ルノワールの生涯~ルノワールの人生をまとめて詳しく解説します。

こんにちは。管理人の河内です。

ここではルノワールの生涯について年代を追って詳しく見ていきましょう。

印象派の中心メンバーであったルノワールは一体どのような人生を歩んだのでしょうか?

目次

ルノワールの生涯① 出生~職人の道へ

1841年2月25日、フランス中部リモージュに五人兄弟の四人目として生まれる。

父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子をしていました。

他の印象派画家たちとは違い労働者階級の出身でした。

4歳の時に家族でパリへ移住。

少年時代は声が良く、周囲からは本格的に音楽教育を受けるよう進められたが13歳の時に小さな陶磁器工場に絵付け工見習いとなった。

絵付け工としては“ムッシュー・ルーベンス”とあだ名されるほどの腕前で、かなりの収入を得ていました。

 

当時ルノワールは昼休みになると、たびたびルーブル美術館に通いヴァトー、ブーシェなど18世紀の宮廷生活を描いた作品や色彩ゆたかなドラクロワに魅了されていました。

しかし1858年産業革命による機械化に伴い職人としての仕事を失います。

ルノワールの生涯② 画家を目指す~印象派誕生へ

1862年、ルノワール21歳の時、画家になることを志してシャルル=グレールの画塾に通いはじめます。

 

画塾では伝統的な技法を教えつつも戸外での制作も薦められ、フォンテ―ヌブローの森に通ってはモネたちと制作に励み印象派の画風がつくられていきます。

 

画塾ではクロード・モネの他、アルフレッド・シスレーやフレデリック・バジールらと知り合い親交を深めます。

彼らは定期的にカフェに集まっては芸術論を語り合いました。

また、ここと並行してエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に通い古典的デッサンを学び、ルーブル美術館で18世紀の美術を研究しています。

1863年サロンへ初出品するも落選。

その後シスレーやバジールらともに生活し、フォンテーヌブローなどで制作に打ち込みサロンへ出品を続けます。

写実主義の画家クールベやドラクロワの影響を受けながらも、独自の表現方法を模索する日々が続きます。

 

その大きな成果として69年、モネと二人、川岸でイーゼルを並べて制作した「ラ・グルヌイエール」があります。

この作品では大胆なタッチで水面に反射する光が表現されており、最初の印象派絵画と言われています。

しかしこの頃はまだ二人とも世に認められず、貧しく苦しい時代でした。

 

ルノワールの生涯③ 普仏戦争~印象派展

1870年、創作に邁進していたこの時期に普仏戦争が勃発。ルノワールは召集されピレネー山中で軍馬の調教にあたります。

翌年にはパリに戻りますが、その頃パリはパリコミューンの動乱期でした。

モネを介して画商のポールデュランリュエルと知り合います。リュエルは印象派を初めて評価した画商でした。

そのお陰でルノワールの絵は売れ始め73年にサン・ジョルジユ通りに大きなアトリエをかまえます。

またアルジャントゥイユにいるモネのもとを度々訪れ、一緒に制作して印象派の画風を確立していきます。

この頃、モネ、ピサロを中心にサロンから独立したグループ展を開こうという話が進みます。

そしてサロンの2週間前に開かれたのが後に第一回印象派展と呼ばれる展覧会でした。

ルノワールはこの展覧会に「踊り子」「桟敷席」など7点を出品しました。

しかし結果は酷評にさらされます。

 

印象派展は世間の不評をかったものの、1875年頃にはモネやシスレーらと競売会を開くなど少しずつ絵が売れはじめ、モンマルトルにもアトリエを構え「ムーランド・ラ・ギャレット」の制作に取り組みます。

1876年サロンには落選するも第2回印象派展を開催します。

しかしアカデミックな批評家たちからは依然として認められず、彼の裸婦が「腐っていく肉の塊だ」と揶揄されたりもしていましたが、徐々に印象派を認める人たちも現れヴィクトール・ショケは熱心にルノワールの作品を買い求めました。

翌年第3回印象派展を開催。

「ムーランド・ラ・ギャレット」を出品し注目される。

79年頃にはサロンで入選を果たすようになり肖像画の注文も増えだします。

しかし印象派の中で意見の対立が起こり第4回印象派展には参加しませんでした。

ルノワールの生涯④ アルジェリア・イタリア旅行~古典への回帰

1881年ルノワールはアルジェリアとイタリアに旅行します。

そこでかつてドラクロアを魅了した色彩豊かなオリエントに接し、イタリアではそれまで反感を抱いていた古典の巨匠ラファエロに直に触れ感動しています。

これを機にルノワールは古典を見直し、色彩よりもデッサン重視へと転向していきます。

その結果、それまでルノワールを支援していた多くのパトロンが新しいスタイルを良しとせずルノワールから離れていきました。

この頃には印象派メンバーたちはサロンへ回帰するルノワールやモネ、セザンヌと独立を貫こうとするドガ、ピサロらのグループに分かれていきます。

1885年アリーヌとの間に長男ピエールが誕生。

ラ・ロシュ・ギュイヨンに移る。

87年までかけて、それまでの裸体集大成として「大水浴図」を完成させる。

1890年を最後にサロン出品から引退。

アリーヌと正式に結婚。

1894年次男ジャンが誕生。彼は後に有名な映画監督となっています。

以降、アメリカでルノワールの作品は熱狂的に迎えられ生活は安定します。

1897年 自転車から落ちて腕を骨折する。

これが元で筋肉リューマチの発作がはじまる。

彼の手足は徐々に麻痺し始めその苦悩は死ぬまで続きます。

しかし彼は強い意志と家族や友人たちに支えられ、痛みと闘いながら絵を描き続けました。

1900年のパリ万博の「フランス絵画100周年展」でルノワールの作品11点が展示される。

同年、レジオンドヌール勲章5等勲章を受章。

1901年三男クロード誕生。

ルノワールの生涯⑤ 晩年~南仏カーニュ

1903年関節痛の痛みを和らげるため温暖なリビエラ海岸のカーニュ=シュル=メールに移り住みます。

創設されたサロン・ドートンヌの名誉会員となる。

1906年彫刻家マイヨールがルノワールの彫像を制作したことから彫刻に興味を持ち始める。

1907年にカーニュに美しい屋敷を建て晩年を過ごします。

1911年レジオンドヌール勲章4等を受章、19年には3等を受章する。

1912年頃にはさらに手足が不自由となり車椅子での生活となる。

1915年、妻のアリーヌが死去。

1919年12月3日ルノワール死去。

 

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