こんにちは。管理人の河内です。
今回はちょっと趣向を変えて、画家本人ではなくその活躍を陰で支えた人物に焦点をあててみたいと思います。
ご紹介するのは“情熱の画家”ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの弟・テオことテオドルス・ファン・ゴッホです。
人間は、いろんな人の援助や支えがなくては生きていけないのは画家に限らず、今も昔も同じことですが、このテオの存在なくして“天才”ヴィンセント・ヴァン・ゴッホはこの世に生まれることはありませんでした。
気難しく激情型の典型のような兄ゴッホを生涯支え続けた弟テオとは一体どのような人物だったのでしょうか?
目次
本名テオドルス・ファン・ゴッホ Theodorus van Gogh
フランス風にテオドール呼ばれることもあります。
1857年5月1日、兄ヴィンセントと同じくオランダ、北ブラバント州ズンデルトに生まれました。兄ヴィンセントより4つ年下の次男でした。
妻はヨハンナ・ボンゲル、通称ヨー。彼女との間には兄と同じ名前を付けた一人息子のヴィンセントがいました。
テオは、一時期兄ヴィンセントも働いたことのあるグーピル商会で画商をしていました。
このグーピル商会は、ゴッホ兄弟の伯父が役員をしていた会社です。
テオはそこでパリのモンマルトル大通り店を任されるほど信頼されおり、画商としてとても有能で、兄ゴッホ以外にも印象派やロートレック、ポール・ゴーギャンなどがまだ売れていない時期からその才能に着目していました。
またゴッホの有名な『耳切り事件』の相手となったゴーギャンに、ゴッホの待つアルル行きを勧めたのもテオでした。
テオは、対人関係が苦手で、友人はもとより両親とも確執のあった兄のほぼ唯一にして最大の理解者でした。
ゴッホの才能を確信しており、兄が画家を志して以来、1880年ごろから生活費を工面し、支え続けました。
しかしそれは言い換えれば、兄の生活費を支払う代わりに、その作品販売を一手に引き受けるという純粋に画家と画商という関係であったという言い方もできます。
いずれにしても、ゴッホが売れない絵を描き続けることが出来たのもテオの援助のおかげであり、テオなくしてゴッホの才能が開花することはありませんでしたし、その名を僕たちが知ることもなかったのです。
1886年、兄ヴィンセントは、芸術の都パリで働くテオを頼って彼のアパートに転がり込みます。テオは兄の才能は認めつつも、兄の気難しく情緒不安定な性格に悩まされ、衝突することもしばしばありました。
「彼の中にはまるで2人の人間がいるようだ。1人は才能に溢れて優しく繊細な心を持つ人間だが、もう1人は自己中心的で、頑なな人間だ。2人は代わる代わる現れる。1人の話を聞くと、次にもう1人の話を聞かねばならない。2人はいつも喧嘩している。彼は彼自身の敵なのだ」と妹への手紙に綴っています。
しかしそんな扱いにくい兄でも、ゴッホが療養のため南仏のアルルに移ってしまうと、テオがいかに寂しかったかを同じく妹への手紙に書いています。
「このアパートに1人になった今、空虚さが身に染みる。誰か相棒を見つけて一緒に住んでみようとも思うのだが、ヴィンセントのような人間の代わりはなかなか見つかるものではない。(中略)…もし兄さんが長生きすれば、きっと名声を得るに違いないと信じている」。
ゴッホは晩年、テオに息子が生まれた時、お祝いに『花咲くアーモンド』を描いて送ります。しかしその反面ゴッホは、テオが家族を養うために自分への仕送りを止めてしまうのではないかと不安を募らせました。
実際テオは母親へも仕送りをしていたので、彼の経済的負担はかなりのものだったようで、この頃夫婦でしばしば揉めていました。ゴッホがそうした内情を知って気に病んだのが自殺の一因だともいわれています。
このように物心ともに強く結ばれた兄弟でしたので、兄ゴッホがピストル自殺を図って亡くなったことはテオにとって大変大きなショックでした。
ゴッホの死後、兄の作品のほとんどはテオの元にありました。
今からすると宝の山が残されていたのですが、テオの悲しみは深く、もともと体の弱かったこともあり徐々に彼は衰弱していきました。
そしてオランダに帰国後、ユトレヒトの精神病院で兄の後を追うように33歳の若さで亡くなってしまいます。
テオの死後、1914年に妻のヨーが、テオの遺骨をフランスのオーヴェール=シュル=オワーズにある兄ヴィンセントの墓の隣に埋葬し、死後も二人は離れることなく仲良く眠っています。
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