こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは『エコール・ド・パリ』の画家アメデオ・モディリアーニです。
長く引き伸ばされたような肖像画が有名なのでご覧になったことがある方も多いと思います。
モディリアーニが活躍したのは19世紀末から20世紀初めのパリ。
当時のパリは世界中から若き才能が集まり光り輝くまさに“芸術の都”でした。
ピカソやマチスをはじめユトリロ、スーチン、シャガール、日本からは藤田嗣治など挙げればきりがないほど錚々たる若き芸術家たちがモンマルトルやモンパルナスに集まっていたのです。
そこではピカソのように大成功を収める者から最後まで認められず消えていくものまで様々でした。
そして今回ご紹介するモディリアーニはというと…
まさに悲劇の画家というにふさわしい人でした。
その短くも破天荒な人生は、ある種の私たちが持つ“芸術家”のイメージの典型のような人物です。
つまり才能は有るのに認められず、極貧生活をしながら汚いアトリエで作品と格闘し、夜はカフェに集まり酒を飲んでは芸術談義に花を咲かせる。
こうしたおなじみの芸術家イメージは“エコール・ド・パリ”の画家たち、とりわけモディリアーニによって作られたと言っても過言ではありません。
こうした典型的な苦労型の画家イメージを私たちに植え付けたモディリアーニとは一体どのような人物だったのでしょうか?見て生きたと思います。
目次
本名:アメデオ=クレメンテ=モディリアーニ Amedeo Clemente Modigliani
20世紀前半のパリで活躍したユダヤ系イタリア人画家、彫刻家。
モディリアーニは一言でいうと、絵に描いたような悲劇的、破滅的な画家でした。
生来体が弱くそのため兵役も免除されるほどで、生涯持病の結核に悩まされながらも、アルコールや麻薬におぼれ35歳という若さで亡くなりました。
モディリアーニはダンディーで男前のイケメン画家でしたが、絵はさっぱり売れず、貧乏で飲んだくれ。そのうえ亭主関白という今でいう“ダメンズ”の典型のような男だったのです。
しかしそこがまた女性の母性本能をくすぐるのでしょうか(?)数々の女性と浮名を流したプレイボーイでとしても知られていました。
パリに出た頃は『いつも栗色のコーデュロイの洋服を身に着け、首には色鮮やかなスカーフを巻き、つばの広いフェルト帽をかぶっていた』と友人が記しているように、いわゆる芸術家スタイル=すでに時代遅れとなっていた“デカダン”的(=退廃的)な芸術家のイメージを好んで身に着けていました。
モディリアーニは家族の影響もあり早熟だったようで、文化的素養に優恵まれ少年の頃から詩や哲学に親しんでいました。
22歳で故郷のイタリアを出て芸術の都パリに出ますが極貧生活の中、酒と麻薬にどっぷりと浸かり荒れた生活を送ります。
絵の具代も事欠く有様だったので絵の具を厚く塗ることが出来ず、キャンバスの地が透けるほどの薄塗りをしたり、キャンバスの裏表を使ったりしていました。
夜のカフェで客たちを素早くスケッチし、それを売って小銭を稼いでは酒代とするなどまさにデカダン(退廃的)な生活を送っていたのです。
しかし一説にはこうした荒れた生活は、意識的にブルジョワ的なものを遠ざけ既存のアカデミズムに反抗する為であり、またアルコールや麻薬は結核の苦しみを紛らわせるためだったとも言われています。
モディリアーニは美術史的には、いわゆる「印象派」や「キュビズム」といった技法や表現様式による流派やイズムに分類するのが難しく、同じころ世界各地からパリのモンパルナスに集まった前衛芸術家たちは『エコール・ド・パリ(パリ派)』と呼ばれ、その一群にカテゴライズされています。
その中には日本人の藤田嗣治(レオナール・フジタ)やシャイム・スーチン、シャガールなどがいて、皆それぞれが独自の表現を追求していました。
モディリアーニも画家仲間たちとは交流はありましたが、セザンヌの影響を受けた以外は次々と誕生する新しい美術運動(例えばピカソのキュビズムやマチスのフォーヴィズムや未来派)とは一線を画し、独自の路線を追求しました。
モディリアーニの作品はそのほとんどが『肖像画』と『裸婦』です。
特徴的な引き延ばされた顔や体、瞳を描かない目、余情的な独自のスタイルで友人や知人、恋人たち、その他土地の少年や少女を個性豊かに描いた傑作を残しました。
元々は彫刻家志望でしたが、材料費が高くつくのと結核という持病のため、木や石を削った時に出る粉塵が体に害を及ぼすためにやむなく画家に転身したのです。
モディリアーニの画家としての生活は13年ほどに過ぎず、傑作は晩年の3年間に描かれたものがほとんどで、驚異的な集中力で一つの作品を数時間で一気に描き上げたと言われています。
現在もモディリアーニの作品は人気が高く、近現代の画家としてはピカソに次ぐ高額取引の対象となっています。
2015年には『赤いヌード』がニューヨークのクリスティーズという世界的なオークションで1億7000万ドル、今年に入ってもサザビーズで裸婦画が1億5720万ドル(約172億円)で落札されています。
ここではモディリアーニの人生を簡単にまとめてみました。
詳しい人生についてはこちらの記事をご覧ください⇒【モンパルナスの貴公子】 アメデオ・モディリアーニの生涯を詳しくご紹介します!
モディリアーニは1884年イタリアの港町リヴォルノのユダヤ家系に生まれました。
幼少期から絵が得意で地元の画家から絵の手ほどきをうけます。
1900年重い肋膜炎に罹り学校を休学。静養のためイタリア各地を旅行し、フィレンツェとヴェネツィアで絵を学び、ルネサンスやシエナ派の影響をうけます。
1906年パリに出て前衛芸術家が多く住むモンマルトルに住みピカソらと交流しますが、その後モンパルナスに移り、ジャン・コクトーやシャイム・スーチン、モイーズ・キスリング、藤田嗣治らと交流を持ちます。
彼らは後に《エコール・ド・パリ(パリ派)》と呼ばれるようになりました。
1910年代前半は前衛彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシについて主に彫刻制作に専念しましたが持病によって体力を使う彫刻を諦め絵画へと戻ります。
1914年イギリス人ジャーナリストのベアトリス・ヘイスティングと出会い同棲を始めます。
この頃には酒と麻薬に溺れ極貧の中、カフェで似顔絵を描いてしのいでいました。
1917年画学生だったジャンヌ・エピュテルヌと知り合い共同生活をはじめます。
画商のズボロフスキーの尽力で初めての個展を開きますが、ヌード作品がスキャンダルとなり即日強制的に中止させられました。
1918年ズボロフスキーの勧めで南仏に滞在する。その途中にジャンヌが第一子を出産。
ピカソやルノワールらと交流し温暖な気候で穏やかな生活を送りますが、翌年一人パリに戻ったモディリアーニは数々の肖像画を描きますが、再び酒と麻薬に溺れ荒れた生活に戻ります。
そのためさらに健康を害し、翌1920年1月35歳で亡くなりました。
そしてその2日後、第2子を身籠っていたジャンヌも後を追って自殺してしまいます。
ここではモディリアーニの作品を簡単にご紹介します。
詳しい解説はこちらの記事をご覧ください⇒【エコール・ド・パリの画家】モディリアーニの代表作を詳しく解説します!
『ポール・ギョ―ムの肖像』
『新郎と新婦』
『ジャック・リプシッツ夫妻の肖像』
『青い服の少女』
『赤い裸婦』
『安楽椅子の上の裸婦』
『子供とジプシー女』
『おさげ髪の少女』
『赤い肩掛けを着たジャンヌ・エピュテルヌ』
モディリアーニは22さちパリに出てきた当初は彫刻家を志していました。
1910~14年ごろはルーマニア出身の前衛彫刻家コンスタンティン・ブランクーシと知り合い弟子となって彫刻に打ち込みます。
また先住民族の文化である“カリアティード”と呼ばれる柱に女性像を彫り込む彫刻やアフリカのお面、さらにイタリア時代に見たゴシック期の彫刻家ティーノ・ディ・カマイーノなどにも影響を受けた作品を制作しています。
しかし結核という病にむしばまれていた体では、重いノミや鎚を振るう仕事に耐えることが出来ず、またその粉塵が肺を痛めつけるということ、そして何より彫刻は絵画より材料などの出費が多いわりにそれほど売れないという現実問題があり、最終的にモディリアーニは画家の道を選んだのです。
しかし絵画において、余計な部分を取り除いていき、本質的な塊を掴もうとする姿勢や長い首にたまご型で傾げた頭部、瞳のない眼など後のモディリアーニ絵画の特徴がすでに彫刻に宿っていました。
モディリアーニの絵画作品は、そのほとんどが肖像画と裸婦像です。
モディリアーニは、イタリアにいる頃に病気療養のためナポリ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアなど各地を回り、同地のシエナ派など古典絵画を学び、さらにクリムトやムンクなど象徴主義や分離派などから大きな影響を受けながら独自のスタイルを確立していきました。
肖像画ではモデル一人一人を愛情と鋭い観察眼を持って観察し、性格や個性をはっきりと的確にとらえ生き生きと表現しています。
そのためにあえて表情を単純化し、最も際立つ特徴を強調しました。
さらにモデルのポーズにもこだわり手の位置や傾き加減などにこだわっています。
しかしこうした個性を追求する一方で、描かれた人物たちは、モディリアーニの作品世界だけの住人として様式化されています。
その一つが細長く引き伸ばされた顔と首です。
その理由はいくつか考えられます。
一つはモディリアーニが初期の段階でアール・ヌーヴォーに傾倒したことがあり、そこから線的でグラフィックな様式を重視したということ。
そしてピカソにも強く影響を与えたアフリカのお面や上記のカマイーノの作品からの影響です。
おそらくモディリアーニはそれらすべてを咀嚼して自分の表現としていったのでしょう。
またもう一つの重要な主題である『裸婦』に関しては、モディリアーニは恋人や知人を使うことはなく、下働きの女性などをモデルに使いました。
モディリアーニの描く裸婦たちは、とても肉感的で自身に満ちた表情をしており、ティツィアーノやルノワールと並んで伝統にのっとった表現をしていますが、肖像画と違ってその顔は概して無表情です。
もう一つモディリアーニの特徴で忘れてはならないのが瞳のない目です。
眼は最もその人の個性や表情、内面が現れる器官であるため、それを描かないことでモデルを日常性から切り離し、現実を越えた神秘性を持たせるためともいわれています。
このように数々のモディリアーニ作品の特徴については厳密な理由はよく分かってはいませんが、モデルの個性を出したり、出さなかったりと矛盾する表現を使い分け、独特の世界を創り出しました。
いかがでしたか?モディリアーニの生き急ぐような破天荒な人生は、自分の残された時間が短いことを知っていたからかもしれません。
彼は17歳の時すでにこんな言葉を残しています。「僕は芸術と人生の真実をできるだけ明快に表明したい。ローマで美しいものを見た時にしばしば感じたような真実をだ。それに僕は内的な関係を見つけたので、これを可視化していわば形而上的構造を露わにしてみるつもりだ。人生と美と芸術についての僕の考えに形を与えるためにね。」
早熟だったモディリアーニのこの哲学的芸術観は、彼の短い芸術家としての人生を全うしていたのだと思います。
私生活では数々の女性と浮名を流したモディリアーニでしたが、最後に出会ったジャンヌだけは特別でした。
彼女こそモディリアーニの理想のモデルであり、晩年の3年間で約30枚も彼女の肖像を描きジャンヌもまた献身的に尽くしました。
いまわの際にモディリアーニはジャンヌに次のように言ったといいます。「天国までついてきてくれないか。そうすれば、あの世でも最高のモデルを持つことができる」と。
このモディリアーニの最後の願いを叶えるかのように、妊娠中でありながら哀しくもジャンヌは後を追って身を投げたのです。
彼女の墓にはこう刻まれています。《ジャンヌ・エピュテルヌ-モディリアーニにすべてを捧げ、究極の犠牲をもいとわなかった伴侶》
男前でドラマティックな人生を送ったモディリアーニは、死後2度も映画化されています。
ひとつは1958年白黒映画でジェラール・フィリップが演じた『モンパルナスの灯』。そしてもう一つは2004年にはアンディ・ガルシア演じた「モディリアーニ 真実の愛」です。
ご興味を持たれた方は是非チェックしてみてください。
モンパルナスの灯 【HDマスター】 [ ジェラール・フィリップ ]
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