【19世紀美術の革命家】 ギュスターヴ・クールベの生涯と作風をご紹介します!

こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは19世紀フランス写実主義の代表画家、ギュスターヴ・クールベです。
時代的にはドラクロワやアングルが活躍したのと同じ時期、印象派のちょっと前くらいですね。
“写実主義”とはその名の通り目に見えたもの、現実をありのままに写し取るということです。現代の私たちからすると絵を描く上では当たり前のように聞こえますが、当時のフランスでは事情が違いました。

19世紀の美術の主流であった新古典主義(アングルがその代表)などは、絵画は理想の世界や神の世界を描く“美しく崇高な”ものであって“卑俗”で美しくない(=汚い)現実を描くなんてことは許されませんでした。なのでクールベのこうした姿勢は当然否定され批判の的となりました。

しかしクールベはこうした当時の美術の“常識”に『私は天使を見たことがないから描けない』という有名なセリフを吐き真っ向から対立したのです。

そんな美術の『革命児』クールベとは一体どのような人物だったのでしょうか?
見ていきましょう。

目次

クールベってどんな人?

本名:ジャン=デジレ=ギュスターヴ・クールベ
19世紀中盤に活躍したフランスの画家。
美術史的には『写実主義』を代表する画家です。
でも本人は「リアリストという名称は自分には押し付けられたものである」とも語っていることから必ずしも喜んではいなかったようです。

しかし「自分の知っている世界だけを描くのが画家の仕事だ」と主張し《リアリスト》としての立場を宣言していました。

クールベは背が高くとてもハンサムでしたが、性格は自信家でナルシスト、野心的な画家で自画像からもわかるようにかなり個性の強い人物でした。

その並外れた強い個性から、行動も作品に劣らず過激で画家として喝采を浴びると同時に悪名も馳せていました。
夜ごと芸術家が集まるカフェでは横柄な態度で議論を巻き起こし、大食いの大酒飲み、多弁な田舎者として有名だったようです。

しかし実はこうした振る舞いは、クールベがブルジョワから離れた前衛的な芸術サークルに受け入れられようとしてあえて装っていたと言われています。

クールベはフランス東部の田舎の村オルナンの出身で、地元では地主の息子として裕福な家庭に生まれましたが、かといって由緒ある貴族でもなく新興ブルジョアジーとして貧しい農民とも違いました。こうした中途半端な階級出自が、彼の態度の裏にはありました。

画家を志してパリへとやって来たクールベは、数年間の苦労の後、新しい芸術運動である『写実主義(リアリズム)』の旗手として活躍します。

クールベの活躍した19世紀半ばはいまだ宗教的、伝統的主題である神話画、歴史画、聖書のものがたりを実際のモデルを使いながらもそれらを理想化して描くことが常識でした。

そんな中『写実主義者』たちは「文学と美術の主題となるべきは現実だけだ」と主張し1850年に故郷のオルナンの農民たちの姿を忠実に描いた作品でそれらの伝統を否定し、パリの画壇に衝撃を与えました。

単にあるがままの現実を描いたのなら、それまでにも“風俗画”というジャンルがあるほど、ある意味伝統的にもよく描かれてきました。

しかしクールベは「生きた絵画を制作する」と主張し、それまで絵画のテーマとなりえなかった農民や労働者といったことさら社会の底辺で生きる名もなき人々を取り上げ、芸術に社会的テーマを持ち込んだところにその特徴があります。

こうした態度は美術界だけでなく、革命の余韻が残る当時の権力者たちにある種の恐怖を
感じさせました。
クールベの芸術がナポレオン三世の帝政に対する反体制派の急進的な人々を先導し、民衆の力が再び新体制を脅かすのではないかと感じたのです。そのため政府はクールベを懐柔しようと和解を申し出ますがクールベは芸術の独立と自由を唱え、これをきっぱりと拒否しました。

その結果1855年パリで開かれる万国博覧会への出品を拒否されることになります。

この万博では、当時の美術界で主流であった理想的な美を追求する新古典主義のドン、アングルとそのライバルとして頭角を現してきたロマン派の旗手ドラクロワが、メイン会場でそれぞれ別室を当てがわれ、大々的に作品を展示したのに対し、出品すら断られたクールベは、怒って通りを挟んだ場所で自分の作品だけを並べた個展を開いたのです。
さらに万博と同じ1フランの入場料をとって。
これが美術史上最初の画家による個展と言われています。

結果は散々で見向きもされないありさまでしたが、クールベが生涯反骨精神を貫く画家だったということが分かります。

その後も社会主義思想に共鳴し1871年のパリ・コミューンに関わったとして新政府に逮捕され、77年亡命先のスイスで、58歳で亡くなりました。

クールベの生涯~ざっくりと

ではここでクールベの生涯を簡単に見ていきましょう。
詳しい生涯についてはこちらの記事をご覧ください⇒『写実主義の巨匠』ギュスターヴ・クールベの生涯を詳しく解説します!

 

1819年オルナンに生まれる。

1837年ごろから絵の勉強を始め、アカデミーでモデル写生の授業を受ける。
1839年パリに出る。初めは先生について絵を学ぶが独立心が強いクールベはルーブル美術館に通い古典の巨匠たちの作品を模写し独自にスタイルを形成していきました。
しばらくはサロンに出品するも落選が続く。
1844年『黒い犬を連れたクールベ』でサロン初入選を果たします。
オランダ、ベルギーなどを訪れレンブラントフランス・ハルスらを研究する。

1847年愛人ヴィルジニ・ビネとの間に長男が生まれる。

1848年パリ2月革命勃発。
初めてサロンに入選『オルナンの夕食後』が政府買い上げとなり画家として認められる。以降はサロン無審査の権利を獲得する(~57まで)。

1850-51年『オルナンの埋葬』『フラジェの百姓たち』『石割り』がサロンに展示される。

石割り

1853年ブリュイヤスと知り合う。

1855年パリ万国博覧会が開催されるが、出品を断られたクールベは、万博会場の外で《リアリズム》という名で個展を開き『画家のアトリエ』などの自作を展示する。これが世界初の個展と言われています。

ベルギーやドイツなど各地を回り歓迎される。
1870年ナポレオン三世からレジオンドヌール勲章の授与を申し出られましがクールベはこれを拒否します。

1871年パリ・コミューンに参加し“ヴァンドーム広場円柱破壊事件”に関与したとして投獄される。

1873年スイスに亡命。
1877年スイスで亡くなる。

クールベの代表作

ではここでクールベの代表作を簡単にご紹介します。

詳しい解説付きの記事はこちらをご覧ください『美の反逆者』ギュスターヴ・クールベの作品を解説します!

『ハンモック』

ハンモック 1844年 70×97㎝ ヴィンテルトゥール オスカーラインハルトコレクション

 

『オルナンの埋葬』

オルナンの埋葬   1849年 315×680㎝ オルセー美術館蔵

 

 

 

『出会い(こんにちは、クールベさん)』  1854年 129×149㎝ モンペリエ ファーブル美術館蔵

 

 

『画家のアトリエ』   1854-55年 361×598㎝ オルセー美術館蔵

 

 

『麦をふるう女』  1855年 131×167㎝ ナント美術館蔵

 

 

『嵐の後のエトルタの断崖』  1869年 133×162㎝ オルセー美術館蔵

 

眠り込んだ糸紡ぎをする女 1853年 91×115㎝ モンペリエ ファーブル美術館蔵

 

波 1870年 72.5×92.5㎝ 上野 国立西洋美術館蔵

クールベの画風と技法

美術の革命児、破壊者とまで言われたクールベですが、どうしてそのような呼び名が解けられたのでしょうか?

それはクールベの画風は“テーマ”と“作品の大きさ”において革命的だったのです。

テーマは伝統的な“歴史物語”や“神話”を扱わず、同時代に生きる一般市民や農民、現実の風景を理想化することなくありのままに描いたことです。
これは美とは崇高で気高いものであった当時の常識を全く無視したものでした。
『見たこともない天使』や人形のように均整がとれ、汚れや傷ひとつない女神たちではなく額に汗して働く「生きた」人間を描きました。

しかしより衝撃的だったのは“画面の大きさ”だったようです。
つまり作品のサイズ、当時の常識では等身大に絵描かれるのは高貴な王侯や神々、歴史的偉業を成し遂げたレジェンドだけだったのです。
クールベはこうした大画面では高貴なテーマ”を扱うという暗黙のルールを破り、地元の農夫や神父たちを等身大で巨大なキャンバスに描きました。

代表作『オルナンの埋葬』ではクールベの故郷のオルナンの人々が横6メートル以上の大きなキャンバスに60人近くも登場しています。

それらは当時の都会人、美術評論家たちを当惑させ衝撃を与え、威嚇とさえ映ったのです。こうしたそれまでの「お約束」を無視したことで「革命」であり「破壊」と捉えられたのでした。

しかしクールベは、制作手法そのものは伝統的な手法を受け継いでいます。

夏の間に戸外でスケッチしたものを、冬のアトリエで展覧会用に仕上げるなど周到な準備と計画を立ててじっくりと時間をかけて制作していました。

さらにクールベは、二儀的な資料の流用もしています。
肖像画に関しては、クールベはモデルを立てて描くことが多かったようですが、例えば『画家のアトリエ』は写真を使って描いていましたし、『オルナンの埋葬』では、当時一般に流布していた版画からとった要素を家族や近所の人々の肖像と組み合わせるなど現代的な制作法もとっています。

またクールベはパレットナイフ、『クトー・アングレ(イギリス式ナイフ)』を初めて制作に使った画家だと言われています。
これによって絵の具を分厚く盛り上げたり削ったりと筆では出せないインパクトのある表現が可能となりました。

更なる質感表現を求めて、絵の具に砂を混ぜるなどして荒いガサついた画面を創り出しています。
こうした表現自体が刷毛目を残さない滑らかな画面が理想とされていた当時の主流派と対照的です。
以上のことから現代の私たちにとってはごく当たり前の制作法ですが、いかにクールベがテーマだけでなく手法において近代を先取りしていたかが分かります。

クールベ まとめ

いかがでしたか?写実主義の巨匠ギュスターヴ・クールベ。
初めて個展を開いたり、新しいテーマに切り込んで政府や権力者と対立したりと本当に過激な画家でしたね。
そこには強すぎるクールベの個性と才能だけでなく、フランス革命の余韻が冷めやらぬ、そして急速な近代化への大きな時代の転換点であったことがその背景にはありました。

クールベは「時代の風俗、思想、その諸相を私自身の目を通して記録し、画家としてだけでなく一人の人間として、生きた絵画を制作することが目的である」と自身の古典のパンフレットで語っているように、芸術も社会の変化とは無縁ではなくむしろ積極的にかかわろうとしたいわゆる“社会派”画家として美術史上で重要役割を果たし、近代芸術の創始者のひとりでした。

 

 

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