こんにちは。管理人の河内です。
今回はイギリス美術史上最高の風景画家ウィリアム・ターナーの代表作を解説してみたいと思います。
長い美術の歴史ので《光の画家》と呼ばれる画家は何人もいました。今までこのブログでご紹介してきた中でも印象派のモネ、17世紀バロックのレンブラント、フェルメールなどですが、ターナーほど光そのものを直接的に表現しようとした画家はいないかもしれません。
光は水や空気と同じように直接触れることはできませんし刻々と変化します。それをキャンバスに定着させようとしたターナーの作風は、時間とともに抽象化へと向かいました。初期は地誌的描写と言われる精巧な写実表現から出発したターナーがどのように変化していったのかを通してみるのも面白いと思います。
目次
1796年 91.4 cm×122.2 cm テート・ブリテン蔵
今作は、21歳のターナーがロイヤル・アカデミーに初めて出展した油絵作品です。
発表の前年に訪れたワイト島で描いたスケッチをもとに制作されました。
ターナーは徹底した現場主義で、自ら訪れた場所で膨大な数のスケッチを描きそれをアトリエで構成し直し、油絵に仕上げる手法を取っていました。
月明りに照らされ夜の波間を波に弄ばれる小舟はあまりに小さく、船上で揺れるオレンジ色のランタンの光がその弱弱しさを象徴しています。
まるで映画のワンシーンのようですが、この頃すでに風景画家としてのターナーの主題が、風景そのものではなく、自然の大いなる力とその前ではあまりにも無力でちっぽけな存在である人間の対比というテーマがはっきりと表れています。
1805年 78×122㎝ テート・ブリテン蔵
ターナー初期の代表作でブリッジウォーター公爵の依頼で制作された海景図の連作の一つです。
一見すると、夜のような漆黒の海上が舞台ですが、画面前景には強い光が当てられターナー独特のドラマチックな演出がいかにもロマン主義的です。
タイトルになっている『難破船』は明るい帆の奥で今にも沈んでしまいそうで、この絵はタイトルが主題ではなく、前景の荒れ狂う波=自然の恐ろしさとちっぽけな人間の対比にあると言えます。
しかしその人間たちもよくよく見ていくと、大きな波に飲まれそうになりながら必死でボートをこぐ者、一心に神に祈る者、自ら諦めて海に入ろうとする者など自然の驚異の中でもてあそばれる人間たちが様々に描かれているのが分かります。
人間の弱さが描かれる一方で、向かって右側にはそれを懸命に助けようとする白い帆の小さな漁船がいます。彼らは漂流者を救出すべく長い棒を差し出している者や落ち着いて舵を操る勇敢な船乗りです。白い帆に当たる不自然なまでの強い光は彼らを神々しく輝かせ「弱きものを助ける勇敢な正義の味方」の登場を告げているのです。
1810年 90×120㎝ テート・ブリテン蔵
別名『雪崩で潰された小屋』とも呼ばれ、ターナーの主要なテーマである“圧倒的な自然の力、激動”と言ったものがストレートに表現された作品です。
今作は1802年のスイス旅行の記憶から描かれたものです。
スイスのグリゾンを舞台として大きな雪氷が転がり落ちてきて小さなヒュッテを押しつぶした様子が描かれていますが、ターナーにとっていかに限られた画面の中で運動感や速度、そして突然の恐怖を盛り込むことが出来るかへの挑戦でもありました。
画面をXの形に構成し、白い雪の塊と暗雲や岩、樹木の暗い色調が強いコントラストをなし劇的瞬間を盛り上げています。
1812年 146×237.5㎝ テート・ブリテン蔵
紀元前218年古代ローマ帝国を苦しめたカルタゴの武将ハンニバルが自らの軍隊を率いてアルプス越えをしている情景を描いた作品です。
ターナーはゴールド・スミス著「ローマ史」から着想を得てこの作品を描きました。
しかしここでは名将で聞こえたハンニバルの勇ましい様子ではなく、吹雪と山の脅威に怖れ苦しむ人々があるだけで、主役はその圧倒的な力を示す自然であり弱くはかない人間との対比が主題なのです。
ターナーはダイナミックな明暗のコントラストや渦を巻く空の吹雪でそれらを見事に表現しています。
ターナーはこの作品で、ナポレオンの運命を暗示したといわれています。
ハンニバルはアフリカからはるばるやってきて、アルプス越えには成功したものの最後はローマ帝国に敗れました。当時破竹の勢いでヨーロッパ中を席捲したナポレオンもまたこれと同じ運命をたどることを願って描いたと言われていますが、実際ロシア遠征に失敗したナポレオンはその後権力の座から転げ落ちることになるのです。
1825年 59.7×75.6㎝ テート・ブリテン蔵
『馬から落ちかかる骸骨』とも言います。
これまでのターナーの作品にしては異質の作品と言えます。
霧か靄のような中、白馬の上で白骨化した遺体(実は遺体ではなく「ヨハネ黙示録の四騎士」、人間を死に至らしめる「第四の騎士」=死神だったそうです、ご視聴者様からご指摘をいただきましたので修正いたしました)が仰向けに横たわっているなんともおどろおどろしい作品です。
《ヨハネの黙示録》にある「…青白い馬が出てきた。そしてそれに乗っている者の名は『死』と言い、それに黄泉が従っていた」という一節を凄絶なまでに視覚化した作品です。
またロイヤル・アカデミーの会長を務めたアメリカ生まれの画家ウェストの『青白い馬の上の死』の影響のもとで制作されたともいわれています。
1835~40年 122×182㎝ テート・ブリテン蔵
同じ時期に描かれた『日の出=入り江のほとりの城』『橋と塔』と同じように自然に対する詩情がますます醇化され抽象化されていった晩年の作品です。
現実の風景なのか、またはターナーの創造の風景なのか、水辺のような渓谷のような何一つ判然としないまるで東洋的な水墨画のようにただ茫洋とした世界が広がっています。
事物の説明的描写を一切排除した後、最後に表れるターナーが追い求めた世界なのかもしれません。
1835年ごろ93×123㎝ クリーヴランド美術館蔵
この作品は1834年10月に実際に起きたロンドンの国会議事堂の火災を描いたものです。
ターナーはこの火災を知ると、スケッチブックを抱えてテムズ川岸に出て、あちこちと歩き回りながら燃える議事堂を水彩画で写生しました。
夜空を照らし出して燃え上がる火災の炎や、それが川の水面に映る様子はターナーにとって魅惑的な素材だったのでしょう。
現地でのスケッチをもとに、ターナーは翌年2枚の油絵を制作しました。
最初にブリティッシュ・インスティテューションの展示された作品はウェストミンスター・ブリッジの対岸南側からの図であり、今作はロイヤル・アカデミーに出品されたものです。これ以後、ターナーの作品に火焔をテーマにした作品がしばしばあらわれるようになりました。
1835年ごろ 121×91㎝ ロンドン テート・ブリテン蔵
ターナーがペットワーズのえぐらエグラモント卿の屋敷に滞在中に描かれた一連の油彩スケッチの一枚。
父を亡くした後、ターナーはエグラモント卿の家族に暖かく歓迎され、屋敷にアトリエまで与えられました。
そうした親密な雰囲気の中で彼が身近なモチーフとして描いたものです。
ここではもともと社交を嫌っていたターナーは世間の雑事から離れ、周囲の雑音に惑わされることなくのびのびと制作に打ち込むことができました。
かなり抽象化された室内の風景ですが、ピアノを弾く女性の黒いドレスと観客(または背景?)の白、後ろで立っている人物の衣装の黄色、壁面の赤などが強いコントラストで鮮やかな色彩を強調しており、色彩画家としてのターナーの感性と抽象表現による近代的な感性を感じさせます。
1838年 90.7×121.6㎝ ナショナル・ギャラリー蔵
『解体されるために最後の停泊地に曳かれてゆく戦艦テメレール号』と言います。
1839年のロイヤル・アカデミーに出品されて絶賛されたターナーの傑作です。
夕日に照らされながら、解体のために最後の停泊地に曳航される戦艦テメレール。
この船はナポレオン軍とのトラファルガーの海戦で活躍し、祖国を勝利に導いた戦艦です。
実はターナーが実際にテメレールを見たのは昼間であり、この時テメレール号は往年の雄姿が見る影もなく老朽化していたといいます。
しかしターナーは堂々とした戦艦の姿を再現し、あえて夕方の情景に置き換えて描きました。
ターナーは落日に戦艦の最期を重ね合わせたのです。
ターナー自身もこの作品をひどく気に入っていたらしく、どんなに頼まれても決して手放すこはありませんでした。
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1842年 91×122㎝ テート・ブリテン蔵
今作には「浅い海の中、合図をしながら指示に従って港を出ていく蒸気船」というサブタイトルが付けられています。
吹き荒れる吹雪と荒れ狂う波が一体となって渦を巻き、空と海の黒と、光を示す黄と白のコントラストがドラマチックな効果を出しています。
カタログには、「自分はエアリール号がハーリッジ港を出ていくその夜に、実際にこの嵐の中にいた」と説明されており、その時の厳しい状況が体感されるようです。
さらにターナーは「私は理解されようと思ってこの絵を描いたのではない」と言っており、この作品がいかに直接的で個人的体験がもととなってこれほどの迫力を生んだかが分かります。
この頃にはかつてのような客観的写実描写は消え去り、当時の評論家から『石鹸の泡と白色塗料』のようだといわれるほど現実の世界を越えて抽象化した表現となっています。
1842年 87×86.5㎝ テート・ブリテン蔵
ターナーはこの作品を1842年のロイヤル・アカデミーに《戦争―流刑者とあお貝》という作品の対として出品しています。
本作品はターナーの友人で以前は彼の競争相手でも会った画家サー・デイヴィッド・ウィルキーの追悼として描かれたものです。(下絵は同じく友人の画家ジョージ・ジョーンズが素描したものをターナーが仕上げた)
輝く色彩画家としてのターナーは影を潜め、友人を失った悲しみと喪に服するかのように黒色が印象的ですが、これにはターナー自身の死に対する不安や恐怖を表しているとも考えられます。
ウィルキーは1841年中東から帰国する船旅の途中オリエンタル号の船上で亡くなりジブラルタルの沖合で水葬に附されたのです。この作品がロイヤル・アカデミーに出品された際、カタログには『真夜中の光が蒸気船の舷側に輝き、画家の遺体は潮の流れに委ねられた―希望の挫折』という詩句が掲載されていました。
1844年 91×121.8㎝ ナショナル・ギャラリー蔵
1844年のロイヤル・アカデミー展に出品されたターナー晩年の傑作です。
雨の中をテムズ川に架かるメイデンヘッド鉄橋を、産業革命の象徴である鉄道が疾走する情景が描かれています。
ターナーはロンドンのパディントン駅と西部を結ぶこのグレート・ウェスタン鉄道をよく利用していました。
この絵を描くにあたってそのスピード感を表現するために、列車の窓から体を乗り出して風雨に打たれたという逸話が残っています。
この作品は、一般的には産業革命を遂げたイギリスの近代化を賛美するものと言われていますが、画面右下にウサギが小さく描かれています。
このことからウサギは自然を表し近代技術を象徴する鉄道と対比させることで自然を越えようとしている、あるいは破壊しようとしているとか、逆にウサギが先に走っているので鉄道のスピードが大したことはないといっているとか諸説論じられていますが当のターナーはこれについて何も語ってはいません。
1835~40年頃 78×122㎝ テート・ブリテン蔵
ノラム城は、スコットランドとの境界を流れるトウィード川を見下ろす崖の上に建っています。
この絵では画面中央奥の青く霞んで見えるのがそれです。日の出の淡く黄色がかった靄の中でぼんやりと見えるのみです。
前景には草を食む牛が描かれ長閑な自然を感じさせますが、すべてが日かに溶け込むかのように幻想的な作品です。
ターナーは生前この作品を発表していませんので、実際は未完成なのかもしれません。
なお印象派のクロード・モネがイギリスを訪れた際、この作品に感銘を受け『印象派』命名の由来となった「印象・日の出」を描いたと言われています。
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ターナーが大好きなので、とても興味深く拝読させて頂きました。
一点だけ、「青白い馬」の絵ですが、「青ざめた馬に乗る死神」という邦題が付けられているそうで、乗っている骸骨は遺体ではなく、「ヨハネ黙示録の四騎士」、人間を死に至らしめる「第四の騎士」=死神が描かれております。ターナーの父の死を受け選ばれた主題だそうですが、モデルはターナーが赴いた娼館にいた娼婦だそうです。
差し出がましいコメントで大変申し訳ありません。
ターナーがもっと日本で広がるといいなと思っておりますので、このようなブログを拝読できとてと嬉しかったです。
めぐ様
貴重なコメントいただきありがとうございます
なるほど、遺体ではなく死神そのものだっったんですね、失礼いたしました。
私の使った資料が古かったのかもしれません、ご指摘修正させていただきます。
私もこのブログを描きながらいろんな発見をしましたが、こうして同じ趣味を持つ方と共有できてありがたいです。
今後ともお気づきの点ございましたらよろしくお願いいたします。