”光の画家” クロード・モネ 印象派巨匠の魅力をご紹介します。

今回は『睡蓮』で有名な印象派の巨匠、モネを取り上げます。

モネはゴッホと並んで私たち日本人に最もなじみの深い、そして最も人気のある画家ですね。

管理人が学生時代、美術館で絵の運搬や展示をするアルバイトをしていた頃、今ほど美術館にお客さんが入らなかった時代に関係者の方から聞いた話があります。

それは美術館が経営に困ったら「印象派(展)をやればいい」というのです。

つまり印象派をやれば日本では必ずお客さんがくる(それも大勢)というわけです。

その状況は20数年経った今でも変わりません。

毎年のように日本のどこかで「モネ展」「印象派展」が開かれたくさんの方が訪れます。

そして何千、何万の人が遠い本場パリのオルセー美術館やオランジュリー美術館に足を運んでいます。

そんな日本人が大好きなモネ、いったい何が私たちを惹きつけるでしょうか?

そして作品は知っていてもモネが一体どのような人物で、どのような人生を送ったのかあまり知られていないかもしれません。

この記事ではそんなモネに迫るべく、その生涯と画風を数回に分けてご紹介していきます。

目次

モネってどんな人? クロード・モネについて

19世紀末、フランスで起こった絵画運動「印象派」を代表する画家。

彼の作品「印象・日の出」が「印象派」という言葉を生むきっかけとなりました。

↓この作品が「印象・日の出」

生涯、時間や季節とともに移ろいゆく光を、風景画を通して追い求めた「光の画家」。

「睡蓮」「ルーアン大聖堂」の連作などが日本でも有名です。

 

モネの活躍した時代はまさにフランスで日本文化が高く評価されたジャポニズムの時代。

多くの画家が浮世絵に魅了され、モネも同様に大きな影響を受けました。

「ミスター印象派」モネは「光の画家」との異名を持つように、終生光の魅力に取りつかれ、時間とともに移り行く光を追い続け、鮮やかですが柔らかくウェットで無常観を湛えた曖昧な表現を確立しました。

そうした余剰溢れる表現が、日本人の感性に深く共感を呼ぶのではないでしょうか。

しかしそれまでの西洋画といえばなんといってもリアルで重厚、形式ばった油絵が本流でした。

サロンと呼ばれる国が主催する大きな展覧会(官展)で認めてもめてもらえなければ画家として生きていくことが出来ない時代でした。

そこにルノワールやピサロらと共に反旗を翻し、新しい表現を模索していったのです。

彼らは形式にとらわれたアカデミックな画風から抜け出すために、自分の目で見たありのままの世界を表現しようとしました。

後に「近代絵画の父」といわれるセザンヌがモネをリスペクトして「モネはただの目だ。ああしかし何と素晴らしい目か!」と語ったといいます。

 

しかし当初はそんな「前衛」的表現が保守的な美術界から認められることはなく、彼らのやり方は真っ向から否定されます。

「雑」で「へたくそ」な素人集団のように蔑まれ嘲笑の的になったのです。

モネには妻とまだ小さい子どもがいたのに絵は一向に売れず、周りからの支援に頼ってしのぐ経済的に厳しい日々が続きました。

そんな時代、自暴自棄になったモネは川に身を投げ自殺を図ったこともありました。

しかし彼ら印象派のメンバーは、自らの信念を貫きカフェに集っては芸術論を戦わせ合い、模索を続けたのです。

39歳のときに一人目の妻カミーユに先立たれ、印象派メンバー内にも確執が起こり、それぞれが個別に表現を模索し続ける中40代になると絵が徐々に売れ始めます。

ヨーロッパ中を旅し、アメリカでも認められるようになります。

生涯住む場所を転々と変えながら、ジュヴェルニーに腰を据えてかの有名な睡蓮の連作を手掛けます。

90年代に入り再婚、この頃にようやく名声を確立します。

名声を得た後も慢心することなく「移ろう光」を追い求め続けました。

しかし晩年はまたもや妻、そして息子にも先立たれ、自身は白内障という画家として致命的な病に苦しみながらも不屈の魂でかの睡蓮の大連作を描き上げたのです。

オランジュリー美術館

 

モネの生涯~ざっくりと

ここで簡単にモネの生涯をご紹介します。

詳しくはモネの生涯~詳しくを参照してください【モネの生涯~詳しく】

 

モネは1840年パリで生まれました。5歳のときに家族でノルマンディーに移住。

大自然の中で少年時代をおくります。

59年(19歳)にパリに出て本格的に絵を学び、ルノアールやピサロなど後の印象派の画家たちと出会います。

 

1865年からサロンに出品。入選、落選を繰り返し、経済的に苦しい生活が続くもルノワールたち印象派の仲間たちと伝統的アカデミズムにとらわれない新しい表現を模索し、サロンから独立した展覧会を開催。

批評家たちの揶揄した言葉から”印象派”の名が生まれました。

 

70年に勃発した普仏戦争での兵役を逃れるためにロンドンに渡り、後の重要なモネの支援者となる画商デュラン・リュエルと知り合います。

 

79年に最初の妻カミーユと死別後、パトロンだったオシュデが亡くなりその未亡人アリスと再婚。

83年セーヌ川沿いのジヴェルニーに居を構え生涯をここで暮らすことに。

90年代には名声が高まり「花の庭」、睡蓮の池で有名な「水の庭」を造園。

睡蓮などの連作に取り掛かります。

裕福になった後も慢心することなく家族の死や白内障による視力障害と戦いながら晩年までひたむきに創作に打ち込み86歳で死去。

 

モネの代表作を紹介

ここでモネの代表作を簡単にご紹介します。

詳しい解説はこちらをご覧ください。【モネの代表作をわかりやすく解説付きで紹介!】

ラ・グルヌイエール 1869年制作

 

かささぎ 1869年制作

 

印象・日の出 1872年制作

 

アルジャントゥイユのレガッタ 1872年制作

 

散歩、日傘の女  1875年制作

 

ラ・ジャポネーズ 1876年制作

 

サン・ラザール駅 1877年制作

 

積み藁  1890年制作

 

睡蓮  1906年制作

 

 

モネの作風と技法について

モネの技法の特徴は大胆な「早描き」と「筆触分割」にあります。

これらの印象派独自の技法は、1869年ごろ、ルノワール達とともに「ラ・グルヌイエール」を描いたころに確立されたといわれています。

モネたち印象派の画家は、光溢れる自然の中で素早く情熱をもってキャンバスに向かいました。

彼ら以前にも戸外で制作をする画家はいましたが、それはあくまでもスケッチで、それをもとに室内のアトリエで完成させるのが通常でした。

しかしモネは自らの目に映る光や感じる空気までも表現するために、戸外での制作こそが中心だったのです。

当然のことながら、自然の光(太陽)は時間とともに移りかわります。

その光と影をキャンバスに定着するためには、素早く描かなければなりません。

緻密で正確なデッサンに基づく写実性を捨て、その場その場で感覚的に筆を走らせて行きました。

そのために自由奔放で柔軟かつ大胆なタッチが生まれたのです。

↑タッチがそのまま見えますね。

さらに鮮やかな光の色彩を再現するために、パレットでできる限り混色をせずに直にキャンバスの上に並べておくように描いていきました。これを「筆触分割」といいます。

素早いタッチで描くことで、この筆触分割は生まれたのです。

こうして渇きの遅い油絵具を素早く重ねることで、下の色と上の色が混ざることがなく、より豊かな表情を生みつつ色は濁らないという理想の描き方が完成したのです。

これらの表現が可能になった背景には、技術の進歩によってチューブ式の絵具が開発されたことも見逃せません。

 

詳しくは【モネ、時代を先取りした技法を解説】をご覧ください。

まとめ

いかがでしたか?

モネをより身近に感じていただけましたでしょうか?

 

巨匠といわれるモネも、絵が認められて売れるまで随分と苦労があったんですね。

しかしゴッホは今では同じくらい高い評価を受けていますが、それは亡くなった後のこと。

それを思うと晩年は国家が作品を買い上げるなど、富と名声を得て巨匠の名誉を受けただけモネは幸せだったといえるかもしれません。

 

しかし晩年は家族や友人にも先立たれ、自身も白内障という画家にとって致命的な病気と闘いながらも最後の最後まで自身の信念を貫き、光を追い求めた意志の強さには脱帽です。

光の画家といわれるほどに、終生移ろう光を追い求める姿勢は印象派の中でも際立っていましたね。

 

産業革命後の激変する世界、パリが芸術の都として輝いていた時代に印象派が生まれ、その後に残した影響は計り知れません。

現代に通じる表現の素地が、モネ達印象派によって作られたと私は思います。

 

 

 

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