こんにちは。管理人の河内です。
今回は19世紀写実主義の画家。印象派のリーダー的存在であったエドワール・マネの生涯を詳しくご紹介します。
生粋のパリジャであったマネ。とても紳士的な人物でしたが、その画業はスキャンダルの嵐にさらされた不遇な時代が長く続きました。しかし最後には成功を掴んだマネの人生を詳しく見ていきましょう。
目次
マネの生涯① 出生~修業時代
1832年1月23日、パリの裕福な上流家庭で、司法省の高級官僚の父オーギュストと芸術を愛する母ウージェニーの間に長男として生まれました。
父親は、息子を堅実な法律家にさせたいと思っていました。しかしその意に反してマネは勉強嫌いで気質的にも法律家には向いていませんでした。
逆に母ウージェニーは音楽を愛し、こどもたちにピアノのレッスンを受けさせていました。またマネには美術愛好家の伯父エドモン・フルニエがいました。マネははじめこの伯父から絵を描くことを教わります。
1848年マネが16歳の時、法律家にさせようという父親と、画家になる決心をしたマネが衝突します。結局親子はどちらにもならず、海軍学校に入るという第3の選択をします。
しかしマネはその入学試験に失敗し、半年間商船で水夫見習いとして働くことになりました。(この経験を積めば再度受験出来る資格が得られたのです)こうしてマネは、1848年12月リオデジャネイロに船出します。
船旅から戻ったマネは、再度海軍学校を受験しますがまたも不合格。やはり自分には向いていないと、画家になることを父に懇願します。
ようやく父も息子の真剣さに折れて希望を認め、1850年、当時尊敬を集めていた画家トマ・クーチュールのアトリエに入学します。しかしこの時18歳のマネは、すでに絵画に関して自らの考えを持っており、それは師の教える伝統的歴史画などを描くスタイルとは対立するものでした。
「自分の時代に忠実であらねばならない、そして目に見えるものを描くことだ」とマネは言っています。
この時すでにマネは自分の描くべきイメージは定まっており、それは生涯変わることはありませんでした。
しかし結局クーチュールのアトリエには6年も通い、一方でルーブル美術館でティツィアーノ、ヴーシェ、ルーベンスといった古典の巨匠たちの作品を模写をして勉強します。
またこの頃、マネは学生ながら、弟のピアノ教師をしていた20歳のオランダ人女性シュザンヌ・レーンホフと恋に落ち、二年後に彼女はマネの息子レオンを産みます。
そのことが厳格な父に知られるわけにはいかず、理解ある母親の助けを得てシュザンヌに間借りをさせて住まわせました。
その後二人が1863年に正式に結婚した後も、シュザンヌはわが子を弟だと偽り続け、マネは名付け親のふりをしていました。
1853年にはイタリアを旅行し、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマなどを巡って過去の巨匠たちの模写をしています。
マネの生涯② サロンへの挑戦とスキャンダル
1856年マネはクーチュールの元を離れ、アルベール・バルロワと共にラヴォワジ街にアトリエを借りて創作をはじめます。
またオランダ、ドイツ、オーストリア、イタリアを旅し美術館などを巡りました。
1857年ルーブル美術館でアンリ・ファンタン・ラトゥールと知り合い、翌年詩人のシャルル・ボードレールと出会って親交を深めます。
1859年、『アプサンを飲む男』をサロンに初出品。落選するも審査員だったロマン派の巨匠ドラクロワからは評価されました。
1860年パティニョール街にアトリエを借りる。
1861年サロンに『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』(↓)を出品し、初入選を果たして自信をつける。
父親が他界。多額の遺産を相続する。
1863年、『サロンに草上の昼食』(↓)を出品して落選。
この年のサロンは例年に比べて審査が厳しく、多数の落選者を出したため、落選者の不満が高まり、それを汲むかたちでナポレオン3世によって『落選者展』が開催されました。
この展覧会は、人々の感心を買って沢山の人が訪れましたが、そのほとんどが彼らを嘲笑するために訪れたのです。そしてそこにこの『草上の昼食』が展示され大スキャンダルとなります。
マネにとってこの作品は、ヴェネツィア・ルネサンスの巨匠ティツィアーノの作品を下敷きにした古典の名作の現代的解釈をした作品であり、大真面目に世間の賞賛を期待していました。
しかしそのことは世間には理解されませんでした。
この、ごく現実的な場に普通の紳士たちと一緒に裸の女性がいることが『卑猥である』『良俗に反する』と当時の人々には受け取られて怒りを買ったのです。
1864年パティニョール街にアトリエを借りる。
1865年、『オランピア』(↓)がサロンに入選しますが、ここでもさらに激しい避難にさらされます。
ここにいるのはただの裸の娼婦「メスのゴリラ」であり、恥ずかしげもなく、「まるで女神ヴィーナスを装い道徳を無視している」と世間は憤慨したのです。
こうした世間の厳しい反応に打ちのめされたマネの落ち込みは激しく、しばらくは絵筆を握れませんでした。
マネは逃げるようにスペインへ旅行し、そこでベラスケスの作品に出会い、大きな感銘を受けます。
作品は世間に認められませんでしたが、マネは父の遺産を受け継いだので何不自由なく生活が出来、華やかな社交界にも頻繁に出入りしていました。
また、毎週木曜日は、マネのパティニョールのアトリエに近いカフェ・ゲルボアに芸術家たちが集い、彼らのためのテーブルまで用意されていました。
そこには画家のドガやホイッスラー、写真家ナダール、小説家エミール・ゾラらと後にモネやルノワールらも加わり『パティニョール派(後の印象派)』とも呼ばれるようになります。
また父か亡くなったことでシュザンヌと正式に結婚をします。
1866年、サン・ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通りに移る。
この年エミール・ゾラと知り合います。ゾラはスキャンダルの渦中にあったマネを終始擁護し『レヴェンヌマン』誌などで弁護礼賛し、マネはこうしたゾラの好意に対して謝意として『エミール・ゾラの肖像』(↓)を描きました。
1867年、パリで万博が開催されますが、マネはその美術展への出品を拒否されます。未だ絵が認められないマネは、世間の評価を得ようと自費で個展を開きますが、これも評価はさんざんなものでした。
この展覧会でも人々はわざわざマネの作品を嘲笑するために詰めかけたといいます。
1868年、ベルト・モリゾーと知り合う。
1870年7月、普仏戦争が勃発。
マネは家族をピレネー山中のオロロンに避難させ、国防軍に入隊します。
71年はじめに家族の元へ駆けつけ5月にパリに戻ります。
1872年、従軍によって健康を害したマネは、神経を衰弱させ療養のためブーローニュに移ります。
しかしこの年、画商ポール・デュラン・リュエルが30点ものマネの作品を買い付け、またサロンに入選をはたします。
40歳になっていたマネは、自分を慕う若い後の印象派の画家たちとも画架を並べて制作しました。そして彼らの影響から戸外で制作する手法を取り入れるようになります。1870年代にはまだサロンでの評価は不安定でしたが、徐々に指示する批評家も現れ始めます。
1874年 モネと共にアルジャントゥイユで制作する。
『第一回印象派展』が開かれますが出品を請われますが、マネは出品しませんでした。
1876年、7月に左足に痛みを覚えるようになります。これが後の病の最初の兆候となり1870年代末には左足の痛み、極度の疲労、全身に刺すような痛みなど梅毒の末期症状が現れます。パリ郊外のベルヴュに移り治療を受ける。
この頃は、油絵よりも負担の少ないパステル画を多く描くようになります。
1880年、ヴェルサイユ公園近くに別荘を借りる。
マネの生涯③ 成功と晩年
1881年、サロンで『獅子狩りのペトリュイゼ』が二等賞を受賞し以降、サロンは無審査となります。
また友人で芸術担当大臣であったアントナン・プルーストの尽力で、レジオンドヌール勲章を受賞します。
この頃には病状は一段と悪化し痛みで体が麻痺。
1882年『フォリー=ベルジェ―ルの酒場』(↓)をサロンに出品し大成功を収めます。
1883年春に歩行困難になり病床につく。4月24日左足が壊疽し、切断。
4月30日高熱と痛みに苦しみながら息を引き取る。享年51歳。パリのパッシィ墓地に埋葬されました。
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