【新古典主義の巨匠】ドミニク・アングルの作品と生涯をご紹介します!

こんにちは。管理人の河内です。

今回は19世紀前半のフランス美術界のドン、ドミニク=アングルをご紹介します。

18世紀後半から19世紀前半と言えばフランスでは革命が起こったり、ナポレオンがヨーロッパを席捲したりとまさに動乱の時代でした。

おとなりのイギリスでは産業革命が起こり、いち早く近代化の道を進む一方ドイツはビスマルクによって国が統一されたり、北米ではアメリカ独立戦争が起きたりとまさに世界規模で時代の変革期でした。

 

そんな時代、フランス美術界ではそれまでの貴族社会を背景にした華やかな宮廷文化である“ロココ様式”が衰退し、古代ギリシャ・ローマ時代を模範とした“調和と理想の世界”を目指す“新古典主義”と、色彩や感情を表現しようと新しく台頭してきた“ロマン主義”が争っていました。

こちらはロマン主義代表ドラクロアのフランス革命を描いた『民衆を導く自由の女神』 歴史の教科書なんかで見たことがあるのではないでしょうか?

 

今回ご紹介するアングルは当時の主流であった“新古典主義”の長としてフランス美術界を牛耳っていた人物です。

そのアングルとは一体どのような人物だったのでしょうか?

見ていきたいと思います。

目次

アングルってどんな人?

本名:ジャン=オーギュスト・ドミニク・アングル(Jean-Auguste Dominique Ingres)

1780-1867

19世紀前半のフランスで活躍した“新古典主義”を代表する画家。

 

アングルは1780年フランス南西部モントーパンに生まれました。

新古典主義の巨匠ダヴィッドに師事した後、長いイタリア生活でルネサンスの古典様式を学び、特にラファエロの作品に心酔し、これを規範として緻密な構成、線による明確な形体、理想化された形式美などを使った歴史画、神話画、肖像画など数々の傑作を残しました。

 

無類の素描家としても知られその卓越したデッサン力で、特に女性の裸体を通してフォルム(=形態)の理想美を追求しました。

アングルは、その前半生の多くをイタリアで過ごし、ルネサンス美術の研究を通して独自の画風を追求しますが、その作品は長い間本国フランスでは認められませんでした。しかし突如44歳になってようやくその才能が脚光を浴びます。

 

当時ナポレオンの寵愛を受けた『新古典主義』の親分でかつての師匠だったダヴィッドが、ナポレオンの失脚とともに亡命したため、ライバルだった『ロマン主義』に美術界を乗っ取られようとしていました。そんな中アングルは『新古典主義』の後継者として、ロマン派に対抗する最後の砦としてフランス美術界に熱烈に迎え入れられたのです。

 

しかし実際はアングル自身の作風にもロマン主義的な要素を取り入れたり、独自路線を追求しているので時には不評を買うこともありました。

また当時急速に発達する写真によって、画家の職業が脅かされるなどと告発したりしましたが、実はアングル自身も制作に写真を利用するなどちゃっかりしているところもあったようです(;^ω^)

 

その後は出世街道を上り詰め、フランスで最も権威ある画家としてレジオン・ド・ヌール勲章を受章したり、議会議員や国立美術学校(エコール・デ・ボザール)の校長などの要職に就くなどフランス美術界の頂点に君臨し、晩年は後進の指導的役割を担いました。

 

アングルが晩年を過ごした19世紀中盤は、ロマン主義だけでなく、クールベらの《写実主義》やマネが『草上の昼食』を描いて《印象派》の道筋をつけるなど、社会の大きな変化に伴い様々な新しい美術の潮流が生まれる時期でもありました。

ギュスターヴ・クールベ『画家のアトリエ』(部分)

エドワール・マネ『草上の昼食』

古典のアカデミズムを絶対視するアングルは、そうした流れを苦々しく思いながらも、最後まで自己の理想を追い求め“オレ流”を貫き通しました。

80歳を超えてもその旺盛な制作意欲は衰えることなく『トルコ風呂』など傑作を生み続け最後まで独自の美学を追求し続けたのです。

 

またアングルは音楽の才能も素晴らしく、バイオリンはプロ級だったようで有名な作曲家パガニーニと共演したこともあり、フランスでは『アングルのバイオリン』と言えば「プロ並みの趣味」という意味で一般的に使われるそうです。

 

アングルの生涯~ざっくりと

ここではアングルの生涯を簡単にご紹介してみたいと思います。

詳しい生涯につきましてはこちらの記事をご覧ください。⇒【ドミニク・アングルの生涯を詳しく解説します!】

 

アングルは1770年フランス南西部モントーパンに生まれました。

父親は同じ画家で装飾彫刻家、音楽家という多才な人物でした。早くから息子の芸術的才能を見抜き12歳のときにトゥールーズの美術学校に入学させます。

1797年にパリに出て、新古典主義の巨匠ジャック=ルイ=ダヴィッドに弟子入りします。

1801年に若手芸術家の登竜門である“ローマ賞”を獲得してイタリア留学の権利を得ますが、ナポレオン戦争中のために五年間先延ばしにされることに。その間にナポレオンの肖像などを制作しています。

1806年ようやくイタリア留学を果たし、以降留学が終わった後も18年にわたってイタリアで活動を続け、ルネサンスの巨匠たち、特にラファエロに心酔し研究をしました。

一方で本国のサロンに作品を送り続けますが、代表作である『浴女』(1808)、『グランド・オダリスク』(1814)などは酷評を受けてしまいます。

1820年40歳のときローマからフィレンツェへと移りますがこの頃は生活が非常に苦しく、イタリアを訪れる旅行者たちの肖像画などを描いて食い扶持をしのいでいました。

しかし1824年、サロンに『ルイ13世の誓願』(↓)を出品、これが好評を博します。

アングルは44歳で『新古典主義の後継者』としてフランスに凱旋。ようやく画家として成功を果たします。

その後はとんとん拍子で出世をしレジオン・ド・ヌール勲章を受章したり29年にはアカデミーの教授となるなどパリの美術界の頂点に上り詰めました。

しかし1834年『聖サンフォリアンの殉教』がサロンで不評を買ったことに憤慨し、ふたたびローマへ行ってしまいます。

ローマではアカデミーフランスの院長として若い芸術家たちの指導と制作に没頭。

6年後ようやく60歳のときにフランスへ帰還しますが、その時もまたパリで熱烈に迎えられました。

1849年には妻に先立意たれますが、3年後には30歳も若い女性と再婚。

1855年 パリの万国博覧会でアングルの大規模な回顧展が開かれ、晩年は82歳で人生の集大成ともいうべき『トルコ風呂』を描いたり、議会の評議員になるなどまだまだ旺盛に仕事をこなし、88歳という長寿を全うしパリで亡くなりました。

 

アングルの代表作

ではここでアングルの代表作をご紹介します。

作品の詳しい解説こちらの記事をご覧ください⇒巨匠ドミニク・アングルの代表作を詳しく解説!

「リヴィエール嬢」

1805年 100×70㎝ ルーブル美術館蔵

 

「皇帝の座につくナポレオン」

1806年 259×162㎝ パリ軍事博物館像

 

「オイディプスとスフィンクス」

1808年 189×144㎝ ルーブル美術館蔵

 

「ヴァルパンソンの浴女」

1808年 146×97㎝ ルーブル美術館蔵

 

「グランド・オダリスク」

1814年 91×162㎝ ルーブル美術館蔵

 

「アンジェリカを救うルッジェーロ」

1819年 175×190㎝ ルーブル美術館蔵

 

「泉」

1856年 163×80㎝ ルーブル美術館蔵

 

「ルイ=フランソワ・ベルタンの肖像」

1832年 116×96㎝ ルーブル美術館蔵

 

「トルコ風呂」

1862年 直径108㎝ ルーブル美術館蔵

アングルの画風

アングルは長いイタリア滞在中に古典やルネサンスの巨匠たち、とりわけラファエロに深く傾倒し、その完成された様式美を熱心に学びました。

厳格な《古典主義》にのっとり、明確な輪郭線ではっきりと形が描かれ、正確な肉付けによって彫像のように安定した人体、そして『fini=フィニ』と呼ばれる筆跡を一切残さない陶器のように滑らかな肌、これらがアングルにとっての美の完成形だったのです。

 

さらに「美しい形とは丸みをおびた簡潔な形である」言っているように、特に裸婦の表現にこだわり一つの作品を描くのに何度もデッサンを重ね

そこで色彩よりもデッサンが重要で、『絵の至高の価値は構図と線の構造にこそある』と主張しました。

絵画とは現実世界の一場面を切り取るのではなく、永遠不動の世界、《理想の美》を創り上げることだったのです。

また『芸術的な美』『純粋な美』を追い求めた結果、アングルの描く絵画空間は時が止まったように凍り付いた冷たい印象を与え、時には解剖学的な正しさを度外視したり遠近法さえも無視しています。

 

アングル まとめ

いかがでしたか?

19世紀「新古典主義」の巨匠ドミニク・アングル。

中年以降はフランス美術会の重鎮として君臨した彼でしたが、若い頃はなかなか認めてもらえず随分苦労したんですね。

そのためか、晩年は後進の育成にもとても熱心でした。

校長を勤めた国立美術学校ではデッサンを重視したことからヌードデッサンを必修にしたのですが、これって今でも当たり前に美術の学校では行われていますが、アングルが始めたんですね。

更に写真技術が発達しすぎてはこれからの画家が仕事を失うと告訴したりもするなどこれからの若い世代のことを真剣に考えてくれるとてもよい教育者だったんですね。

また自身は最後までバイタリティ溢れる人物で純粋に理想の美を追い求めた画家でした。

 

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