ボッティチェリと言ってもなかなかぴんと来ない方もいらっしゃると思いますが、代表作の『春』や『ヴィーナスの誕生』は美術の教科書には必ず載っていますし、テレビや広告などで今もいろんな場所でつかわれているので一度はどこかで目にされたことがあると思います。
ボッティチェリの活躍した「初期ルネサンス時代」というのはルネサンスが興った初期の時代14世紀~15世紀後半ごろを指しています。
「ルネサンス」といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロの3大巨匠がすぐに思い起こされますが、ルネサンス美術の殿堂であるフィレンツェのウフィツィ美術館(↓)では、このボッティチェリが彼らを差し置いて最も人気の高い画家だと言われています。
その最大の理由は、ボッティチェリの描く女性たちの美しさにあります。
その優雅で繊細、華美で清らかな明るい画面は美術のことを全く知らなくても素直に私たちの心に訴えて幸せな気持ちにしてくれます。
管理人自身も何度かイタリアを訪れた際、ボッティチェッリの実物を見ましたが、これが本当に500年以上も前に描かれたのかと思うほど美しく息を飲んだ記憶があります。
ヴィーナスや花の女神フローラ、マドンナ(聖母)などに代表されるその甘美で魅惑的なイメージは、“イタリア・ルネサンス”という芸術の黄金時代のシンボルと言えるほどです。
そんな華やかなりしルネサンスを代表するボッティチェリとは一体どのような画家だったのでしょうか?見ていきたいと思います。
目次
ボッティチェリってどんな人?
Sandro Botticelli 1445-1510
本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・フィリペーピ
初期ルネサンス美術を代表する画家。
実は“ボッティチェリ”とは「小さな樽」という意味の通称です。
どうしてそう呼ばれるようになったかというと、彼のお兄さんが「大酒飲みであったから」とか樽のように「太っていたから」など諸説ありますが、いずれにしても本人には全く関係のないところでついた酷いあだ名です。でも自画像を見る限りボッティチェリ本人は精悍な顔立ちのなかなかのイケメンのようでした。
幼少期は病弱な体質だったので神経質だったと想像されていますが、成人すると陽気で快活、愉快な人物であり「自分の弟子や友人によく悪ふざけを仕掛けた」と美術家列伝を記したヴァザーリは書いています。
また彼の大パトロンで友人でもあったロレンツォ・イル・マニフィコは「ボッティチェッリ、食いしん坊のボッティチェッリ/彼は蠅よりも厚かましく食いしん坊/彼のおしゃべりを聞くのは何と楽しいことか…」と皮肉と愛情を込めた詩を歌っています。
ボッティチェッリは、ルネサンスが花開いた当時のフィレンツェを実質支配していたメディチ家の庇護を受け『神話』や『聖書』の物語を主題に、繊細で華やかな画風で人気を博したまさに“花のルネサンス”を象徴する画家です。
ルネサンスと言えばフィレンツェ、フィレンツェと言えばボッティチェリとイメージされるほどイタリア・ルネサンスの画家の中でも最も「ルネサンスらしい」画家と言えるかもしれません。
その後の盛期ルネサンスを支えるレオナルド・ダ・ヴィンチが『16世紀最初の芸術家』と呼ばれるのに対し、ボッティチェリは『15世紀最後の芸術家』と呼ばれています。
そんなボッティチェリは生粋のフィレンツェ人でした。
サンタ・マリア・ノヴェッラ地区の皮なめし職人の家に生まれ、一時期ローマでバチカンのシスティーナ礼拝堂の壁画を描くためにフィレンツェを離れますが、それ以外は65年の生涯のほとんどをフィレンツェで過ごしました。
メディチ家をはじめこの都市の富裕な貴族や商人、教会や政府のために制作し、生涯独身で家族を持たず、兄弟や親と同居し、死後は生家に近い教区聖堂に埋葬されました。
ボッティチェリが画家として活動した30年間は、フィレンツェという都市がメディチ家の独裁から修道士サヴォナローラの宗教改革と独裁、共和制へという激動の時代でした。
彼が25歳で画家として独立したころは、フィレンツェはメディチ家が支配し、“豪華王”と呼ばれた当主ロレンツォ・イル・マニフィコ(↓)の治下“黄金時代”を迎えていました。
そしてボッティチェリはその恩寵を最大限に受け、ロレンツォを中心とする新プラトン主義(ネオ・プラトニズム)的な知的文化人サークルの主役の一人でもあった、まさに花形画家だったのです。
しかし1492年ロレンツォが亡くなると、ドメニコ会修道士のサヴォナローラを主導者とする黙示録的な宗教改革と、反メディチ的政治運動がフィレンツェを席捲します。
ボッティチェリはその思想に傾倒し、かつて自分が描いた神話などの「異教的」な作品を自ら燃やしてしまうほどでした。そしてそれ以降彼の作品の主題と様式は、敬虔で神秘的な宗教性が強いものへと一変したのです。
そのため彼の人気は後退し、また政治的不安定から作品以来が減少してしまい花形画家だった彼は晩年の10年間はほとんど制作を止めてしまったのです。
ボッティチェッリの作品は、そのほとんどが富裕なパトロンたちの私邸を飾るために描かれ、その家の奥深くに秘蔵されていました。そのため長い間、公衆の目に触れられることがなく、その死後は人々から忘れられた画家となりました。
さらに16世紀以降は、ルネサンスの中心がフィレンツェからローマに移り、そこで活躍したラファエロやミケランジェロなどのモニュメンタルな古典主義が、以降のヨーロッパ美術の規範となり主流となります。
こうしたことからボッティチェリは「時代遅れの地方画家のひとり」と見なされるようになり400年もの長い間歴史に埋もれてしまいます。
そして19世紀末、ようやくイギリスでラファル前派の画家や、評論家らが彼を再発見し再評価して人気が回復し現在に至っています。
ボッティチェリの生涯~ざっくりと
ここではボッティチェッリの生涯を簡単にご紹介します。
詳しい生涯についてはこちらの記事をどうぞ!【ボッティチェリの生涯を詳しく解説】
ボッティチェッリは1445年3月1日、フィレンツェで皮なめし職人の子として生まれました。
僧で画家であったフィリッポ・リッピのもとで修業を終えた後、ヴェロッキオの工房で短期間助手として仕事をしました。
1470年に公的機関である商業評定所から「剛毅(フォルテツィア)」を委嘱され画家としてデビューします。
1474年にサンタ・クローチェ広場で行われた有名な大騎馬試合で、主役のジュリア―ノ・デ・メディチのために旗標を描く栄誉にあずかります。
1478年、そのジュリア―ノが暗殺されるという事件が起きます。(パッツィ家陰謀事件)その事件の首謀者たちは続々と絞首刑にされたのですが、その様子をボッティチェッリは市政庁舎の壁に描くという大役を与えられるなど、メディチ家と深いつながりを持つ公認のお抱え画家となります。
1481年フィレンツェを離れギルランダイオとともにローマのバチカン宮殿システィーナ礼拝堂の壁画装飾を制作(↓)。
1480年代に入るとレオナルドやヴェロッキオがフィレンツェを去り、ロレンツォの又従弟にあたるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチ(通称ロレンツィ-ノ)をパトロンに『春』や『ヴィーナスの誕生』などの代表作を産み出します。
さらにダンテの『神曲』の挿絵素描などを手掛け、この頃にボッティチェリ芸術は最高潮の時期をむかえます。
しかし1492年にロレンツォ・イル・マニフィコが死去してフィレンツェの黄金時代は幕を閉じることになります。
そのころフィレンツェでは修道士のサヴォナローラが予言者的な説教活動で当時のローマ教会の腐敗やメディチ家を批判して、人々から熱狂的な支持を受けていました。
サヴォナローラ(⇩)
ボッティチェッリはそのサヴォナローラの熱烈な信奉者となります。
そのためそれまでの華やかで幸福感に満ちた明るい画風は影を潜め、禁欲的で終末論的な敬虔主義に向かい、とげとげしい作風へと変化していったのです。
1494年、フランス軍がフィレンツェを侵攻。
ロレンツォの長男ピエロらメディチ家はフィレンツェを追放され、フィレンツェはサヴォナローラの影響下に共和制となりました。
1495年サヴォナローラはローマ教皇より異端とされ、98年フィレンツェ政府より追放され火あぶりに処されます。
晩年のボッティチェリはこうした政治の激動と画風の変化によって絵の注文は極端に減り筆を折ります。
そして1510年に死去。享年65歳。彼が生まれ育った地元のオニサンティ聖堂の墓地に埋葬されました。
ボッティチェリの代表作
ではここでボッティチェリの作品をいくつか簡単にご紹介してみたいと思います。
詳しい解説付きの記事はまた後日アップいたしますのでしばらくお待ちください。
「書物の聖母」
1483年58×39.5㎝ ミラノ ポルディ=ペッツォーリ美術館蔵
「マニフィカトの聖母」
1483年 直径143.5㎝ ウフィツィ美術館蔵
「青年の肖像」
1480年代初め 41.2×31.8㎝ ワシントン ナショナルギャラリー蔵
「ヴィーナスの誕生」
1485年ごろ 172×278㎝ ウフィツィ美術館蔵
「受胎告知」
1489~90年 150×156㎝ ウフィツィ美術館蔵
「春(プリマヴェーラ)」
1477-78年 315×205㎝ ウフィツィ美術館蔵
「東方三博士の礼拝」
ロンドンナショナルギャラリー蔵
「パラスとケンタウロス」
1484年ごろ 207×148㎝ ウフィツィ美術館蔵
ボッティチェリの画風
ボッティチェッリの画風を一言でいうと、洗練された貴族的あるいは装飾的、耽美的な様式と言えると思います。もっと簡単に言うと華やかで夢のように美しい世界ですね。
こうした様式は、宮廷化された富裕な商人や貴族たちの別荘(ヴィラ)を中心に、人文主義者や文化人たちが集まるエリート文化サークルから生まれました。
そこでは古代文化への関心が高まり、新プラトン主義思想が流行していて、それを絵画によって体現したのがボッティチェッリでした。
そこではそれまでのキリスト教的な主題に加え、「異教」である古代のギリシャ神話などのテーマが求められたのです。
それまでは裸体画と言えばアダムとエヴァしか認められていませんでしたが、貴族の邸宅や別荘など公衆には見えないところで個人的な楽しみや鑑賞のため古代神話の女神たちの裸体が描かれるようになりました。
ボッティチェッリの描く清純で感傷的な聖母、春の花園を舞うフローラや三美神。その甘美で魅惑的なイメージは、華やかなルネサンスという時代そのものを象徴しています。
技法に関しては、ボッティチェリは「線の画家」と言われるほど、繊細で優美な線を描きました。同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチを見れば分かるように、リアルな自然さを追求すれば輪郭線は描かず(存在せず)明暗のグラデーションで量感を表現するようになっていった時代でしたが、ボッティチェリは最後まで輪郭線にこだわり繊細で優美な線にこだわりました。また油絵よりもテンペラ画という技法を使い、明るい色彩が実現しています。
しかしロレンツォ・イル・マニフィコが死去し、ボッティチェッリが50歳代になる頃には、フランス軍の侵攻とメディチ家の追放、サヴォナローラの宗教改革など政治的混乱によってパトロンたちの力は失墜し、華やかな文化は衰え、総じて作品数は減少し小型化していきます。
何にもましてボッティチェッリ自身がサヴォナローラの熱心な信奉者となったことで、異教徒的な主題や甘美な聖母子像は姿を消し、代わりに終末論的な恐れやキリストの犠牲への哀悼、救済への祈りと敬虔主義を前面に押し出した作風へと一変しました。
夢見るような幸福感と甘美に包まれた様式から、サヴォナローラ的改悛と“回心”から、人物のアクションは感情表現が誇張され、禁欲的でとげとげしい画風へと変わっていったのです(↓)。
『アペレスの誹謗』
ボッティチェリまとめ
初期ルネサンスを代表する画家ボッティチェッリいかがでしたか?
生粋のフィレンツェっ子であり、メディチ家という圧倒的なパトロンに庇護されて花の都フィレンツェの“花形画家”だったボッティチェリ。
彼は政治と町が激しく動く時代の明と暗に深く関わった芸術家でした。
中世の厳格なキリスト教世界の下では「異教」であったギリシャ神話も、ルネサンスという自由な時代の空気の中でヴィーナスなども聖母マリアと同じようにその比類なき美しい描線と鮮やかな色彩、憂いを帯びた表情で見事に表現しました。
晩年はサヴォナローラへの傾倒により画風が一変してから画家としては尻つぼみな感はありましたが彼の作品は、500年たった今でも変わらず輝き続け私たちの心を魅了しています。
残念ながらボッティチェッリの作品を日本で見られるチャンスは多くはありません。機会があればぜひフィレンツェに足を運んで本物を見ていただければきっとその美しさに惚れ惚れすると思います。
【ボッティチェリに関するその他のお勧め記事】
この記事へのコメントはありません。