こんにちは。管理人の河内です。
今回はロマン派の巨匠ウジェーヌ・ドラクロワの生涯を詳しく辿ってみたいと思います。
若くして亡くなった “ロマン派”の旗手であり、友人だったテオドール・ジェリコーの意思を継いでロマン派絵画を花開かせたドラクロワ。
美術界の異端とされながらもその人生は、敵対する新古典主義の代表アングルの浮き沈みの激しいものとは反対に、画家としては順風な人生を送ったようです。
目次
ドラクロワの生涯① 出生~青年時代
1798年4月23日、パリ南東部郊外のシャラントン=サン=モリスに生まれました。
父は政府の高官シャルル・ドラクロワ、母は宮廷工芸師の娘ヴィクトワール・ウーベンでドラクロワは夫妻の第4子として生まれました。
しかし実の父はナポレオンの帝政下で外務大臣を務めウィーン会議ではフランス代表として出席した有名な外交官モーリス・ド・タレーランと言われています。
実際大人になってからのドラクロワはタレーランとよく似ていたということでも信憑性が高いと言われています。またドラクロワには政府関係の公的な仕事が多かったので政府高官である“実の父”が便宜を図ったのではないかと見る向きもあります。
1801年ドラクロワの一家はボルドーに移ります。
1805年には当時ジロンド県の知事だった父が亡くなりパリに戻りますが、14年には母ヴィクトワールを亡くし、16歳で孤児となってしまいました。
1806年リセ・アンベリアルの寄宿生となり、母方の叔父で画家のアンリ・リスネと会い示唆を受け、リセで中等教育を受ける傍ら自主的に絵を描き始めドローイングで賞も取るほどで、いち早く画家としての才能を見せています。
ドラクロワの生涯② 青年期~ロマン派画家のデビュー
1814年、孤児となったドラクロワは姉アンリエットに引き取られ、学校を卒業(15年)。
叔父アンリ・フランソワ・リースナーの勧めで新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランのアトリエに入り、ルーブル美術館でラファエロやルーベンスの模写をして勉強をします。しかしアトリエではそのアカデミックな画風には反発を感じていました。
そのアトリエで、ドラクロワはロマン派の先輩であるテオドール・ジェリコーと知り合い、その色彩や運動感あふれるロマン主義的方向に惹かれていきます。
翌年エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学。
1819年ドラクロワは初めての注文を受け、オルスモンの教会のために《収穫の聖母》を制作。これはラファエロの影響が強く出ていました。
1822年24歳で初めてサロン(官制展覧会)に《ダンテの小舟》を出品しました。
この作品は友人ジェリコーの『メデュース号の筏』に触発されて描いたものでしたが、サロンでは大きな批判を浴びました。
しかしそれをなんと敵対するはずの“新古典主義”の巨匠ダヴィッドの弟子で、アングルの兄弟子でもある審査員のジャン・アントワーヌ・グロが絶賛、グロの強力な推薦を受けてサロンに入選し、ドラクロワの名が世間に知られることになりました。
この頃はイギリス人水彩画家セイリーズ・フィールディングと同居し、イギリス人風景画家たちと交流を持ち、作品にはイギリス風景画の大家コンスタブルの影響がうかがえます。
2年後の1824年大作には『キオス島の虐殺』をサロンに出品。
この作品は、ギリシャ独立戦争の最中、エーゲ海に浮かぶキオス島でのトルコ軍による住民虐殺を主題にしたもので、折からのギリシャ独立戦争が世間から注目を集めていたこともあり賛否両論あったものの話題となって二等賞を獲得しました。
この作品でドラクロワは“ロマン派”の画家と見られるようになります。
またこの同じサロンに“新古典主義”の巨匠ドミニク・アングルがイタリアから戻り『ルイ13世の請願』を出品し大絶賛を得ています。
そしてアングル対ドラクロワ=”新古典主義”対”ロマン主義”の対立図式が成立していくことになります。
しかしこの年ドラクロワの敬愛するロマン派の旗手ジェリコーが、落馬が原因で33歳という若さで亡くなりドラクロワは深い悲しみを味わいます。
1825年オペラ座の元ダンサー、ウジェニー・エメ・ダルトンと知り合い愛人関係を持つ。
そしてこの年5月から8月まではロンドンに滞在し、イギリス風景画の巨匠ジョン・コンスタブルや風景画のロマン主義画家ウィリアム・ターナーらの絵に接します。
またシェイクスピアの芝居やゲーテの『ファウスト』を見てインスピレーションを受け、1828年には『ファウスト』を主題にしたリトグラフを制作しました。
1827年、姉のアンリエット・ド・ヴェルニナックが死去。
パイロンの詩をもとに制作した《サルダナパールの死》をサロンに出品します。
しかしこの作品はサロンでは物議をかもし、またも厳しい批判にあいました。
当時の美術長官ソステーヌ・ド・ラ・ロシュフーコー公爵からは、”これまで通り政府の厚遇を受けたければ画風を変えるように”と圧力をかけられました。
この頃ロマン派の《結社》で作家のヴィクトル・ユゴーら文学者たちと交流する。
1830年、パリで7月革命が勃発。
国王シャルル10世が貴族優先の政治をしたのに市民が反発し、パリで一斉蜂起をしたのです。シャルル10世はイギリスへと亡命しオルレアン公ルイ=フィリップが国王に即位し、立憲君主制となりました。
そして翌年ドラクロワはこの7月革命を主題にした代表作『民衆を導く自由の女神』をサロンに出品し政府買い上げとなり、レジオンドヌール勲章(シュバリエ)を受けます。
ドラクロワの生涯③ モロッコ旅行と大作の注文
1832年にはドラクロワはフランス政府がモロッコのスルタンに外交使節を派遣する際、大使のモルネー伯の随行員に任命され1月から7月までモロッコ、やナイジェリアなど北アフリカを旅行します。
ここで500点余りのスケッチを描いています。この旅行はドラクロワの作品に大きな転機をもたらしました。明るい地中海世界の輝く太陽、多彩な東方世界の風俗はドラクロワの作品をより一層明るく華麗なものとしました。
1833年からはドラクロワがサロンデビュー当時からの擁護者であったアドルフ・ティエールが商業・公共事業相となり、彼の好意でブルボン宮『王の間』の装飾の注文を受けるなど、政府の依頼による大規模な公共建造物の装飾画の仕事をはじめます。
また女流作家ジョルジュ・サンドとの交流が始まる。
1834年モロッコ旅行の成果である《アルジェの女たち》をサロンに出品。
1836年頃から生涯に渡ってドラクロワの身辺の世話をすることになるジェニール・ギヨーが家政婦となる。
1838年国会議事堂図書室の天井画を手掛け、その後リュクサンブール宮の図書室、サクラメント教会のサン=ドニ礼拝堂の壁画などいくつもの重要な注文を受ける。これらの大作を仕上げるためにピエール・アンドリューら助手の手を借りる。
また度々旅行のため制作を中断することもありました。
1841年『ロマン派』と『新古典主義』の対立が激化する。
ドラクロワの死因となる結核性喉頭炎が悪化し社交的な付き合いを切り詰めるようになる。
この頃は作曲家ショパンとジョルジュ・サンドのカップルと親しく付き合い、ノアンのジョルジュ・サンド邸にショパンとともにしばしば滞在しています。
1844年 サン=ドニ=ド=サン・サクレマン聖堂の壁画《ピエタ》を完成させる。
喉頭炎治療のために夏の間はピレネー山脈に滞在しそこでの風景を水彩画などで描いています。
45年には兄のシャルルが亡くなり遺産整理のためにボルドーへ赴く。
1850年ルーベンスの作品を研究するためにベルギーに旅行。ルーブル宮「アポロンの間」の天井画に着手(51年完成)。コローと知り合う。
1852年ルイ=ナポレオンがナポレオン三世として皇帝となり第二帝政が始まります。
ドラクロワの生涯④ 晩 年
1855年57歳の時、パリの万国博覧会でアングルとともに特別室を与えられ、油彩36点が展示されました。
ドラクロワのそれまでの画業の全貌を見せるこの大回顧展が開かれたことで国際的にも知られるようになります。
11月にはレジオンドヌール勲章2等を受賞し2年後、59歳の時、8回目の立候補にしてようやく王立アカデミーの会員となることが出来ました。
これにより新古典主義とロマン主義の戦いに終止符が打たれました。
論文『美の多様性について』を発表。
1857年フェルスタンベールに転居し広大なアトリエを構える。
ここでは喉頭炎が悪化したため常に極度の暖房がきかされていました。
1859年、61歳の時サロンに油彩8点を出品しこれが最後の出品となりました。
その後もマルチネ画廊での個展やサン=シュルピス聖堂での天井装飾画などを精力的に手掛けますが、64歳の時に喉頭炎が悪化します。
1861年晩年の14年間を費やしたサン=シュルピス聖堂の聖天使礼拝堂の壁画を完成させる。ルーブル宮や市庁舎の装飾など、ドラクロワは晩年も同時期に大規模な制作を依頼されており、この礼拝堂が遅々として進まなかったのですが助手のアンドリューらに助けられようやく一般公開にこぎつけたのです。
1863年 アトリエにモネとフレデリック・バジールの訪問を受けます。
8月13日パリのアパルトマンでジェニール・ギヨーに看取られて死去。享年65歳でした。
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