【印象派の長老】カミーユ・ピサロの生涯と作風をご紹介します!

こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは「印象派の長老」カミーユ・ピサロです。

ピサロは印象派グループの最年長であり温厚な性格で、個性の強い画家仲間の間を取り持ったり、気難しく人付き合いの苦手なドガやセザンヌ、ゴーギャンなどと親しく交わることに長けていてとても仲間から尊敬されていました。

そういう意味で印象派の中でも地味な印象の画家ですが、ピサロがいなければ“印象派”はなかったかも知れないほど重要な人物なのです。

画風も同じくとりわけ主張が強いわけではなく、さりげない表現、優しい表現が特徴で、管理人が運営する絵画教室でも印象派の技法を学びたい方にはまずピサロかシスレーの模写をお勧めしています。

そんな“印象派”の影の立役者カミーユ・ピサロとは一体どのような人物だったのでしょうか?見ていきたいと思います。

目次

ピサロってどんな人?

本名:ヤコブ・アブラハム・カミーユ・ピサロ
Jacob Abraham Camille Pissarro

19世紀フランスで活躍した印象派の画家。

印象派グループの中で最年長であったこともあり、個性の強い画家たちをまとめることに尽力した「印象派の長老」と言われる画家です。
1874年から1886年にかけて合計8回開催されたいわゆる“印象派展”の全てに参加した唯一の画家でした。

また長く立派に蓄えた顎鬚の風貌からも同時代の若い画家たちからは聖書をもじって「主よ」とか「モーセ」と呼ばれたりもしていたそうです。
性格は温厚で、芸術に対しとても勤勉で誠実な人物だったピサロには多くの信奉者がいて、個性が強すぎる若い印象派画家たちの求心力ともなっていました。

また同時代の画家たちの才能をいち早く見抜く才能に長けていて、ゴーギャンセザンヌなど人付き合いが苦手な画家たちにも親身に接し、良き師匠であり友人でもありました。

“印象主義”が世間から認められはじめ、経済的安定を得られるようになった段階でも、それまでの表現にとらわれることなく30歳近くも若いスーラやシニャックなどからも常に学ぶ謙虚な姿勢を保ち続けました。(残念ながらこうした若い世代が、古参の印象派に参加するよう計らった結果、印象派のさらなる分裂を引きおこすという皮肉なこともなりました)

そういう意味でもピサロは“印象派” “新印象派”“後期印象派”とすべてに関わった“長老”画家でした。

一方でピサロは政治的にはアナーキスト(無政府主義者)で正義感が強く、ブルジョアジーを嫌悪していました。
ピサロは芸術家が「完全に自由に、資本家、美術愛好家、投機家、画商諸氏からひどく束縛されることなく」制作できることを夢見ていましたが、そうした政治的ポリシーと芸術はきっちりと分けて考え、作品で社会を風刺したり考えを反映したりすることありませんでした。

ピサロは当時の画家としては珍しくカリブ海に浮かぶデンマーク領セント・トマス島でユダヤ家系に生まれ、一時期パリでの寄宿学校生活以外はこの島で育ちました。

そこで画家フリッツ・メルビーと知り合い画家を志してパリに移住します。その後は故郷に戻ることはなくフランスで一生を送りました。

初期の頃はバルビゾン派の画家カミーユ・コローやフランソワ・ミレー、写実主義のクールベなどから大きな影響を受けコローからは直接戸外での制作を勧められ、パリ郊外のモンモランシーやラ・ロッシュ=ギヨンで仲間の画家たちと野外制作をはじめます。
この姿勢が“外交派”とも言われる後の印象派へ繋がっていきました。

その後パリだけでなくポントワーズ、ル―ヴジェンヌ、ブルターニュ地方など住まいを転々としながらその土地土地の風景や農民たちの生活を優しい色合いで数多く描きました。

私生活では8人もの子どもに恵まれた良き父親でもありました。5人の息子たちは父親と同じく芸術家の道を進み、長男リュシアンはピサロの良き相談相手でもありました。

ピサロはその生涯を通して2300通以上もの手紙を残しています。
毎日のように友人や家族、画商、美術愛好家、評論家などに手紙を書き、これら膨大な手紙は本としても出版されていて印象派の時代を語るのに欠かせない資料ともなっています。

ピサロの生涯~ざっくりと

ではここでピサロの生涯について簡単にご紹介します。
詳しい生涯につきましてはこちらをご覧ください⇒ [印象派の父」と呼ばれた画家カミーユ・ピサロの生涯を詳しくご紹介します!

 

1830年西インド諸島のアンティル諸島、セント・トマス島に生まれる。
1842年、12歳から5年間フランスのパシーの学校で学ぶ。
学校を終えて帰国後、家業を手伝いますが1855年画家のフリッツ・メルビーと共に
ベネズエラへ行く。

1855年にセント・トマス島に戻った後、画家になることを決意。父を説得し再びパリへと向かう。
パリで絵を描き始め、1859年からサロンに出品、入選する。
1860年バルビゾン派の画家たちから影響を受けパリ郊外の田園地帯で制作に励む。

1861年パリのアカデミー・シュイスに通いそこでモネやセザンヌと出会う。

1863年落選者展に出品。
長男が生まれる。
ポントワーズ、ルヴシエンヌと移った後70年に普仏戦争を避けてロンドンへ。
そこで印象派を見出した画商デュラン=リュエルと知り合う。

1871年フランスにもどりポントワーズやオーヴェール=シュル=オワーズでセザンヌと共に制作する。

1874年第1回印象派展に参加。以降8回まですべてに参加する。

ブルターニュ地方でしばしば制作。モンフーコーにある画家で友人のルドヴィク=ピエットが所有する農園に滞在する。

1878年パリのトロワ=フレール街にアトリエを構える。

1883年 ルーアンを訪れる。

1884年オスニーに短期間滞在後、エプト川沿いの村エラニーに移り住み、1892年には夫人がそこに果樹園と土地付きの家を購入。

1885年シニャックに出会い、ジョルジュ=スーラを紹介される。スーラと絵画技法について議論し新印象派の流れに参加。

1885~91年新印象主義の技法(=点描)を採用し、ブリュッセルやパリの前衛画家たちと一緒に展覧会を開く。

1890年息子のリュシアンに会いにロンドンを訪問。
1892年画商デュラン=リュエルによって大規模な回顧展が開かれる。

1894年 パリで無政府主義者の暴動が勃発しベルギーのノック=シュル=メールに避難する。
1893からルーアン、パリ、ディエップ、ル・アーヴルなどの都市をテーマにした連作を制作。

1903年 パリにて死去。

ピサロの代表作

ではここでピサロの代表作を簡単にご紹介したいと思います。
詳しい解説付きの記事はこちらをご覧ください⇒ [作品解説!]カミーユ・ピサロの代表作を解説します!

『モンモランシーの風景』

1859年 21.6×27.3㎝ オルセー美術館蔵

 

『ポントワーズの小さな橋』

1875年 65.5×81.5㎝ マンハイム市立美術館蔵

 

 

『 マチュランの庭 ポントワーズ、ドレーム夫人の邸宅』

1876年 113.5×165.4㎝ アメリカ・カンザスシティ ネルソン・アトキンス美術館蔵

 

『ポントワーズの花咲く菜園、春』

1877年 65.5×81㎝ オルセー美術館蔵

 

『赤い屋根、村のはずれ、冬』

1877年 54.5×65.6㎝ オルセー美術館蔵

 

『朝食、コーヒーを飲む若い農婦』

1881年 63.9×54.4㎝ シカゴ美術研究所蔵

 

『帽子を被った農家の若い娘』

1881年 ワシントン ナショナル・ギャラリー蔵

 

 

『モンマルトル大通り 冬の朝』

1897年 64.8×81.3㎝ ニューヨーク  メトロポリタン美術館蔵

ピサロの画風と技法

画風の変遷

ピサロの画風は、初期の頃はコローやミレー、ルソー、トロワイヨンといった《バルビゾン派》の画家たちから大きな影響をうけました。さらに写実主義のクールベやマネたちからも構図や主題を受け継いでいます。
またポントワーズではセザンヌとイーゼルを並べて制作しともに影響し合った結果、初期のセザンヌに見られるようま厚ぼったい絵の具を塗り重ねる画風へと移行し、

その後《筆触分割》といういわゆる“印象派”の手法を使った画風へと移っていきます。

《筆触分割》についてはこちらの記事をご覧ください⇒ モネの技法

1880年ごろからいわゆる印象派特有の技法である“筆触分割”を発展させた独自の点描画法をはじめます。そしてスーラたち“新印象派”の画家たちとの交流を通して科学的に点描を研究しますが、あまりに制作に手間や時間がかかること、そして何よりこの表現法が硬直化することを予見し、点描画法を放棄して90年ごろには元のスタイルに戻りました。

スーラによる点描で描かれた”新印象派”の代表作

ピサロ 画風の特徴

モネルノワールらは近代都市における市民の生活を初めて描いたとされますが、その多くは美化された生活や理想的な余暇を描いたものでした。
しかしピサロの絵画には彼らのような華やかさには欠けるものの大地や労働に根差したリアルな生活が描かれています。

またピサロはその生涯で様々な土地へ移り住み、その場所やそこに住む人々を美化したり誇張したりすることなくありのままを優しい色使いで描きました。

モネやドガなどは30代から40代で独自の画風を確立し、老境にさしかかると身体能力や境地の変化に伴って変化するものの、この頃の発展形を位置付けられますが、ピサロの場合はグループの中で年長だったこともあり40代半ばを過ぎてからいわゆる“印象派”的な画風を確立しますが、50代半ばには筆触分割の手法を極限にまで推し進めた“点描”に向かい、さらに60歳になってその限界を感じ、印象派的表現に回帰するという経過をたどりました。
それは早くに独自の画風と評価を得ていた画家や画商からはある意味迷走とも言えますが、ピサロは経済的安定を得られるようになってもまだ試行錯誤を続け、最後まで自身の芸術追求を続けていたということでもあります。

 

 

ピサロ まとめ

いかがでしたか?
印象派の長老カミーユ・ピサロ。自画像からも分かるようにその風貌からして長老と呼ばれるのにふさわしい人物でしたが、真が強く人にも芸術にも誠実で、多くの人から尊敬され慕われていた人物でした。

画風も誇張をせず地味な印象もありますが、柔らかい色合いと優しい自然や人物への眼差しが温厚なピサロの性格からにじみ出ているようです。

画家としては不遇の時代が長く、一家は度々困窮していましたが、友人画家や画商たちの好意や援助を受けられたのも彼の人徳によるところが大きいと言えそうですね。

 

 

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・『印象派の父』と呼ばれた画家カミーユ・ピサロの生涯を詳しくご紹介します。~前半~

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