こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは16世紀スペインの巨匠エル・グレコです。
エル・グレコは日本の歴史でいうとちょうど戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた人物ですね。
ベラスケスと並んでスペイン美術史に燦然と輝く巨匠ですが、実はスペイン人ではなくギリシャ人でした。
本名をドメニコス・テオトコプーロスと言いますが、これがスペイン人には発音しづらかったらしく、なんとあだ名的に“ギリシャ人”を意味する“グレコ”と呼ばれるようになったそうです(エルは定冠詞)。なんだか本人には申し訳ないですね。
なので美術史的にも本名より“エル・グレコ”で通っていますので、ここでもエル・グレコと呼んでいきます。
そんなエル・グレコですが、彼の作品は宗教画が多く、私たち日本人にはあまり馴染みのない画家かも知れません。
エル・グレコの作品は色彩や明暗のコントラストが強く、長く引き伸ばされた人体や演劇的なポーズが特徴で少しくどい印象を受けますが、そのある種マンガチックで劇画調のタッチなんかどことなく『ジョジョの奇妙な冒険』なんかと通じるものがあるので、
そうしたものに親しんでいる若い方には受け入れやすいかも知れませんね。
ではそのエル・グレコとは一体どんな人物だったのか見ていきたいと思います。
目次
エル・グレコってどんな人?
1541-1614年
本名:ドメニコス・テオトコプーロス Doménikos Theotokópoulos
15世紀後半から16世紀にかけてイタリア、スペインで活躍したギリシャ人画家。
美術史的にはマニエリスムからバロックの両方にまたがる位置に分類されます。
※マニエリスムとは…ミケランジェロを頂点としたイタリアのルネサンスの隆盛が終わろうとするころに生まれた美術様式。
長く引き伸ばされた人体や圧縮されたような奇妙な空間表現が特徴。
生涯の大半を外国で過ごしたエル・グレコは、ギリシャ人であることに固執し名前を改めなかったため、その名前を発音しづらかったスペイン人からは「ギリシャ人」という意味の《エル・グレコ》とあだ名で呼ばれ、それが一般的に定着して現在に至っています。
いくら母国に誇りを持っていても本人からすれば嬉しくはないでしょうね。
仮に管理人がスペインで画家としていくら有名になっても個人名でなく「ハポネ(日本人)」と呼ばれるのは嫌ですね(-_-;)
それを物語るようにグレコは作品のサインはギリシャ語の本名で書いていました。当然と言えば当然ですね。
神話の国ギリシャのエーゲ海に浮かぶクレタ島で生まれたエル・グレコは、故郷の島を離れてヴェネツィアを訪れ、ルネサンス、ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノに学びました。その後ローマに赴き一流の学者たちと親交を結びます。
しかしエル・グレコが最も活躍したのはスペインのトレドでした。この当時スペインの学問と宗教の中心地だったトレドに30代の末に渡り、教会の保護のもと独創的な一連の宗教画を産み出しました。
自分が描いた作品が収められる祭壇やそれが設置される礼拝堂の建築などにも関わり優れた才能を発揮しました。
エル・グレコは芸術だけでなく高い学識と厚い信仰心の持ち主でした。
特にローマ滞在中に多くの学識豊かな学者や人文主義者らとの交流を通して歴史や哲学を学び、その死後作成された財産目録には古典文学やキリスト教、哲学論など広範囲にわたる蔵書を誇っていたことが分かっています。
私生活ではヘロニマ・デ・ラス・クエバスという愛人との間に息子をもうけています。
彼女とは37年もトレドで同棲をしていましたが正式には結婚しておらず、正妻がいたと考えられています。
エル・グレコの作品は、ほとんどが教会や聖堂などの宗教施設からの依頼によるもので、彼の名声が高まるにつれてトレドの宗教機関の全てがエル・グレコに制作を求めたほどでした。
時の権力者や聖職者の信頼を勝ち取りその庇護のもと多くの宗教画や彼らパトロンを描いた肖像画を多く残しました。
しかし国王のフェリペ2世にはあまり評価されなかったため、宮廷画家になることは出来ませんでした。
このように生前は広く名声を得たエル・グレコですが、後の世代になるとその歪んだフォルムや強い色彩が理解されず“狂気の画家”との烙印を押され歴史の隅に追いやられるようになります。
そして20世紀に入ってようやく一部の批評家からその独創性や価値が再評価されまた“表現主義”の先駆けと見なされ、重要な画家と再評価されるようになりました。
またどういう経緯で決められたかは分かりませんが“世界の三大名画”と呼ばれるもののひとつにエル・グレコの《オルガス伯の埋葬》があげられています。(あと二つはダ・ヴィンチの『モナ=リザ』、レンブラントの『夜警』、ベラスケスの『ラス・メニ―ナス』があり、3大ではなく4大なのですが…まああまり信ぴょう性あものではないのですが(;^_^A)
エル・グレコの生涯~ざっくりと
ここではエル・グレコの生涯を簡単にご紹介します。
詳しい生涯についてはこちらの記事をご覧ください⇒【マニエリスム後期の巨匠】エル・グレコの生涯を詳しく解説します!
1541年クレタ島のカンティアに生まれました。
1567年ヴェネツィアに移住。
1570年ローマに赴く
1572年 アカデミア・サン・ルカに登録する。
1577年トレドで最初の制作依頼を受ける。
1578年息子のホルヘ・マヌエルが生まれる。
1580年エル・エスコリアルのために《聖マウリティスウの殉教》を制作。
1585年ビリェーナ侯爵の邸宅内に部屋を借りる。
1586年《オルガス伯の埋葬》の制作依頼を受ける。
1595-1605年スペインの諸聖堂のために、数々の大祭壇画を手がける。
1614年トレドで亡くなる。
エル・グレコの代表作
ここでエル・グレコの代表作を簡単にご紹介します。
詳しい解説付きの記事はこちらをご覧ください⇒【スペイン・マニエリスムの巨匠】エル・グレコの代表作を解説します!
エル・グレコの画風と技法
エル・グレコの最初期の修業時代については詳しいことは分かっていませんが、グレコの故郷であるクレタ島ではビザンチン美術がまだ色濃く残っていた時代でしたので、そうした絵画から影響を受けたと推測されます。
ビザンチン美術と言えばモザイク画が有名です。
こんな感じ(↓)
奥行きのない空間に堅苦しい聖職者、恣意的な短縮法などルネサンス以前の様式で、どことなくグレコとの共通点が感じられます。
その後ローマ時代に学んだ“マニエリスム様式、さらにはヴェネツィアで学んだ豊かな色彩などがスペイン時代により成熟し、特徴的強い色調コントラストとなって独自の表現力豊かに人物たちが生まれました。
つまりエル・グレコの画風はヨーロッパ東西の美術双方を吸収し、オリジナルな画風を完成させたといえます。
具体的に言うと、グレコの描く人物たちは縦に長く引き伸ばされ、写実的な表現を抑えてデフォルメされ浅く縮められた空間に、芝居の一場面のように大げさなポーズをとっていることがあげられます。
それは晩年になるほど劇的に発展しドラマチックを越えて“マンガ的”ですらあります。
エル・グレコの作品のほとんどが宗教画であることを考えると、こうした劇的効果は天空へと立ち上る炎、光などのイメージと重なり魂の動きを反映しているとも解釈されます、
しかしエル・グレコはさらに宗教的志向から、神の世界や精神世界を表現するため、イタリアで学んだ自然主義的な表現を後退させ抽象的、神秘的な方向へと向かいました。
この流れは当時のスペインが“対抗宗教改革”の中にあったということと密接に関係しています。
エル・グレコの生きた時代は、16世紀に始まったルターの宗教改革によって、それまでローマ教皇を頂点とするカトリック教会が危機に瀕していました。
そんな中ローマ教会の権威を回復させる “対抗宗教改革”が起こります。
カトリック側からのそれまでの腐敗したイメージを払拭し、内部改革をして復権とさらなる勢力拡大を目指し攻勢に転じたのです。
そしてスペインはまさにカトリックの急先鋒の国であったため、エル・グレコの絵画もそうした改革を推し進める教会の意向に沿ったものでもあったのです。
エル・グレコ まとめ
いかがでしたか?スペインバロックの巨匠エル・グレコ。
エル・グレコも生前はそれなりに認められ活躍したのに一度は忘れられ再評価されたタイプの画家でしたね。
その理由としてあまりにも独特な画風のため追随者がいなかったこともあったかも知れません。
現代の僕たちの目から見てもその独創性は際立っていますので好き嫌いがはっきり分かれる画家かも知れませんね。
また肖像画以外はほぼ宗教画ばかり描いていましたので聖書の内容などにあまり親しんでいない私たち日本人には取っ付き難い画家と言えるかもしれません。
日本でもそれほど詳しく紹介されることが多くない画家ですが、歴史的に同時代の日本から派遣された天正遣欧少年使節がトレドでグレコの作品を見た可能性があったり、また国立西洋美術館(東京・上野)には《十字架のキリスト》、大原美術館(岡山県倉敷市)にはグレコの《受胎告知》が所蔵されているなど日本ともつながりがある画家ですので少しでも皆さんのエル・グレコへの理解が深まっていただければ幸いです。
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