こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介するのは15世紀初頭に活躍したネーデルランド史上最高の画家、ヤン・ファン・エイクです。
作品の素晴らしさだけでなく、油彩画技法の完成者として知られているので美術史上とても重要な画家と言えます。
と言っても私たちが現在使っている油絵具を想像するとちょっと違っていてファン・エイクが使った絵の具はもっと水彩画に近いイメージです。
色のもとである顔料に、オイル(乾燥すると固まる)を混ぜ合わせたものでサラサラと流動的で透明感があったんですね。
そのような絵具を何度も塗り重ねることで、画面は神秘的で輝くような仕上がりと深み、自然なグラデーションが出せるようになりました。
現在の油絵具はいわゆるチューブに入ったボテッとした感じのものをイメージしますが、
それは19世紀末にチューブ式が開発されてからのものなので実は歴史的にみるとまだ新しいのです。
ではそんなファン・エイクとは一体どのような画家だったのでしょうか?見ていきたいと思います。
目次
本名:ヤン・ファン・エイクJan van Eyck
1390頃~1441年
初期ネーデルランド美術の画家。油絵技法の完成者。
美術史的に見ても最も重要な巨匠のひとり。
当時絵を描く場合、テンペラ画という技法が主流でしたが、ファン・エイクが油絵を進歩発展させたことで絵画表現の可能性が大きく広がりました。
《テンペラ画とは…顔料を卵の黄身で溶いて作られた絵の具を使う描き方。色彩はとても鮮やかですが不透明で乾燥が早いため柔らかなグラデーションの表現が難しい。》
ファン・エイクの業績は、何世紀にもわたって称えられ「画家たちの王」と呼ばれるほどの巨匠ですが、若い頃の記録がなく謎の多い画家でもあります。
はじめは写本装飾画化として修業し、1420年ごろには画家としてかなり有名になっていたようです。
ファン・エイクは当時ヨーロッパでももっとも華麗な宮廷のひとつと言われたブルゴーニュ公フィリップ善良公の宮廷画家として仕えました。
当時の宮廷画家の仕事は王様たちの肖像画を描くだけでなく、盾に紋章を描いたり、旗を染めたり彫像の彩色をしたり、宴会のために変わった趣向の料理を考案したりと多岐にわたっていました。
さらには公の住居の装飾や、宮廷衣装のデザイン、武芸協議会、儀式、祝典などの装飾も任されるディレクターやプロデューサーとしての役目も追っていたと言いますから本当に多忙だったでしょうね。
ファン・エイクはことのほかフィリップ公の信認が篤く、また外交手腕にも優れていたので、その職務は外交官にまで広がっていました。公より極秘の任務を受けて度々秘密裏に外国の要人を訪れ、その旅ごとにファン・エイクには多額の報酬が支払われていたという記録が残っています。
残念ながらファン・エイクの個人的な資料は乏しい上に作品も大部分は失われ、ファン・エイクの作品だと断定されているものはわずか25点ほどしか残されていません。
年記のある作品はほぼ晩年の10年間に描かれたもので成熟期のものです。
北方ルネサンスの伝統であり特徴であるその徹底した写実主義と細密な描写は、このファン・エイクに始まると言って過言ではなく、力強い画面構成による厳粛な雰囲気が漂う宗教画などファン・エイクの作品は、まるでグルメリポーターの彦摩呂ではありませんが、『絵画の宝石箱や~!』と唸りたくなるほど煌びやかで600年も前に描かれたとは思えないほど輝いています。
こうした微細なものと巨大なものを組み合わせたファン・エイクの絵について、ある美術史家は『ファン・エイクの絵は顕微鏡であると同時に望遠鏡でもあった』と述べています。
ヤン・ファン・エイクは何世紀にもわたる名声のわりに資料が少なく、その生涯は詳しく分かっていません。
1422年におそらく22、3歳と思われますが、この年から記載が確認される以前はほとんどどこで何をしていたか知られていないのです。
1390年ごろネーデルランドのマース河畔の小さな町マーセイク(マースエイク)で生まれ、彼の名前はここからとられたのではないかと推測されています。
どこで誰について画家の修行をしたかなどは分かっていませんが、兄のフーベルト(ヒューベルト)もまた同じく画家でした。
1422~24年デン・ハークでホラント伯ヨハン・フォン・バイエルンの宮廷で画家として働いていた頃から確認されています。
1425年ホラント伯が亡くなると、ブルゴーニュ公フィリップ善良公のもとで画家兼侍従に任命され、リールにあった宮廷で働くようになります。
この頃にはファン・エイクの名は才能ある画家として広く知られていたようです。
フィリップ公は大変ファン・エイクを気に入ったようで、《彼の忠誠と誠実さに期待した公は、その職務に関して正規の栄誉、特権、自由、権利報酬を授けた》という記録があり当初契約は1年のみでしたが、その後も毎年更新され、長い間この宮廷に仕えました。
1426年兄のフーベルトが亡くなり代表作《ゲントの祭壇画》の制作を受け継ぐ。
フィリップ公より内命を受けて秘密裏に長旅をし、その途中1427年トゥールネーで著名な画家ロベルト・カンピンと知り合う。
翌28年から29年にスペインとポルトガルを訪れる。
ポルトガルでは国王ジョアン1世の長女イザベラとフィリップ公の結婚について話し合っています。そしてこの時ファン・アイクは王女の肖像画を2枚描き、ブルゴーニュ公国へと送りました。
1432年ゲントの祭壇画を完成させ、これがファン・エイクの署名のある最初の作品となる。
1433年マルガレーテと結婚し、宮廷や諸外国の重要な建物があるブルージュ北部地区に家を買う。少なくとも夫婦は2人の子供が生まれ、最初の子にブルゴーニュ公が名付け親となってファン・エイクに対する敬意を表しています。
また市当局のためにブルージュ市庁舎正面の彫像の彩色と金箔付けを行う。
1434年代表作《アルノルフィーニの夫妻の肖像》を制作。
35年にはそれまで支給されていた年棒が終身年金となり、金額も大幅に引き上げられました。これに対しリール財務局は難色を示しましたが、フィリップ公自ら介入して支払いを命じました。
同年公の命を受けてアラスに赴き、ブルゴーニュとイングランドとフランスの間で和平交渉が行われました。この時教皇の特使として仲介役を務めたニッコロ・アルベルガルティの肖像画を制作しています。
1439年署名のある最後の作品《妻マルガレーテの肖像》を制作。
1441年6月ブルージュにて亡くなり、宮廷で高い地位を得ていた彼は、貴族たちの墓地であった聖ドナティアン教会に埋葬されました。
フィリップ公は残された妻に「夫の奉職を考慮し、彼女とその子どもたちが大切な人を失ったことを哀悼して」下賜金を贈りファン・エイクの業績に敬意を表しました。
ここではヤン・ファン・エイクの代表作を簡単にご紹介します。
詳しい解説付きの記事はこちらをご覧ください⇒ 『神の手を持つ画家』ヤン・ファン・エイクの代表作を詳しく解説!
ゲント(ヘント)の祭壇画
1425-32年ごろ 350.5×460㎝ ゲント シント・バーフ大聖堂蔵
枢機卿アルベルガティの肖像
1438年 34×27.5㎝ ウィーン美術史美術館蔵
若い男の肖像(ティモテオス)
1432年 33.5×19㎝ ロンドン ナショナルギャラリー蔵
アルノルフィーニ夫婦像(結婚)
1434年 82×60㎝ ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵
ロランの聖母
1435年ころ 66×62㎝ ルーブル美術館蔵
室内の聖母子
1435年ごろ 65.5×49.5㎝ フランクフルト シュテーデル美術館蔵
ファン・デル・パーレの聖母
122×158㎝ ブルージュ 市立美術館蔵
受胎告知
1433年 92.7×36.7㎝ ワシントン ナショナルギャラリー蔵
ファン・エイクの作品を見てまず驚かされるのはその徹底した緻密な細部描写と質感へのこだわりです。
これはいわゆる北方ネーデルランド美術の伝統でありその創始者がファン・エイクなのです。しかしその技巧においてファン・エイクを越える画家は現れることはありませんでした。
彼はその鋭い観察力で画面の隅々に至るまで近景も遠景も同じ密度で精緻に描いています。
その並外れた描写力によって写実的な正確性だけでなく質感や手触り感、存在感までも再現しています。
当時、絵画は実物そっくりに描くことが求められ、特に宗教画においてはキリスト教の教義を明確に表すため“現実感を持った”作品が求められたのです。
そしてもう一つの特徴が優美で洗練された人物、そしてなんといっても輝く色彩と透明感です。その息を飲むほどの完璧な仕上がりはまさに宝石のように光輝いています。
これらはファン・エイクの卓越した技巧と油絵の発展改良によって可能になりました。
上の方でも述べましたようにファン・エイクは油彩画技法の大成者として知られています。16世紀のイタリアの伝記作家のヴァザーリは、ファン・エイクが油絵具を発明したと思いそのような記述をしていますが、実際はファン・エイク以前より油絵は使われていたようです。
ただファン・エイクの時代になって質の良いニスや溶き油、乾燥剤などが作られるようになり、ファン・エイクの研究と熟練した技巧によって高度な表現が可能となったのです。
ファン・アイクはこれを使って絵具を薄く塗っては乾かし塗っては乾かしという作業を繰り返し、下の色を消すことなく半透明な状態を保つことで透明感のある微妙な色合いと深みを実現しました。
肖像画においてもファン・エイクは大きな貢献をしました。
それ以前のゴシック期的な表現では身体的特徴を誇張して描くのが伝統でしたが、ファン・エイクはそれをせず、人物の顔を実物通りに描きました。
また顔を正面と横向きの中間を向ける、いわゆる4分の3正面の角度が一番自然なことに気づいたのです。これによって陰影が自然につけやすくなり、自然な立体感が生まれ穏やかな表情が可能となったのです。
この手法はまさに“コロンブスの卵”的な発見であり、アルプスを越えてルネサンスの本場イタリアへと渡り万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチも取り入れたのです。
ファン・エイクだけに限らず、同時代の画家たちの絵画には数多くのシンボル(象徴)が描かれ重要な役割を果たしました。(象徴主義)
例えば現代の私たちが画中に『白い百合の花』が描かれていても「ああ、きれいなユリだな」としか思いませんが、キリスト教的シンボリズムの世界では、それは「聖母マリアとその純潔」を象徴しているのです。
このファン・エイクの作品でも特に有名な《アルノルフィーニの夫婦》にはこうした“象徴”で溢れています。
まず窓際にオレンジが置かれていますがこれは純粋・無罪を意味しています。二人が清らかなまま結婚したということを示していて、新婦のお腹が大きいですが出来ちゃった婚ではないと表していると考えられます。
床には新郎が脱いだサンダルがありますが、これは聖なる大地にしっかりと立っている、つまり神聖な結婚を表し二人の間の子犬は忠実さの象徴であり二人が貞操を守るという誓いを表現しているのです。
その他蝋燭の灯は神の光であり、壁の奥にある丸い鏡は富の象徴として彼らが裕福であったことを示しているのです。
こうした約束事を当時の人たちは理解し、絵画を見るだけでなく“読み”解いたのです。
いかがでしたか?北方ルネサンスの始祖と言える画家ファン・エイク。
まだまだ謎が多く日本ではそれほど有名ではないかも知れませんが、美術史上ではかなり重要な画家でしたのでご紹介しましたが少し興味をもっていただけましたでしょうか?
ファン・エイクは多くの作品の中あるいは額縁に『これが吾の為し得る最善なり』という銘句を描き込んでいます。それは彼の作品に対する誇りと謙遜、常に最高のものを作ろうとする“職人魂”が見て取れます。
『何が描いてあるかわからない』とよく言われる現代の美術とは対極に『分かりすぎるくらい分かる絵』『ふつうは見ないところまで見せてくれる絵』として純粋に目を楽しませてくれます。美術に興味がある方は、一度は実物をご覧いただきたい画家です。
作品数は少ないため日本でファン・エイクの作品を直に見るのは難しいと思いますが、ヨーロッパに旅行される機会がありましたら是非足を運んでみてください。
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