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【スペイン奇想の画家】フランシスコ・デ・ゴヤの作品と生涯をご紹介します!

こんにちは。管理人の河内です。

今回は18世紀末から19世紀にかけてスペインの宮廷画家として活躍したフランシスコ・デ・ゴヤをご紹介します。

 

宮廷画家なのでもちろん王様や御妃様など王侯貴族の肖像画を数多く描いたゴヤですが、それよりむしろ戦争の惨劇や、幻想的で奇怪な人物たちを描いた作品で有名で『奇想の画家』ともいわれています。

ゴヤは現実の社会や人間を鋭い洞察力で観察し、一見煌びやかに見える宮廷や、着飾った人間たちの奥にある残酷さや、救いがたい人間の残虐性といった暗部を見抜き独自の芸術世界を産み出しました。

こうしたゴヤの芸術は、肖像画などの注文を受けて描いたものだけでなく、誰に見せるわけでもなく、独自の感性と想像力をもとに非常に個人的な創作であったという点でとても近代的と言えます。

そんなゴヤとは一体どのような人物だったのでしょうか?見ていきたいと思います。

 

 

目次

ゴヤってどんな人?

本名:フランシスコ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス

Francisco de Goya y Lucientes

1745-1828年

18世紀末から19世紀前半のスペインで活躍した画家、版画家。

 

ゴヤはスペインのアラゴン地方から画家として立身出世を夢見て18歳で首都のマドリードに出ました。

始めはタピスリーの下絵を描く仕事から始め、その後宗教画で成功をおさめて43歳の時に宮廷画家へと上り詰めました。

 

宮廷画家としてゴヤは、多くの肖像画を描きました。

しかしゴヤは王侯貴族であろうともその真実をとらえ表現しようとしたため、その肖像は時に醜く悲壮なものとなりました。

ゴヤは王宮や上流階級で生きる人々の表面的な美しさだけでなく彼らの奥深くにある醜い部分までも感じ取り、人間の快楽と同時に苦悩や恐怖など負の側面までも隠すことなく描いた画家だったのです。

それでも貴族たちはゴヤに自分を描いてもらおうと好んでポーズをとるほどの人気肖像画でもありました。

またゴヤは上流階級以外の闘牛士や無宿人、兵隊、盗賊、農民、労働者、洗濯女、子どもと社会のありとあらゆる階層の人々を描いています。

 

宮廷画家の彼がそういうことを許されたのには18世紀後半当時、上流社会で庶民風を装うことが流行していたことがあります。

学者のオルテガはこの現象を“王権体制の崩壊”を暗示していると考え、事実その直後社会は民主性へと向かい近代化していきます。

 

ゴヤは82年の人生で油絵約700点、版画類300点、デッサン類900点その他フレスコ画など2000点を超える作品を残しています。

それらは皆ゴヤの目を通して見た彼の時代と社会、そこに生きた人間の本質を描いたものでした。

 

ゴヤは若いころは権力志向の強い野心家でしたが、46歳の時に原因不明の大病を患い聴覚を失ってしまいます。このことが大きな転換展となり、音のない世界の住人となったゴヤは自己の内面と向き合うようになっていきます。

 

風変わりで現実離れした“想像上の産物”を描いたり、上流社交界を風刺したり、専制君主の没落や戦争の惨禍を生々しく表現した作品を描くようになったのもこのころからでした。

 

特に晩年の通称『聾者の家』と言われる別荘の壁に描いた一連の作品群は、《ブラックペインティング=黒い絵》と呼ばれ、その劇的で重苦しい作風は見る者に衝撃を与えます。

 

《黒い絵》は誰かの注文で描かれたものでもなく、誰に見せるために描かれたものでもありません。純粋にゴヤ自身が内面を見つめ、人間精神の奥深くにあるものを抉り出した作品群であり、そうした意味で美術史に残る特異な作品群です。

 

ゴヤは宮廷画家として王政という最も保守的環境にいながら「絵画にはいかなる規範も存在しない」と語っているように、その芸術は全く独自の路線を歩んだのでした。

 

ゴヤのこした姿勢は後の19世紀後半の象徴主義や表現主義、ロマン主義そしてその幻想的、非現実的な世界観は20世紀のシュルレアリズムまでにも続く、近代美術がたどる道を予言していると言われます。

 

そのためゴヤは宮廷文化であるロココ時代と近代を繋ぐ橋渡し的な画家と位置づけられ、評論家で作家のアンドレ・マルローは、ゴヤを『近代絵画の流れの全てを予告した』と評しています。

こうしたことからゴヤは当時低迷していたスペイン芸術界の中で、『夜空に打ち上げられた花火のようだ』と言われました。

 

ゴヤの後半生は、強固な王政が崩れ近代化へと向かう社会が激動する過渡期でした。

王政に対する民衆の不満が爆発し、ナポレオンの進駐による対仏独立戦争など混乱した時代であり、それらをまじかに見たゴヤはそこに戦争の残酷さ、人間の愚かさを作品に表現したのです。

 

またゴヤは西洋絵画史上初めて現実に生きている全裸の女性を描いた画家でもあります。

それまでの女性はあくまでビーナスや神話の女神であったり、歴史上の人物という口実のもとでだけ“裸体”を描くことが許されていたのですが、ゴヤは実際に生きる女性として描きました。そのため晩年ゴヤは異端審問所に告訴されることになります。

17世紀バロックの巨ルーベンスの作品(↓)同じヌードの女性ですが、こちらは皆女神たちであり人間ではない、という設定(口実)なので、こちらは”芸術”として認めらるのです。

 

ゴヤは家族思いの良き父であり夫であったようですが、不幸にも7人もの子こどもたちを立て続けに亡くし、成人したのはその後に生まれた息子のハビエルだけでした。

さらに残念なのは息子も孫も定職を持たずゴヤが生涯をかけて築いた財産を食いつぶしてしまいました。

 

ゴヤの私的な側面を知る資料は少なく宮廷というある種噂話や嫉妬が渦巻く世界でいたために様々なスキャンダルの種にされたようです。

大変な女狂いであるとか、躁鬱病であったとか、革命家、あるいは疑心暗鬼の末、俗世間を悲観していたなどと言われてきましたがどれも確証はありません。

 

晩年は王政が復活したため“自由主義者”として弾圧されるのを避けてフランスへ亡命し82歳で亡くなりました。

 

 

 

ゴヤの生涯~ざっくりと

 

ここではゴヤの生涯を時系列で簡単にご紹介します。

詳しい生涯につきましてはこちらの記事をご覧ください⇒『近代を予言した画家』フランシスコ・デ・ゴヤの生涯を詳しく解説!


1746年スペインアラゴン州、サラゴサ近郊の寒村フェンデトードスに鍍金職人(メッキ職人)の子供として生まれました。

その後一家はサラゴサへと移り、ゴヤは13歳で地元の画家ホセ・ルサンの弟子となります。そして兄弟子パイェウ(バイユー)と出会いました。

 

1764年画家として出世を目指しマドリードに移る。

1770年2度の王立アカデミーの受験に失敗し自費でイタリア遊学へと出ます。

1773年宮廷画家となっていたパイェウの妹セファと結婚。

1775年マドリードへ出て義兄のパイェウのもとで王立のタピスリー工場で下絵を描き始める。

1780年王立アカデミーの会員となる。

1784年息子のハビエルが生まれる。

1786年カルロス3世より国王つき画家に任命される。

1789年フランス革命が起こった年に宮廷画家となる。

1792年カディス旅行中に原因不明の大病を患い回復するも聴覚を失ってしまいます。

社交好きで行動的であったゴヤはこれによって内省的になり注文ではなく独自の自由な発想の作品を描き始める。

ゴヤはその後も順調に出世をし、99年には主席宮廷画家となります。

1796年アルバ侯爵夫人の別荘に滞在しスキャンダルの種となる。

エッチングによる風刺的な版画集『ロス・カプリチョス』を発行。

1800年代表作『カルロス4世の家族』を制作。

同じころ『裸のマハ』『着衣のマハ』を制作。

1808年ナポレオンのフランス軍がマドリードを占領。

1812年妻のホセファが亡くなる。

1814年独立戦争の末、スペインに王政が復活。

1819年マドリード郊外に『聾者の家』を購入する。

重病を患う。

1824年78歳の時にフランスに亡命、28年ボルドーで死去。

 

ゴヤの代表作

ここではゴヤの代表作を簡単にご紹介します。

詳しい解説付きの記事はこちらをご覧ください⇒【作品解説】フランシスコ・デ・ゴヤの代表作を詳しく解説します!

 

 

『パラソル(日傘)』 1777年   111×176cm プラド美術館蔵

 

 

『魔女の夜会』1794~95年  44×31㎝ マドリード、ラサロ・ガルディアーノ美術館蔵

 

『カルロス4世の家族』 1800-01年 280×336㎝ マドリード プラド美術館蔵

 

 

『裸のマハ』 1797~1800年頃、97×190㎝  プラド美術館蔵

 

 

『イサベル・デ・ポルセール』 1804~05年 82×54 cm   ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵

 

『巨人』  1808~12年頃 116×105㎝ プラド美術館蔵

 

『マドリード、1808年5月3日』  1814年  266×345㎝ プラド美術館蔵

 

 

『我が子を食らうサトゥルヌス』  1819~23年頃 146×83㎝ プラド美術館蔵

 

『犬』  1820~24年 134×80㎝ プラド美術館蔵

 

 

 

ゴヤの画風と技法

美術史的に言えば末期バロック時代そして宮廷文化のロココ美術からスタートしました。

宮廷画家となってからは、膨大な王室コレクションをその目で見たに違いなくベラスケスルーベンスなど過去の巨匠から多くの技法を学んだことが見て取れます。

例えば輪郭線を引いてからきっちりと色を塗っていくというのではなく素早くリズミカルなタッチによって人物の動きや表情を生き生きと捉えています。

さらにゴヤは絵の具を自在に操る名手でした。

細部は省略し、ものの境界である輪郭線をやすやすと越えて色が踊っているようです。こうすることで一見ものはぼやけてしまいますが色は鮮やかに映え、動きと躍動感が生まれているのです。この即興的に見える手法ですが実は入念に考え抜かれたものなのです。

 

ゴヤ自身「絵画にはいかなる規範も存在しない」と語るように過去の巨匠たちから影響を受けつつも独自の表現を確立したのです。

 

またゴヤは当時スペインではあまり重要視されていなかった版画(エッチング=銅版画)を積極的に取り入れ研究したという意味でも特異な画家でした。

これらもやはり王室コレクションにあるベラスケスレンブラントなど外国の版画なども多くを学び、『ロス・カプリチョス』『戦争の惨禍』『ラ・タウロマキア(闘牛)』『ロス・ディスパラテス(妄)』といった独創的な版画集を次々と制作しました。

80歳近くの最晩年になってもその情熱は衰えず、当時発明されたばかりのリトグラフ(石版画)を熱心に研究しました。

 

 

ゴヤ まとめ

いかがでしたか?スペイン18世紀末から19世紀の激動の時代を生きたフランシスコ・デ・ゴヤ。

その人生は一地方の庶民から身を起こし主席宮廷画家へと昇りつめますが、聴覚を失ったことでより深く自己の内面と向き合い、想像の翼を広げました。

さらに社会への風刺や人間への洞察力が深まり独自の芸術を進化させたその作品はスペインだけでなく美術史全体を見渡してもかなり個性的で独創性に富んだ画家でした。

と同時にゴヤは偉大な近代美術の先駆者でした。

ゴヤ自身が予言者でもなければ自らの美術史的使命を意識していたわけでもなく自由で自分の意志で創作を行ったのですが、時代の過渡期に生まれるべくして生まれた天才だったのかも知れません。

ゴヤ自身「と語っているように形式主義的なアカデミックな美術教育を否定し自由な発想で描くべきだと主張しロマン派の先駆けとなりました。

 

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