こんにちは。管理人の河内です。
今回は18世紀後半から19世紀初めに、スペインの宮廷画家として活躍したフランシス・デ・ゴヤの生涯を詳しくご紹介したいと思います。
ゴヤは82歳という長寿を全うし、油絵以外にも独特の世界観を表現した版画、素描、フレスコ画など幅広く数多くの作品を残しました。
ゴヤが生きたのは時代の大きな転換期であり、絶対王政下で花開いた宮廷ロココ文化の時代から革命を経て近代市民社会へと移っていく変革と激動の時代でした。
こうした時代の大きなうねりに飲み込れたゴヤの画家人生とは一体どのようなものだったのでしょうか?
目次
ゴヤの生涯① 出生~青年時代
ゴヤは1746年3月30日スペイン北東部アラゴン州サラゴサ近郊の寒村フェンデトードスに生まれました。
貧しい鍍金師(メッキ職人)の父ホセ・ゴヤと下級貴族の末裔であり農業を営む地方郷士の娘グラシア・ルシエンテスの間の6人兄弟の4番目として生まれました。
ゴヤが誕生しほどなくして一家はアラゴン地方の県都であるサラゴサに移ります。
ゴヤはエスコラピオスの修道院で初等教育を受け、そこで生涯の友となるマルティン・サパテールと知り合いました。
13歳になると、当地を代表するホセ・ルサンに弟子入りして4年間修業を積みます。
このルサンは宗教画に描かれた裸体人物に衣装を着せるという仕事をしていたので“みだらな絵の検閲者”という役職名が与えられていたそうです。
またそのころ創設された王立サン・ルイス素描アカデミーにも通い、版画の模写や石膏像や人体デッサン等を学びます。
さらにゴヤはフランシスコ・バイユー(パイェウ、パエウとも)と知り合います。
バイユーはゴヤより12歳年上の兄弟子で、早くから画家として成功をおさめ1763年には首都マドリードで宮廷画家の地位についていました。
ゴヤは後にこのバイユーの後を追ってマドリードに出て彼のもとで働くことになります。
当時のスペイン王室は芸術庇護の最大のパトロンであり、その財を惜しまない姿勢は他の国の画家たちの心をも惹きつけるほどで、スペインで画家として成功するには王室に認めてもらう必要がありました。
1763年と66年に、ゴヤは創設間もないサン・フェルナンド王立美術アカデミーを受験しますが2度とも失敗します。
そこでゴヤはアカデミーを諦めイタリアへと向かいます(1770年)。イタリアはルネサンス以来、ヨーロッパの若い画家たちにとって憧れの地であり、イタリアで絵画を学んでくることはその後画家として成功すための有益な手段であり、母国の美術を発展させるためことにもつながっていました。
そのため周辺の国々では国費で有望な若手をイタリアに留学させていました。
ゴヤの場合、自費による留学でしたがイタリア各地を回り、伝統的な壁画の技法であるフレスコ画を学んでいます。
またパルマでは美術アカデミー主催の絵画コンクールで佳作賞を獲得してささやかながら初めての成功をおさめることが出来ました。
翌年スペインに帰国したゴヤは、郷里で教会の壁画など宗教画を描き、73年にはバイユーの妹ホセファと結婚します。これによってゴヤは有力な画家一族と結ばれることになりました。
ゴヤの生涯② マドリードへ~宮廷画家としての成功
1775年、ゴヤは立身出世の夢を抱いて首都マドリードに移ります。
翌年からメングスやバイユーのもとマドリードのサンタ・バルバラ王立工場で織られるタピスリーの下絵を描く仕事をはじめ1792年まで続けています。
その後順調に肖像画家として貴族や王家の人々を顧客に獲得して行きます。
そしてオスーナ公爵家に気に入られ、40歳で国王カルロス3世の王付き画家となりました。
1780年にはようやくサン・フェルナンド王立美術アカデミー会員に選ばれ、5年後に同アカデミー絵画部長代理へと昇進。
1789年にカルロス4世が即位すると、宮廷画家のひとりに選ばれるというかねてからの野望が達成され、貴族の称号も得ることが出来ました。
しかしこの年隣国フランスでは革命が勃発し、王侯貴族の支配する社会が終わろうとしていたのです。
ゴヤは宮廷画家となり人気画家となって生活は豊かになりました。
イギリス製の二輪馬車で猟に出かけるなど貴族的な生活を謳歌します。そうした生活の状況を、旧友サパテールへの手紙で『僕は今や人も羨むような生活ぶりだ』と得意がっています。
しかし経済的成功をおさめたゴヤは、一方で注文ではなく自分の描きたい絵を描くことを求め始めます。
フランス啓蒙思想の影響も受けて、自身の生き方や芸術についても大きな転換を迎えようとしていたのです。
1790年代に入ると、ゴヤはタピスリーの下絵を描く仕事を止め、肖像画やゴヤの作品として私たちがよく知る想像的作品の制作に打ち込むようになっていきました。
ゴヤの生涯③ 大病~画業の成熟期
92年の暮れ近く、アンダルシアを旅行中にゴヤは原因不明の病に倒れます。
港町カディスの友人セバスティアン・マルティネスの家に運ばれ、彼と娘たちの献身的な看病のおかげで一命をとりとめますが、この大病によりゴヤは聴覚を完全に失ってしまいました。
この時の病については現在でも梅毒や白絵具に含まれる鉛(鉛白)中毒が原因であるとか神経衰弱など実際なんの病気であったか解釈が定まっていません。
少なくとも6か月以上の闘病生活の後、翌年7月にようやくアカデミーに復帰しますが、耳が聞こえなくなったゴヤは厭世的で引きこもりがちとなり、以降のゴヤの作品に大きな影を落とすことになります。
音のない世界に孤絶したゴヤは、次第に内省的になり鋭い観察眼が養われ、逆境にも関わらず制作に関しては病気以前より実りの多いものとなっていきました。
翌年病気が回復する中、ゴヤは“奇想と創意”をテーマにした風変わりな油絵の小作品連作を描きました。
これについてゴヤは「病気のことばかり考えて、力を失くした想像力を活動させるため」描いたと言っています。
また『民衆の気晴らし』と題した一連の作品をアカデミーに送ります。
それまで目にはしていても、意識していなかった現実世界、優美で魅惑的と映った様々な現実の奥に潜む社会の実態や人間の心の奥深くにあるものに目覚めたのです。
その後もゴヤの名声は順調に高まり、1795年バイユーが亡くなるとアカデミーの絵画部長に昇進します。
1796年ゴヤはパトロンであり、夫を亡くして喪に服していたアルバ公爵夫人の別荘に滞在し密接な関係となります。
アルバ公爵夫人は美しく自由奔放なことで知られ社交界の花であったことから、この二人の関係はマドリードでスキャンダルを巻き起こしました。
代表作『裸のマハ』は彼女がモデルだと言う説もあります。
またこの頃から、ゴヤはフランス革命に端を発する自由思想を信奉し、祖国スペインの状況に強い危機感をもつ知識人たちと親交を深めていきます。
彼らは旧弊を打開し改革を求める自由主義者でした。
1798年マドリードのサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ聖堂の壁画を描く名誉ある注文を受け、99年にはエッチング(銅版画)による風刺的作品を集めた版画集『ロス・カプリチョス』を出版しました。
そして翌年12月、ついにゴヤは主席宮廷画家に任命されます。
これにより13年前王付き画家となったころより3倍以上の収入を得ることになりスペイン画家の頂点に上り詰めたのです。
ゴヤの生涯④ 戦争の惨禍
ゴヤの生きた前半生は、国が安定していた時期でしたが、カルロス4世の治下(1788~1808)になると社会不安が高まり、隣のフランス革命の影響が国際的にも広がったことでさらに悪化します。
カルロス4世は気弱で怠惰な君主であり、反対に勝ち気であった妃のマリア・ルイーサに振り回されていました。王妃は成り上がりの寵臣マヌエル・デ・ゴドイの言いなりとなり政治を私物化します。
こうしたことから彼らの統治は貴族からも平民からも評判が悪く1808年民衆の反乱が起こりゴドイは失脚、カルロス4世は退位して息子のフェルナンド7世が即位しました。
こうしたスペイン国内の混乱に乗じて、フランスのナポレオン軍がスペイン侵攻を試みます。
スペイン国王フェルナンドはフランスと同盟を結び、ナポレオンの軍隊をスペインに迎え入れたうえ、王位をナポレオンの兄ジョセフ(=ホセ1世)に渡してしまいました。
フランスによるスペイン進駐に対してマドリード市民は暴動を引き起こし、独立戦争へと発展します。ゴヤはこの時の戦争の惨禍に驚愕し、エッチングによる連作《戦争の惨禍》を制作しその残虐性を訴えました。
しかし王位が変わってもゴヤは王宮にとどまりフランス人の王に忠誠を誓います。
そして1811年ジョセフより王室勲章も受けました。
その後イギリス軍の介入によって1814年フェルナンド7世が王位に返り咲きます。
ゴヤは“侵略者から職を得た”という嫌疑で罰せられそうになりますが、《フランス人王からもらった勲章は付けたことがない》と主張し何とか罪を免れ、また独立戦争の引き金となったマドリード蜂起を描いた有名な作品《マドリード、1808年5月2日》と《マドリード、1808年5月3日》をフェルナンドに献上し、そのまま主席宮廷画家として安泰な生活が保障されました。
ゴヤの生涯⑤ 晩年
1812年ゴヤの妻が亡くなりますが、そのころは人妻のレオカーディア・ウェイスと愛人関係にあったことからゴヤは悪意に満ちたゴシップの的にされました。
1814年ナポレオンが失脚してようやく悲惨な戦争は終結します。
復位したフェルナンド7世は、“待望王”として期待されましたが、王はその期待を裏切って再び封建的な専制君主へと時代を逆行させるだけでした。
そのためリベラルな考えの友人たちは他国へ亡命し、ゴヤは『裸のマハ』が“わいせつ”で“不道徳”であるとして異端審問所に告訴されました。
1815年ゴヤは実質的に公の場を退き、ごく親しい友人と自分自身のために絵を描きました。
1819年、73歳の時には再度重病に襲われますが、マドリードの高名な医師エウへ二オ・ガルシア・アリエータによって一命をとりとめました。
その時の医師の治療に対して感謝の意を表して描いた作品(↓)
この年『聾の家』と呼ばれる別荘をマドリードの南マンサナレス河畔に購入し、レオカディア・ソリーリャとその娘とされるロサリオと同棲し隠遁生活を始めます。
ゴヤはこの別荘の1,2階の壁に私的な作品《黒い絵》の連作を描きました。
1820年リエゴ将軍による自由主義革命が成立し、スペインは立憲制となりますが、2年で潰え23年には三たびフェルナンド7世が国王として帰還します。
そしてまたもリベラル派への弾圧が始まりゴヤの友人たちの何人かはフランスへと亡命し、ゴヤも友人の家に身を隠します。
1824年に大赦令が出されたことで、多くの作品を別荘に残したままゴヤは78歳でフランスへと旅立ちます。
ボルドーで数日滞在した後パリに2か月逗留。当時パリには亡命者たちのコロニーがありました。
折しもパリではサロン(官展)が開幕し、ドラクロワやアングル、イギリスの風景画家コンスタブルなどの作品が並びました。
1826年フランス旅行から一時帰国したときに宮廷画家の辞職を申し出ます。
最後の4年間はボルドーで家族や友人たちに囲まれ穏やかに過ごします。
最晩年になってもゴヤの創作意欲は衰えず、友人たちの肖像画以外にも新たな技法の実験を試み表現の可能性を追求しました。
加齢による視力の低下から緻密な作業をともなう銅版画に代わってデッサンのように自由に描ける石版画やコンテによる素描を好んで使うようになります。
1828年4月16日、中風の発作によりボルドーのアパルトマンにて死去。享年82歳でした。
遺体はボルドー郊外のラ・シャルトル―ズのゴイコエチェア家の墓地に共同埋葬されました。
1900年に遺骨はスペインに運ばれ、いったんマドリードのサン・イシードロ聖堂の墓地に埋葬されますが、後にサン・アントニオ・デ・ラ・フロリーダ聖堂に移されました。
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