こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは19世紀ロマン主義(ロマン派)の代表画家ウジェーヌ・ドラクロワです。
ドラクロワと言えば世界史の教科書でもおなじみの『民衆を導く自由の女神』でご存知の方も多いと思います。
半裸の逞しい女神が『自由・平等・博愛』という三つの理念を象徴した鮮やかな三色旗を高々と掲げ、民衆を鼓舞するドラマチックな場面ですね。
また美術史的には当時のフランス画壇を牛耳っていた新古典主義の巨匠ドミニク=アングルとの新旧流派対決が有名です。
でも実際は、ドラクロワ本人はロマン主義と言われるのを嫌っていたともいわれています。
フランス革命後の混乱するフランスで、新たな潮流を産み出し続く20世紀に大きな影響を残したドラクロワとは一体どんな人物だったのでしょうか?見ていきたいと思います。
目次
ドラクロワってどんな人?
本名:フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ
Ferdinan Victor Eugène Delacroix
18世紀末から19世紀前半のフランスで活躍したロマン主義(ロマン派)の巨匠。
有名な詩人ボードレールは、ドラクロワを熱烈に支持し『ルネサンス最後の、そして近代最初の巨匠』と断言するほどでした。
ドラクロワは正規の美術教育よりも、ルーブル美術館での過去の巨匠たちの模写からその画力を培った画家でした。17世紀のルーベンスやヴェネツィア派の影響を受け、流動的な構図や鮮やかな色彩、自由な筆さばきによって、中世から現代にいたる宗教画や風俗画、裸婦、風景と多岐にわたって様々なジャンルを主題にドラマチックに描きました。
特にダンテ、シェイクスピア、ゲーテらの文学者の作品から無限のインスピレーションを受け、強烈な色彩に輝くダイナミックな独自の世界を創り上げました。
ドラクロワの豊かな色彩と想像力、感性に訴えかける手法は、絵画表現の可能性を広げ、明るい色彩効果は後の印象派の画家たちに大きな影響を与えることになります。
「道理をわきまえた絵は好まない」と語り、現実の事件を露骨な暴力性や官能性を、豊かな色彩を使って表現する“ロマン主義”を主張して保守的な美術界に物議と波紋を繰り広げました。
そして当時美術界の主流であった神話画や宗教画を均整の取れた画面に理想化して描く“新古典主義”と激しく対立したのです。
特に当時起こったギリシャの独立戦争の際に起きたトルコ軍による住民大虐殺を描いた「キオス島の虐殺」(↓)は、『残酷で生生しすぎる』と酷評を受け『絵画の虐殺である』とさえ言われましたが、ドラクロワは『色んな美があっていい。悲惨なものも芸術になる』と反論しています。
新古典主義のドン、ドミニク・アングルは凄惨な現実を絵にしたドラクロワを「彼には醜く恐ろしいものしか描けない」と詰る一方、ドラクロワはアングルを「不完全な知性の完璧な表現」と揶揄しました。
この対立は30年にわたって繰り広げられましたが、ドラクロワが59歳にしてようやく保守的な王立アカデミーに迎え入れられることで一応決着しました。
(しかしアングルは最後までドラクロワのアカデミー入りに反対していました)
こうしたことからドラクロワは『美の破壊者』とまで言われますが、実は保守的な良家の出で、父のシャルルは政府高官で外交官、近親にも貴族に縁があり由緒正しい階級に属していたのです。
しかし実際の父親は、シャルルの友人でもあり外交官で政界の大物タレーランだと言われています。
そんな出自を持つドラクロワは教養があり物腰も優雅な紳士でした。
そのため社交界でも人気がありましたが実は内向的な性格だったようです。
しかし画家としては生涯で9000点以上の作品を作る多作で精力的な画家でした。
“戦争”を主題に多くの作品を描き、『祖国のために敵を打ち破ることはできなかったとしても、少なくとも国のために作品を描くことはできる』と語っているように激しく情熱的で反体制を唱え、革命を賛美するという二面性をもっていました。
ドラクロワを熱烈に賛美した詩人のボードレールは、ドラクロワの性格に対して「懐疑主義と礼儀正しさ、ダンディ趣味と燃えるような意志、狡猾さと、専制的態度と、そして天才にはいつもつきものの一種の人の良さ、物柔らかい優しさなどの奇妙な混合であった」と言っていて、とても複雑な性格だったようです。
また音楽にも造詣が深く、かの有名な作曲家ショパンとも交流がありました。
ドラクロワは生涯独身を通し、一人も弟子をとらず孤独に過ごしました。若い頃から何度か失恋を経験し一度は親友に恋人を奪われたこともありました。
また18世紀後半の当時はナポレオンのエジプト遠征などをきっかけにフランスではオリエンタリズムが流行していました。
画家たちもこぞって東洋趣味の作品を描きましたが、そのほとんどが持ち帰られた衣装や調度品、そして書物による情報から東洋をイメージして描かれたものでしたが、ドラクロワだけは違いました。
ドラクロワは政府派遣の外交使節団に同行し、モロッコなど北アフリカを旅し、直接アラブの文化に触れられたのです。そのためドラクロワの作品はより生き生きとした雰囲気や刺激的な太陽と色彩表現が生まれ、彼の芸術を特徴づけるものとなったのです。こうした表現は後のルノワールたち印象派や、ゴーギャンらの後期印象派、そしてピカソやマチスなど20世紀の美術にまで大きな影響を与えたのです。
ドラクロワの生涯~ざっくりと
ここでドラクロワの生涯を簡単にご紹介します。
詳しい生涯についてはこちらの記事をご覧ください⇒『ロマン派の帝王」ウジェーヌ・ドラクロワの生涯を詳しく解説!
ウジェーヌ・ドラクロワは1798年パリ南東部郊外のシャラントン=サン=モリスに生まれました。
父は政府の高官で、母は宮廷工芸師の娘でした。
しかし実の父は政府高官で外交官のタレーランだといわれています。
1815年アカデミズムの画家ゲランのアトリエに入り、ロマン主義の先輩テオドール・ジェリコーと出合う。翌年エコール・デ・ボザールに入学。
1822年初めてサロンに《ダンテの小舟》を出品。
1828年『ファウスト』を主題にしたリトグラフを制作。またパイロンの誌より制作した《サルダナパールの死》をサロンに出品する。
1831年サロンに前年起きたパリの7月革命を主題にした代表作『民衆を導く自由の女神』を出品し政府買い上げとなる。
1832年フランス政府大使団に随行して半年間モロッコに旅行する。
1833年政府の依頼による公共建造物の装飾画の仕事をはじめる。
1834年モロッコ旅行の成果で代表作《アルジェの女たち》をサロンに出品。
1841年『ロマン派』と『新古典主義』の対立が激化する。
1855年パリ万博で特別室を与えられ大展覧会を開く。
1857年アカデミー会員になる。
論文『美の多様性について』を発表。
1863年パリのアパルトマンで死去。享年65歳
ドラクロワの代表作
ここではドラクロワの代表作を簡単にご紹介します。
詳しい解説付きにつきましてはこちらの記事をご覧ください⇒『美の破壊者』と呼ばれた画家ドラクロワの代表作を詳しく解説!
『地獄のダンテとウェルギリウス(ダンテの小舟)』
1822年 189×241.5㎝ ルーブル美術館蔵
『墓地のみなしご』
1823年 65.5×54.3㎝ ルーブル美術館蔵
『キオス島の虐殺 』
1823-24年 419×354㎝ ルーブル美術館蔵
『サルダナパールの死』
1828年 392×496㎝ ルーブル美術館蔵
『民衆を導く自由の女神』
1830年 260×326㎝ ルーブル美術館蔵
『アルジェの女たち』
1834年 180×229㎝ ルーブル美術館蔵
『怒れるメディア』
1838年 260×165㎝ リール市立美術館蔵
『ヤコブと天使の戦い』
1861年 751×485㎝ パリ サン・シュルピス聖堂
ドラクロワの画風と技法
1.新古典主義とロマン主義
ここでドラクロワを中心に展開したロマン主義ですが、新古典主義との違いをまとめてみましょう。
新古典主義とロマン主義の違いは次のような対比でみると分かりやすいと思います。
理性に対して感受性を、デッサン(線)に対して色彩を、安定した静けさに対しダイナミックな激しさ、普遍的な美に対して民族や芸術家による個別の美(個性)を優位に置いたということができます。
新古典主義はその名の通り古典から受け継いできた “理想の美”を唯一絶対としましたが、絵ロマン主義はこれを否定し個性的な美を主張したのです。
人々の理性や知性に訴えるのではなく、感情に訴え、人間とは何かを問いかけるものだったのです。
2.ロマン主義とは?
ロマン主義の“ロマン”とは、ロマンス語で書かれた中世の歴史物語(ロマンス)に由来しています。
ヨーロッパでは伝統的にラテン語で書かれた書物(歴史物語や神話、聖書など)が『高貴』とされていて、ロマンス語は一般的な民衆の話し言葉で、それで書かれた文学がロマンスなのです(アーサー王伝説など)。
そしてロマン主義は、同時代の事件も「歴史」として主題に取り上げ、それを大画面に描きました。その先駆けがジェリコーの『メデューム号の筏』です。これは当時実際に起きたフリゲート艦メデュース号の難破事件を描いたものです。
3.ドラクロワの画風の特徴
新古典主義の代表アングルが、線による明確な造形と理想的な調和の世界を目指したのに対し、ドラクロワはタッチによる形体の動的な把握と、何よりも色彩の調和を通じての表現を目指したと言えます。
ドラクロワは「硬い直線は人間の感動を冷やし、空想の翼をしぼませる」と語っているように彼は画面に生命力やエネルギーを求めました。
そのためドラクロワの筆致は、力強くうねり筆跡が残るように動いていきます。こうした表現は17世紀バロックの巨匠ルーベンスの影響が強いと思われます。
また“色彩の画家”と言われるほど色を自由に使い、生き生きとした生命感を持たせようとしました。
こうした特徴は、フランス政府が派遣した大使団の随行員として参加したモロッコ旅行によってより強化されました。
明るい地中海世界の輝く太陽と、多彩な東方世界の文化風俗がドラクロワの作品をより一層明るく華麗なものへと導いたのです。
こうした鮮やかな色彩表現は、後の印象派をはじめゴッホやマチスなどにも影響を与えました。
またもう一つの特徴として、その作品で官能性や残虐性を前面に押しだしたことがあげられます。
それらは“倫理”や“理想”の美を求めることこそ芸術であるとする当時の美術界からは大きな批判を浴び、サロンの反発を招きましたが、そこには人間誰しもが持っている性や暴力性への欲求や愚かさ、そうしたものを暴き出してこそ芸術であり、より美を輝かせるとドラクロワは考えていたのではないでしょうか。
そしてそうした彼の主張や感覚は、若い芸術家にこそ突き刺さり、大きな影響を与えたのでした。
このように、急進的に見えるドラクロワですが、制作にあたっては伝統に忠実でした。
多くのモデルを使い、時間をかけて徹底的にデッサンを重ね、本番に近い下絵を描いてしっかり下準備をしていたのです。
そのため本番では早描きが可能となり、その結果画面には生き生きとした躍動感があふれることができたのです。
ドラクロワ まとめ
いかがでしたか?
『美の破壊者』ドラクロワは保守的な美術界からはある種異端児扱いされますが、近代という時代が生んだ画家だったと言えると思います。
ドラクロワが晩年に著した『美の多様性について』で美の基準は一つではなく様々な種類があってよいと主張しています。
現代に生きる私たちにはごく当然のように聞こえますが、19世紀のヨーロッパでは美の基準とは過去から連綿と受け継がれてきた『古典』だけが絶対だったんですね。
ドラクロワは多くの戦争をテーマにした作品を描いていますが、彼はその悲惨さや残虐性を政治的にも道徳的にも訴えようとしたのではなく『人間の持つ絶望的なまでの野蛮性』や『狂気』『苦悩』、言った人間の負の内面を露わにし、その中にこそ残虐な美を発見したと言えるのかも知れません。
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