こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは18世紀後半から19世紀前半に活躍したイギリス美術史上最高の風景画家、ウィリアム・ターナーです。
その表現は、19世紀の印象派や20世紀の抽象画までも先駆けたような作風で、日本でもとても人気が高く絵具メーカーの名前にもなっているほどで、数年に一度は展覧会が開かれ今年(2018年)も東京で開催されましたね。
詳しくはこちらに【展覧会報告】の記事がありますのでよろしければご覧ください。
ターナーには日本人には取っ付きにくい宗教画はほとんどなく、茫洋とした柔らかな光に包まれた風景画を得意としたので日本人にはとても親しみやすい画家だといえると思います。
実際管理人の私が初めて感動した外国の画家がターナーでした。
作品は忘れてしまいましたが、私がまだ小学生だったころ、新聞の日曜日版にカラーで大きく載っていたのに感動したのを覚えています。
そんなターナーとは一体どのような人物だったのでしょうか?見ていきたいと思います。
目次
本名:ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー
Joseph Mallord William Turner
1775-1851年
ウィリアム・ターナーは、18世紀後半から19世紀前半にイギリスで活躍した風景画家です。
美術史的にはロマン派に位置づけられています。
ターナーはロンドンの床屋の息子として生まれました。
父親とはとても親密な関係で、息子の良き理解者であり友人でもありました。
息子の才能に誇りを持っており、成人してからも息子の助手のように制作の下準備などを手伝っていました。
母親については詳しく分かっていませんが、ひどい癇癪持ちで後に精神に異常をきたし精神病院で亡くなっています。
ターナーは少年時代から自宅近くのテムズ川に魅せられ、水の流れや刻々と変化する水面の光、立ち上る霧、さらにはのどかな田園風景などに親しみ、それらは終生ターナーのインスピレーションの源泉となりました。
ターナーは生まれつき背が低く、大人になってからは太ってずんぐりとした体形で、上にあげた『自画像』は随分自分を美化して描いたようで、別の画家が描いたターナーの肖像はこちらですが…客観的にはこちらの方が正しいのでしょうか(;^ω^)
さてターナーの性格はというと、ぶっきらぼうで無口。気難しくて社交嫌いな上に、父親の影響から極度のケチでも有名でした。
また極端に秘密主義な性格で、自分の制作方法を明かすことはほとんどなく、生涯独身でしたが、未亡人を愛人に持ち、その関係を世間に知られないように偽名を使ったりもしていました。
こうした天才画家にありがちな(?)偏った性格が、作品に強いこだわりを持たせ独自の世界を創造させたんですね。
さらにターナーは作品に対してだけでなく、自分の作品の展示場所にも強いこだわりを持っていて、ロイヤル・アカデミーで他の画家たちと展示場所や位置をめぐって揉めることもあったようです。
そのためターナーは自宅にギャラリーを作り、そこで客に作品を見せたり、遺言で国に作品を遺贈する代わりにその展示の仕方を事細かに指示していたりもしています。
ターナーは初めはきちんとした美術教育は受けず、14歳の時にロイヤル・アカデミー・スクールズに授業料免除の候補生として入学します。
そこでメキメキ頭角を現し25歳という若さでイギリス美術界を牛耳っていたロイヤル・アカデミーの正会員となり、32歳でそこの教授となりました。
ターナーは作品を描くために現地でみずから風景を体感することを重視する徹底した『現場主義』の画家でした。
そのためアカデミースクールに在籍中から数えきれないほどの旅をし、驚異的なスタミナでイギリス国内だけでなくヨーロッパ各地を回り、膨大な数のスケッチを描きました。そしてこれらをもとにアトリエで油絵や水彩画、版画などに仕上げたのです。
ターナーの描く風景は、若いころは穏やかで緻密な写実表現でしたが、年と共に変化を遂げ自然の強大で恐ろしい力や厳しさに主題が向かい表現は抽象化していきます。
そして自然の圧倒的な迫力を表現するために、ターナーは自ら嵐の海に船を出し、マストに体を縛り付けさせて荒れ狂う波をその身浴びたり、鉄道のスピード感を体感するために窓から身を乗り出して雨風に身をさらしたりと破天荒ともいえる行動が伝えられています。
その旺盛な探究心と精力的な制作は晩年まで衰えることはありませんでした。
ターナーは油絵だけでなく、水彩画、素描、版画なども多く手がけ亡くなった時には何と2万点を超える膨大な数の作品が残されていました。
ここでターナーの生涯を簡単にご紹介します。
詳しい生涯については後日また書きたいと思いますのでしばらくお待ちください。
ターナーは1775年4月23日ロンドンのコヴェント・ガーデンに床屋の息子として生まれました。
14歳でロイヤル・アカデミー・スクールズの候補生となる。
1790年、15歳で初めてロイヤル・アカデミー展に作品(水彩画)を出品しています。
99年には英国ロイヤル・アカデミーの準会員に選ばれる。
1800年母親が精神錯乱のためベスレム精神病院に入院。
1802年26歳の若さでロイヤル・アカデミー正会員に選出され、さらに32歳の時に同学にて遠近法教授となり教鞭をとる。
1819年最初のイタリア旅行に出て各地を回り、イタリアの陽光に魅了されます。2か月の滞在中に1500点ものスケッチを描きました。
1828年再度イタリアを訪問。
1829年父親が死去し大きな打撃となる。
1831年からパトロンであったエグラモント卿のペットワースの屋敷に長期滞在するようになる。
1833年生涯の愛人となるブース夫人と知り合う。
1838年代表作『戦艦テメレール号』を制作。
1843年ラスキンの『近代画家論』第1巻が刊行されターナーを擁護する。
1844年『雨、蒸気、速力』を制作。
1851年チェルシーで死去。
ここでターナーの代表作をいくつかご紹介します。
詳しい解説付きの記事はまた後日アップいたしますのでしばらくお待ち下さい。
『海の漁師たち』
1796年 91.4 cm×122.2 cm テート・ブリテン蔵
『難破船』
1805年 78×122㎝ テート・ブリテン蔵
『吹雪、アルプスを越えるハンニバルと彼の軍勢』
1812年 146×237.5㎝ テート・ブリテン蔵
『水のある風景』
1835~40年 122×182㎝ テート・ブリテン蔵
『音楽会、ペットワーズ』
1835年ごろ 121×91㎝ ロンドン テート・ブリテン蔵
『戦艦テメレール号』
1838年 90.7×121.6㎝ ナショナル・ギャラリー蔵
『雨、蒸気、スピード― グレート・ウェスタン鉄道 』
1844年 91×121.8㎝ ナショナル・ギャラリー蔵
『ノラム城』
1835~40年頃 78×122㎝ テート・ブリテン蔵
ターナーの描く風景は、時に穏やかな田園であり、時には暗い嵐の海、反対に光あふれる茫洋とした海であったり、峻厳な山岳という自然のあらゆる表情を見せてくれます。
しかしターナーが一貫して心惹かれたのは自然の猛威や厳しさ《人間の存在をはるかに超えた強大な力》であり、それらを象徴的にドラマティックに描き続けました。
その画風は、クロード・ロランを代表とするイタリア的風景画、オランダで描かれた自然主義的な風景画、そして英国伝統の地誌的実景描写などをベースとして、ターナー自身の感性と独創性が合わさって生まれたものでした。
クロード・ロランの作品。
ターナーの地詩的実景描写による作品。
若い頃はピクチャレスク(絵のような)風景で名を馳せますが、44歳の時にはじめて訪れたイタリアで明るい陽光と色彩に魅せられます。
特にヴェネツィアで見た輝く水や光の光景はターナーに決定的なインパクトを与え、後の作風を一変させました。
晩年には独特の光や空気感に包まれたターナー独自の作風が完成。それは自然の雰囲気を、色彩のコントラストと筆触の勢い、筆跡によって表現するという非常に抽象的な画風と言えます。
このような晩年の抽象化された作品は、あまりにも前衛的過ぎ、未完成のようにも見えたため、いかにターナーがすでに巨匠として認められていても、画壇や批評家たちを困惑させあるいは非難されました。しかしこうした表現はある意味で近代絵画を先取りしたものでありフランスの印象派を始め、次代に続く多くの芸術家に大きな影響を与えました。
印象派のモネは、ターナーの作品を見てこの『印象・日の出』を描きました。
いかがでしたか?イギリス最大の風景画家ウィリアム・ターナーは、人間的には一癖も二癖もある、ある意味芸術家らしいタイプの人物でした。
早熟で若くして地位も名誉も手に入れたターナーは、お金に対してはすごくケチだったようですが、それ以外の現世的な権威や名誉には魅力を感じず、己の感性と体験に基づき計算しつくした表現で、自然というスケールの大きなものを相手に挑み続けた画家でした。
ターナーについては『ターナー、光に愛を求めて』というターナーの伝記映画が制作されており、この記事でもご紹介したエピソードなどが描かれていますのでご興味のある方はぜひご覧ください。管理人もこの映画を見て威光はターナーのイメージが役を演じた役者さんに完全に一致してしまいました((;^_^A