『写実主義の巨匠』ギュスターヴ・クールベの生涯を詳しく解説します!

こんにちは。管理人の河内です。
今回は『写実主義』を代表する画家、ギュスターヴ・クールベの生涯を詳しくご紹介したいと思います。
クールベはフランスの片田舎出身ではありましたが、地元ではそこそこ裕福という出自がかえってパリで芸術家としての立場を不安定にしたため、傲慢な態度や悪ぶった言動で強がり、既存の権力や権威に真正面から反抗しました。
それまでの美術界の伝統的“お約束”を次々と破っていくことで個性を主張したのです。「私は古今の巨匠たちを模倣しようともなぞろうとも思わない。・・・私はただ伝統を熟知した上で私自身の個性という合理的で自由な感覚を獲得したかった」と語っています。また彼のこうした姿勢は、続く新しい芸術家たちに引き継がれ近代美術の先駆者となりました。
一方で、故郷の自然や人たちを忘れることなくむしろ制作の原点として描き続けました。そんな美術界の革命家はどのような人生を送ったのでしょうか。

目次

クールベの生涯① 出生~青年時代


クールベは1819年6月10日、フランス東部ジュラ山脈にある小さな町オルナンに生まれました。
スイス国境に近いこの山岳地帯は、森と牧草地に恵まれていましたが、オルナンの町そのものはルー川沿岸の岩だらけの峡谷にありました。

クールベ家は代々この地に住んでいました。父親のエレオノール=レジス=ジャン=ジョセフ=スタニスラフ・クールベは近郊の村の地主でオルナンに住居を持ち、近くのフラジュに農場とブドウ園を所有していました。父もまたおしゃべりが好きで、活動的な野心家だったようです。
母のシュザンヌ=シルヴィー・ウードもまたオルナンの地主の娘で父親とは対照的に慎ましやかで優しく人付き合いの良い女性でした。
クールベには4人の妹がいました。彼女たちは度々クールベの作品のモデルともなっていて、末妹のジュリエットはクールベの死後その遺産管理に携わっています。

農民出の新興ブルジョワという一家の社会的地位は、フランスの田舎での階級差をクールベに強く感じさせ、人格形成や芸術家としての発展に大きな役割を果たしたと考えられます。

クールベは12歳の頃からオルナンのカトリック系中学校に通った後、親族のウード神父が指導する寄宿学校に通います。
14歳で絵の勉強を始め、新古典主義の画家グロ男爵のもとで学んだ経験を持つボー“小父さん”から手ほどきを受けました。
1837年両親は息子が法律の勉強をしてくれるのを願って近くの大学町ブザンソンに出てアカデミーに入学させます。しかしクールベはそこでの勉強にはほとんど興味を示さず、並行して新古典主義の画家フラジュロのアトリエに通ってはモデル写生を練習するほか風景画にも興味を示し画家を志すようになります。

その2年後、1840年クールベはブザンソンからパリへ出ます。
19世紀半ば当時のパリは芸術だけでなく、あらゆる急進派や政治活動家が集まるヨーロッパの中心でした。
父の希望でパリの法律学校で勉強するものの、やはり身が入らず絵の勉強に専心していました。
画家ストゥーバンのアトリエで勉強を始めた後、より自由に絵が学べるアカデミー・シュイスに通います。
そこで画家のフランソワ・ボンヴァンと出会い、ともにルーヴル美術館へ通ってドラクロワやジェリコーら過去の偉大な巨匠たちの模写に励みました。

ドラクロワの作品

クールベの作品は、初期の頃はなかなか世に認められませんでした。
1841年から47年にかけて25点の作品をサロンに出品しましたがそのうちわずか3点しか選考委員会を通っていません。そのためパリに出て最初の10年間は絵がほとんど売れず、生活は家からの仕送りに頼っていました。

そしてこの時期にヴィルジニ・ビネという愛人を得て1847年に二人の間に息子のデジレ=アルフレッド=エミール・ビネが誕生しています。
ヴィルジニについては詳しいことは分かっていませんが、クールベは自分の子どもが生まれたときも彼女のもとに駆け付けることなくオルナンとパリを行ったり来たりしていました。

クールベの生涯② 画家としての成功

ある時サロンで展示されたクールベの作品にオランダ人画商が目を止めました。
彼はクールベをオランダに招き肖像画を注文しました。
そればかりかクールベがパリで知り合った友人画家たちまでも援助をしてくれるようになりました。その仲間たちとはクールベのアトリエの目と鼻の先にあったカフェ兼パブの《ブラスリー・アンドレール》に集まった人々でした。


その中には詩人のボードレールやアナーキストのピエール・プルードン、リアリズム作家で評論家のシャンフリールらがいました。
この彼らによって現代の社会問題を解明する哲学として『リアリズム』という言葉が作り出されたのです。

1848年クールベはこうした状況を両親宛ての手紙の中で『成功が間近い』と狂喜して書いています。


この年パリ市内で暴動が起き2月革命が勃発。国王ルイ・フィリップが退位して共和派の臨時政府が全権を掌握しました。
政治的混乱と不穏な社会状況の中でもサロンは開かれましたが、この年は選考委員会を設けませんでした。そのためクールベはこの時とばかりに10点もの作品を展示します。
そしてこれらの作品が批評家から絶賛され、ようやく名声を売ることが出来ました。

そして翌年制作された『オルナンの夕食後(食休み)』は2等賞を得て政府買い上げとなります。
さらにこの受賞によってクールベは、今後サロンは無審査という特権を得たのです。

そして翌年夏からスキャンダルを巻き起こすことになる代表作『オルナンの埋葬』に着手しました。

クールベの生涯③ スキャンダル

ようやくサロンで認められたクールベでしたが、1850年にサロンに出品した『オルナンの埋葬』が一大スキャンダルを巻き起こし酷評の嵐にさらされます。

オルナンの埋葬

その理由として絵画の伝統を打ち破った主題を描いたことがあげられますが、同時に出品された『石割り人夫』などが社会主義者で無政府主義者のピエール・ジョセフ・プルードンから賞賛されるなどしたためにクールベが『恐るべき社会主義者で陰謀団の一員』であるなどとのうわさが広がりました。
そのため非合法政治集会に参加したなどと嫌疑をかけられ訴えられたのです。

当時は急速な近代化、都市化が進む中、マルクス、エンゲルスらによって《共産党宣言》が出されるなど、社会の不平等や貧困問題が大きな社会的問題となってきた時代でもあり、クールベ自身こうした社会主義的な主張に賛同していました。

1852年、長年の愛人であったヴィルジニ・ビネが子供を連れて出ていきます。
しかしクールベはこの件には驚くほど冷静で自分の芸術に忙しく、結婚した男はとかく保守的なものだと友人に書き送っています。

クールベの生涯④ 写実主義~パリ・コミューン

1851年12月ルイ=ナポレオン(ナポレオン三世)が即位し第二帝政が始まる。

ナポレオン三世

1853年《水浴びをする女たち》《まどろむ糸紡ぎ女》《闘技者たち》がサロンに出品しますが、またしても非難と嘲笑を巻き起こし、下見に訪れたナポレオン三世はその“醜悪さ”に作品を鞭で打ったと言われています。
しかしこれらの作品はモンペリエの愛好家アルフレッド・ブリュイアスが購入しています。

1854年、美術館局々長ニューベルケルク伯爵から、予めスケッチを提出するという条件付きで来るべき万国博覧会のための作品を制作してくれるよう申し出がありましたが、クールベは“表現の自由にもとる”としてこれをはねつけました。


そのため、クールベが万国博覧会のために制作した3点の作品は展示を拒否されることになりました。そこでクールベは万博会場の側に仮小屋を建て、そこで入場料を取って個展を開くという前例のない試みを行いました。


そこでは『リアリズム』の旗印のもとに初期の作品まで『画家のアトリエ』を含む代表作40点を展示したのです。しかし入場者は少なく興行的には失敗に終わりました。

疲れ果てたクールベは、ゲントからの招待を得てベルギー各地を旅してまわります。

フランクフルトでは名士として歓迎され、イギリス海峡沿岸のトゥルーヴィルではジェイムズ・ホイッスラーに会い沿岸の風景や肖像画などを制作しました。
またエトルタでは若き日のモネと一緒に制作しています。
ドイツ、オランダ、ベルギー、イギリスで展覧会を開き各地で栄誉を受けました。特に1869年にはベルギーではレオポルド2世から黄金メダルを、バイエルンのルードヴィッヒ2世からは聖ミヒャエル勲章を贈られています。

1857年サロンの規定が大幅に改定され、以降サロンは2年ごとの開催となりクールベは無審査で出品できる資格を失います。
1860年代になるとクールベは多くの女性像や裸体画など“エロティック”な作品を多く描いています。《セーヌ川岸の若い女性》《犬と裸の女性》そして極めつけは1866年ベッドに横たわる女性を下から女性器をクローズアップして描いた《世界の起源》があります。
1870年祖国フランスでナポレオン三世はリベラル勢力を取り込もうとする政治的意図からクールベにレジオン・ド・ヌール勲章の授を申し出ました。しかしクールベは『それよりも私は自由が欲しい』と言ってきっぱりとこれを拒否しました。

同年7月普仏戦争が勃発。
1871年には普仏戦争に敗北しナポレオン三世はイギリスへ亡命。ティエールによる臨時政府が樹立され(第三共和制)ドイツ帝国と講和条約を結びます。
しかしその屈辱的な内容に反発し、パリでは労働者階級の民衆が蜂起、一時的に社会主義的政革命自治政府が樹立されました。(=パリ・コミューン)
そしてクールベもこの運動に同調し積極的に参加。政府顧問としてコミューン政府の一員となりました。

クールベの生涯⑤ 晩年~不遇の連続


1871年2月国会議員に立候補しますが落選。3月にはパリ市議会議員選挙で再び落選。
4月美術委員会が芸術家連盟に改組され、クールベが議長に選出されます。
またそれに先立ち予備選挙で6区の市議会議員に当選し美術代表に任命される。これによりクールベはコミューンに直接参加することとなります。そこでクールベは“帝政の象徴”であるナポレオンの戦勝記念碑であったヴァンドーム広場の円柱取り壊しを提案します。

5月21日ヴェルサイユ軍がパリに入り、市街戦が始まり28日にはパリを制圧。
クールベが死んだとのうわさが流れ、オルナンの母が心労のため亡くなりました。
クールベは潜伏していたのですが発見、逮捕されます。軍法会議に架けられた後“円柱破壊”の罪を問われて禁固6か月、罰金500フランを言い渡されました。

9月、クールベはサント・ペラジー刑務所で刑に服します。
しかし病気に罹ったため減刑され、間もなくヌイイーの施療院に移されました。

1872年、息子が亡くなり、クールベ自身もリューマチと肝臓病で苦しみます。

1873年、この冬の間中体調は芳しくなく制作がはかどらない日々を送りました。
新政府はヴァンドーム広場円柱再建費用の負担をクールベに求めましたが、この費用は30万フラン以上という法外なものでその賠償金の名目でクールベの財産が差し押さえられる。
クールベは、身柄を拘束される危険を感じスイスに亡命を余儀なくされます。

ラ・トゥール・ド・ペルスに腰を落ち着け反体制派の人々と連絡を取り続けフランスに戻る希望は捨てていませんでしたが、酒浸りの荒れた生活を送りました。

水腫症に罹り1877年10月8日ショー=ド=フォンの病院に入院。11月26日にパリでクールベの作品と財産が競売にかけますが安く買い叩かれる。
その年大晦日の6時半、ラ・トゥール・ペルスにて亡くなる。遺体はスイスに埋葬されましたが、1919年にようやくオルナンの墓地に移されました。

 

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