こんにちは。管理人の河内です。
今回はヴェネツィア・ルネサンスあるいは単に「ヴェネツィア派」とも言いますが、その代表的画家ティツィアーノをご紹介します。
美術好きの方でも名前はよく聞くけど詳しくはよく知らないという方も多いと思います。
作品も取り立てて誰もが知っているような作品はないのですが、実は管理人がこのブログを書いていて他の画家を解説しているのに、このティツィアーノほど頻繁に登場してくる名前はありませんでした。
これまで紹介してきた巨匠たちも天才とは言え自分一人でその世界を創り上げたわけでなく、過去に学び技や伝統を受け継いだりして少なからず影響を受けてその才能を開花させたわけですが、そうしたエピソードの中で~は「~~の影響を受け…」とか「~~を勉強して」という文言の中に入る画家としてティツィアーノが一番多かったように感じています。
他にも歴史的画家は何人もいるのに、どうしてティツィアーノがこれだけ多くの画家から支持され影響を与えてきたのでしょうか?
そんなことも考えながらこの稀代の巨匠を見ていきたいと思います。
目次
本名:ティツィアーノ・ヴェチェリオ 1485-1576
15~6世紀のヴェネツィア派最大の画家。
1516年に師匠のジョヴァンニ・ヴェリー二亡き後、91歳という当時としては異例の長寿を全うするまでの60年にわたってヴェネツィアの画壇に君臨した画家の王。
ティツィアーノが活躍した当時のヴェネツィアは、独立共和国として空前の繁栄を謳歌していた時代でした。
そんな時代ヨーロッパ中の王侯貴族を顧客に持ち、卓抜した技術だけでなく人を魅了する能力によってヨーロッパ最高権力者であった神聖ローマ帝国皇帝カール5世までもパトロンであり友人としました。
中でもカール5世はティツィアーノを専属の肖像画家に指名し、画家としては前代未聞の「宮中伯」と「金拍車の騎士」の称号を授与しただけでなく、宮廷への出入りも含めて貴族階級に与えるのと同等の特権を与え、息子でスペイン王になったフェリペ2世もそれを引きつぎました。
多くの貴族がティツィアーノの作品を熱心に買い求め、大成功をおさめたティツィアーノは自身も富裕な資産家となり貴族さながらの生活を送りましたが、その私生活についてはあまり詳しいことは分かっていません。
しかしここまでの異例の社会的地位を獲得し、大画家に上り詰めたのは単にその画業だけが理由ではありませんでした。
彼は万人が認めるように上品で魅力的な人物であり話題が豊富で周囲の人々を引き付けていました。
そのためむしろ貴族たちの方からティツィアーノのご機嫌を伺い付き合いを望んだといいます。
しかし一方でティツィアーノは金銭にはとてもシビアで絶えず金銭トラブルを抱え金の亡者、貪欲な人間だとの悪評もあります。
貴族と同等の待遇を受けていたにも関わらず、自身が「パトロンの好意に報いるためにひたすら働く貧しい画家」というイメージを創り上げ、カール5世に度々金を無心したりしています。
ティツィアーノの特徴としては、ルネサンス期の芸術家はレオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるように絵画だけでなく建築、彫刻、音楽など多岐にわたる“万能型”の天才が多い中、画業一筋を貫いたところにあります。
若いころにもう一人の天才画家ジョルジョーネと共同で制作し、彼から大きな影響を受け二人で共同で油絵の新技法を開発したりもしました。(ジョルジョーネとは兄弟弟子だったという説もありますが、ジョルジョーネは残念ながら若くして亡くなります)
後年は最も名の知れた大画家として数十人もの弟子やスタッフを抱える工房を率いて膨大な数の作品を残しました。
その主題は、神話画、宗教画、肖像画とあらゆる方向にわたりそのすべてで数々の傑作を残しています。
ではここでティツィアーノの生涯を簡単にまとめてみたいと思います。
詳しい生涯につきましてはこちらの記事をご覧ください⇒【元祖・色彩の魔術師】ティツィアーノの生涯を詳しくご紹介します。
1485年ごろ イタリアのピエーヴェ・ディ・カドーレに生まれる。
1508年 ヴェネツィアのドイツ人商館の壁画をジョルジョーネと共作する。
1516年ヴェネツィア共和国の御用画家となる。
《聖母被昇天》に着手する。
フェラーラの宮廷を訪問する。
1530年初めてカール5世に謁見する。
1533年カール5世の宮廷画家となり、『宮中伯』と『金伯車の騎士』の称号を授与される。
1545年教皇パウルス3世をローマに訪問。
1548年 アウグスブルクの宮廷に9か月滞在する。
ミラノでフェリペ2世と会う。
1554年フェリペ2世のために《ポエジア》連作に着手する。
1576年ヴェネツィアで亡くなる。
ここでティツィアーノの代表作を簡単にご紹介します。
詳しい解説付きの記事は現在執筆中ですので出しばらくお待ちください。
『 田園の奏楽 』
『 聖愛と俗愛 』
『 青い袖の服を着た男 』
『 聖母被昇天 』
『 ペーザロの聖母 』
『 バッコスとアリアドネ 』
『懺悔のマグダラのマリア 』
『 カール5世騎馬像 』
『 エウロペの略奪 』
ティツィアーノの画風の特徴は何と言ってもその現代的ともいえるタッチのダイナミックさと、当時としては画期的な鮮やかな色彩でした。
ダ・ヴィンチを見ても分かるように、リアリティを追求しようとすれば絵におけるタッチ(筆触)は極力抑えられなければなりません。
しかしティツィアーノのそれはタッチそれ自体が生き物のように躍動し、見る者を魅了します。
これはジョルジョーネとともに共作開発した、絵具を溶かずに直に目の粗いキャンバスに絵具を塗る方法から生まれました。
薄塗りで滑らかな質感がそれまでの油絵の主流ですがこの手法によって後のレンブラントやベラスケス、そして印象派など近代にまで続くタッチによる表現を獲得したのです。
初期の頃は伝記作家ヴァザーリによると綿密で驚くほど念入りな仕上がりを見せていました。
しかしこれが晩年は「大まかな筆致で描かれているため、近くからは何も見ることが出来ないが、遠く離れれば完璧に見える」作風に変化していきました。
この表現は一見すると、短時間で急いで描いたのではないかと思われるほど筆が走っています。
しかし直にティツィアーノと会っていたヴァザーリは、彼の作品が「何度も修正され、何度か色が塗られているからどれほどの労力がかかっているかを知っている」と記述しています。
また弟子のパルマによると、ティツィアーノは筆だけでなく、最後の方ではむしろ指を多く使って色をぼかし調整していたようです。
ラファエロなどのデッサンを見ると良く分かりますが、当時は本制作の前にしっかりとした構想に基づき、人物や建物は綿密に計算され配置されました。
そしてしっかりとした線描きによる下絵のデッサンを用意してそれを本番に写し取るというのが制作の流れだったのです。
しかしティツィアーノの場合、線ではなく大きな色の塊(マッス)で直にスケッチしていました。
これを基礎に何度も手直しをし、構成しなおして描き進めました。(この制作スタイル自体がとても現代的です)
これによってティツィアーノ作品は描かれたもの以上に躍動感があり、画面全体が動きを持ち真に迫るリアリティを生んでいるのです。
しかしこうした手法は前述のように、特にフィレンツェやローマのやり方とは大きく異なっていました。
実際1545年、ティツィアーノがローマを訪れ《ダナエ》の制作をしていた時、ヴァザーリの紹介で会ったミケランジェロは、ティツィアーノの手法を見て色彩とスタイルは気に入ったが「ヴェネツィア人が最初に十分に素描すること知らないこと、そしてこうした画家たちが研究を重ねて、より優れた手法を追求しないのは残念なことだ」と語ったといいます。
そしてもう一つ忘れてはならないのは肖像画におけるそのリアリティさです。
リアリティと言っても写真的なリアルではなくその人物の表情、面構えと言ってもいいかも知れませんが、そこからその人物の性格や内面が手に取るように伝わってきます。
ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ、いかがでしたか?
日本ではダ・ヴィンチやラファエロに比べてそれほど一般的ではない画家ですが、冒頭でも書きましたように彼の影響を受けた画家は、母国イタリアにとどまらずスペイン、オランダ、ベルギー、ドイツと枚挙にいとまがありません。
若くして画家として成功し、その後半世紀以上にわたってヴェネツィアに君臨し、絵筆一本で財産を築き貴族さながらの生活を送った彼は、まさにルーベンスと並ぶ“画家の王”といってもいいかも知れません。
日本でティツィアーノを主役に紹介する展覧を管理人はあまり聞いたことがありませんが、バロック絵画やルネサンスの画家を紹介する展覧会などでは時々数点だけですが見かけます。
そうした機会にちょっと今回の記事を思い出していただければ幸いです。
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