こんにちは。管理人の河内です。
今回は北方ルネサンス最大の画家、アルブレヒト・デューラーの生涯に迫ってみたいと思います。
若くして銅板や木版などの版画によって名声を得たデューラーは、ルネサンスの本場イタリアでの修行経て、さらなる進歩を遂げ独自の絵画理論を構築していきました。
目次
アルブレヒト・デューラーは1471年5月21日、ドイツ南部の都市ニュルンベルクで生まれました。
当時のニュルンベルクはヨーロッパ有数の活気に満ちた商業都市でした。
“北のフィレンツェ”とか“ドイツのアテネ”などと呼ばれており神聖ローマ帝国きっての大都市だったのです。
そのような街でハンガリー出身のデューラーの父親は金細工師をしていました。
母は父の師の娘だったバルバラ・ホルパー。二人は何と18人もの子どもをもうけ、アルブレヒトはその3男として生まれました。
デューラーは子ども時代に地元のラテン語学校に通いました。そこで後に有名な人文学者となるヴィリバルト・ピルクハイマーと知り合い、二人は生涯にわたる親交を結びます。
学校を卒業後、父の工房で金細工師としての修行を3年間積みました。
父は金細工師として将来を期待をしていましが、デューラーこはの頃にはすでに驚くべき芸術的才能を見せており、気持ちは絵の方に魅かれていきました。
そして15歳の時にニュルンベルクの画家ミヒャエル・ヴォルゲムートに弟子入りします。この師は古い中世末期のスタイルを踏襲する大家でしたが、デューラーは3年間ここで修業を積んでいます。
その後デューラーは4年間、ドイツの伝統的修行スタイルである“遍歴の旅”へと出ます。
これは町から町へと渡り歩き、様々な師についてその技術を学びつつ人生の意義を探求する期間です。
ドイツではこれを経て初めて一人前となり身を落ち着け家族を持つようになるのです。
デューラーは当時の神聖ローマ帝国の領土各地を周り、2年後にアルザス地方のコルマール(現在はフランスのドイツ語圏)に行きます。
この旅の目的は、前世代のドイツ最大の版画家マルティン・ショーンガゥアーに会うためでしたが、残念ながらショーンガゥアーはデューラーが訪ねる数か月前にこの世を去っていました。
しかしデューラーはその弟の元に滞在して作品を通してショーンガゥアーの技法を学んだと思われます。
またバーゼルとストラスブルクで出版業者のために働き、聖書などの木版挿絵を手がけました。
1493年、22歳の時に最初の自主的自画像ともいうべき素晴らしい自画像を描き家に送っています(↓)。この時手に持っているのは《夫の貞操》を意味するエリンギウムという植物だと言われています。
翌1494年春にデューラーはニュルンベルクに戻り、父が準備した地元の銅細工師の娘アグネス・フライと結婚しました。そのためこの自画像はその婚約者に送られたと思われます。
この妻についてはよく知られていませんが、二人の間には子供は出来ませんでした。
デューラーは結婚数か月後には親友のピルクハイマーから旅費を借りて初めてのイタリア旅行に出かけます。
イタリアに向かう途中デューラーはアルプス越えなど厳しい旅をしながら山岳風景を素晴らしい水彩画連作に描いています。
イタリアのパヴィアでは、当地の大学で勉強をしていたピルクハイマーを訪ね、彼を通してイタリアの人文学者たちの著作に触れました。そして彼らの科学的好奇心と独立した精神はデューラーに強い影響を与えたのです。
その後旅のハイライトであるヴェネツィアを訪ね当時最先端のルネサンス美術を貪欲に勉強して身に着けていきました。
技術と自信をつけたデューラーは『ヴェネツィアで私は自分自身の価値を計る升を手に入れた。そして、さあこれからドイツに帰ってその価値を計っていこうと期待を新たにした。』と言っています。
翌1495年故郷に戻ったデューラーは、イタリアで身に着けたルネサンスの理論、技法を駆使して制作に励みます。
1498年には《ヨハネの黙示録》などの挿絵で木版画の連作、そして銅版画によって次第にデューラーの名が世に広まり名声を得ていくようになります。
また同じころ『野兎』などの水彩画も多く描いています。
そして自治都市の市民やザクセン選帝侯であるフリードリヒ賢明候などの貴族たちからも多くの絵画の注文が入るようになっていきました。
しかし当時のヨーロッパは飢饉や戦争、ペスト、梅毒などが流行して多くの人が亡くなる不安な時代でした。デューラーが2度目にイタリアに訪れるのもペストから逃れるためだったという説もあります。
そうしたことを背景に、ヨーロッパ中で多くの説教者たちが「審判の時が近づいている」と予言し《1500年には世界は終末を迎える》という終末論が席捲していました。そしてその世界の終わりを視覚的に人々に提示したのが『ヨハネの黙示録』であり人々に熱狂的に受け入れられデューラーは一躍有名画家となりました。
1505年夏の終わりにデューラーはヴェネツィアのドイツ商人たちからサン・バルトロメオ教会の祭壇画を依頼され、その制作のために再びイタリアを目指します。
デューラーはこの時ヴェネツィアに一年以上も滞在しました。
当時デューラーは版画によってヴェネツィアにもその名が知られるほどになっており、ヴェネツィア総督や大司教なども彼のアトリエを訪れ賛辞を送るほどでした。
またデューラーがもっとも尊敬していた前世代の大家ジョヴァンニ・ベリーニとも親交を持ち、ベリーニはデューラーのアトリエを訪ね賛辞を送っています。
デューラーは当時のヴェネツィアの居心地の良さに帰国後「太陽恋しさに、どんなにか身をふるわせることになるでしょう」と手紙に書いています。
またヴェネツィアという街の芸術家に対するリスペクトにとても感心し「私はここでは立派な身分ですが、故郷に帰れば居候です」と嘆いています。そんな彼をヴェネツィア市は引き留めようと200ドゥカートの年金を申し出ますが、デューラーは1507年に帰国します。
しかしニュルンベルクに戻ってもイタリアでのような絵画の大作依頼はなく、専ら人気を博していた版画作品を手掛けました。
1509年ごろにはデューラーはかなり裕福になっていて、ニュルンベルクのジツェルガッセで住んでいた大きな借家を買い取ることができるようになりました。
1512年以降、デューラーは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の庇護を受けました。
皇帝のために祈祷書の挿絵など木版画による大規模な制作を手掛けています。
1513年にはニュルンベルク市議会の名誉会員になります。
1514年母親の死による精神的ダメージと、彼自身の浪費癖などで多くの収入を得ていたにも関わらず経済的に厳しい状況に陥ります。
そうした不安定な内面が代表作である版画《メランコリアⅠ》に見て取れます。
1515年、皇帝から100フロリンの終身年金が認められる。
1517年ドイツ、ヴィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルターがカトリック教会の腐敗を批判しはじめ宗教改革が始まります。
デューラーはルターに深く感化され、その著作をむさぼり読みました。
1519年皇帝マクシミリアン1世が死去すると、ニュルンベルク市はデューラーの終身年金を打ち切ってしまいます。
そのためデューラーは新皇帝カール5世に年金支給の継続を願い出るために、戴冠式が行われるネーデルランドに赴きます。
ネーデルランドまでの旅費を工面するために、デューラーは版画作品を携行し、妻と下女を連れて1520年ネーデルランドを目指しますが、その旅の途上で各地の著名な画家と会ったり、有名な作品を見て回ったりしました。また行く先々でデューラーは「最高の画家」として歓待を受けました。
ルネサンス最大の人文主義者と言われるエラスムスともこの度の途中で会っています。
またデューラーこの旅の詳細を旅日記に付けスケッチも多く残しています。
しかし途中ゼ―ラントで熱病にかかり、これがその後の健康を害するもととなりました。
アーヘンに着くと10月の新皇帝の戴冠式に立ち会い、彼の年金は正式に認められます。
そこで多くの肖像画や版画を制作し数多くの作品を売ったものの、またも収集癖が高じて鼈甲、オウム、サンゴ、象牙などを買い漁り結果赤字の旅となりました。
アントワープにいた時、ルターが逮捕されたという知らせを聞いたデューラーは、同地のカトリック派による迫害を恐れたためか妻と共に急遽帰国の途につきます。
そして1521年8月ニュルンベルクに到着しますが、街は混乱し友人や弟子たちはルターのプロテスタントを信奉した咎で追放されていたのです。
1524年には農民戦争が起こりますが、デューラーは権力側につきながらも新しい運動に共感していきます。
1526年デューラーは自主的に代表作《4人の使徒》を制作し、それをニュルンベルク市に寄贈します。
そこには次のような文章が描き込まれていました。『この危険な時代にあって、現世の支配者たちは神の言葉を忘れて人の誤った道に従わないように注意しなければならない。神はその言葉になにも加えずなにも取り去りはしない』といわゆるルターのによる聖書の引用が記されています。
デューラーは晩年、著作の執筆に力を入れます。
遠近法、都市計画などに関する著述や、一家の年代記、回想録なども記して刊行しました。
1528年『人体比例に関する四書』を著す。
ゼ―ラメントで感染した熱病が再発し、次第にやせ衰えていきます。
そして1528年4月6日ニュルンベルクで息を引き取りました。享年57歳メランヒトンは彼の死を悼んでこう書いています。「賢者であり、かくも優れた芸術的才能といえども、彼の美徳のごく一部でしかない」
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