こんにちは。管理人の河内です。
この記事では、ルネサンス3大巨匠のひとりラファエロ・サンツィオの生涯を詳しくご紹介したいと思います。
14世紀から始まったルネサンスが最盛期を迎えた時代、若くして才能を開花させ膨大な傑作を残しました。惜しくも37歳という若さで亡くなったラファエロの短くも濃密な人生を辿っていきましょう。
目次
1483年4月6日、中部イタリアの山間部の小都市ウルビーノに生まれる。
この時レオナルド・ダ・ビンチは31歳、ミケランジェロは8歳
ルネサンス三大巨匠の中で最後に歴史に登場することになります。
当時ウルビーノはモンテフェルトロ家のフェデリコ三世の支配のもとに栄え、各地の貴族の子弟や文人、芸術家が集まる人文主義文化の一大拠点でした。
父のジョヴァンニ・サンツィオは、詩人であり画家でウルビーノの優雅な宮廷で仕事をしていました。幼いラファエロは父に伴われて、こうした高度に洗練された社交界を目の当たりにして宮廷文化を肌身で感じ取ったと思われます。
そして父の姿を見て少年ラファエロは絵に興味を持ち、画家を目指します。
母のマジア・チアラについてはほとんど知られていませんが、1491年ラファエロが8歳のときには亡くなり、5か月後に父は再婚しますがその父も94年には世を去ります。
ラファエロはわずか11歳で孤児となったのです。
そのため父の兄弟で司祭をしていたバルトロメオの後見を得ましたが、母方の兄弟シモーネになついていたようです。その後6年ほどの期間はラファエロがどのように過ごしたのか記録がなく分かっていません。
ラファエロ10代の自画像↓
1500年5月までには故郷ウルビーノを離れてペルージャに行き、ピエトロ・ヴァンヌッチ(通称ペルジーノ)の工房に入ったと考えられています。
当時ペルジーノは中部イタリアでは最も人気のある画家で、多数の弟子たちを擁する大きな工房を運営していました。
そこでラファエロはたちまち師の技法を習得し、有力な助手となります。
このペルジーノの元で四年を過ごし、近隣の都市で祭壇画などを手がけました。
弟子として腕を磨いた後、1501年には独立したようで、同僚だったエヴァンジェリスタ・ディ・ピアンディメレートと一緒に仕事をしており、この頃ラファエロが受注した契約書には『マギステル』(親方)と書かれています。
その後ラファエロは画家として更なる進歩を目指して1504年、21歳の時にルネサンスの中心地フィレンツェへ出ます。
1504~1507年
当時フィレンツェはフランス軍の侵攻や、メディチ家当主ロレンツィオ・イル・マニフィコが追放されたり、怪僧サヴォナローラの神権政治とその処刑などの混乱を脱したばかりでした。
そのため共和国政府は、不安定な共和国の強化を目指しており、自由と独立の象徴としてミケランジェロの「ダビデ像」が政庁舎の前に据えられたばかりで、レオナルドは市庁舎の大評議会室でかつてフィレンツェが勝利した戦争の場面『アンギアーリの戦い』に取りかかっていました。
ラファエロはこの地で四年間、ドナテッロ、ウッチェロ、ボッティチェッリなどの先人をはじめ同時代の作品を貪欲に学び吸収していきます。
とりわけレオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロは製作中の「モナ・リザ」やフィレンツェ政庁舎の壁画、「聖家族」などを目の当たりにして深い感銘を受けます。
レオナルドの素描に触発されて、後にラファエロの代名詞ともなる「聖母子像」のテーマに取り組み始めるのもこの時期です。
このフィレンツェ時代は、ラファエロにとって大変実りの多い、続くローマ時代への準備期間としてとらえることができます。
またこの頃、仕事上ではラファエロは主に肖像画を多く手がけました。
1507~1520年
1507年、詳しい経緯は分かっていませんがローマ教皇ユリウス二世のたっての希望で、ラファエロは、若干25歳という若さでカトリックの総本山、ヴァチカン宮殿内の教皇の“スタンツァ”と呼ばれる居室をかざる仕事を委嘱され、ローマに赴きます。
ユリウス2世
フレスコ画の経験はほとんど無く、まだそれほど名をなしてもいないラファエロがどうしてそのような重責を任されたかは未だに謎のままです。
しかしこのことがラファエロにとって大画家への大きな転機となりました。
その頃ヴァチカン宮殿では、すでに教皇の命で各地から有名な画家が招かれ、壁画の改修が行われており、ミラノの画家ブラマンティーノやラファエロの師ペルジーノも作業に従事していました。そんな中、なんと若きラファエロはその装飾事業の全権を任されたのです。
しかしラファエロは見事にその重責を果たします。1508年から11年までかかりきりで制作された『スタンツァ・デラ・セニャトゥーラ』(教皇が正式文章に署名する部屋)の装飾は盛期ルネサンスを代表する作品となり、ラファエロの名声を一躍高めました。
そこで制作された「聖体の論議」「アテネの学堂」「パルナッソス」など署名の間に描かれた壁画はルネサンス芸術の頂点の一つに数えられています。
またその壁画が完成するころ、ファエロはボローニャの版画家マルカントニオ・ライモンディに自分の素描を版画にしてもらうよう依頼しています。
それは作品の準備のための習作であり、また複製を作ることでより多くのひとに自分の作品を知ってもらうための有効な手段でした。
その結果、マルカントニオによって作られた版画は大人気となり、ラファエロの評判はより広範囲に大きく高まったのです。
1511年、ラファエロは裕福な銀行家アゴスティーノ・キージのために大きな仕事をしています。
キージは教皇ユリウス二世の親友で、参謀役であり絶大な権力を誇っていた人物です。彼は建築家ペルッツィにローマの町のすぐ外に豪壮な別荘を建てさせており、1508~1511年にラファエロはその庭を囲むロッジァ(柱廊)にフレスコ画を描くように依頼されたのです。
それがラファエロの代表作となる『ガラティアの勝利』で、この壁画の成功により、次々とキージからの制作依頼を受けルようになります。
また1511年半ばまでにはラファエロはユリウス二世の二番目の居室「スタンツァ・デリオドーロ」(ヘリオドロスの間)の装飾に着手しています。
結局その二年後にユリウス二世が逝去したため、教皇は完成を見ることができず、ラファエロも強力なパトロンを失いますが、続く新教皇レオ10世もまたラファエロの才能に惚れ込み彼の成功は陰るどころかさらに高まることになりました。
そんな1514年ラファエロの成功は頂点に達します。
友人であり同郷人の天才建築家ブラマンテの後を継いで、教皇庁の建築家に任じられ、サンピエトロ大聖堂(↓)造営の総指揮を任されたのです。
これと平行して、ヴァチカン宮殿の第3の部屋「スタンツァ・デル・インチェンディオ」(火災の間)の装飾を手がけるなど、多忙を極めます。
同年、枢機卿メディチ・ビッビエーナの姪、マリア・ビッビエーナと婚約。(彼女がなくなり結婚はしなかった)
1515年、教皇レオ10世によって古代の遺跡管理監督官に任命されます。
その他にもラファエロは、古代ローマの区画配置を復元させるという一大プロジェクトを計画し、かたやサンピエトロ大聖堂の再建も進めていました。
このように画業だけでなく、建築、遺跡発掘、都市計画など次々と舞い込む大きな仕事を捌くため、晩年(と言っても30代ですが)のラファエロの絵画制作はおろそかになり、構想と下絵だけを行い、後は助手に任せるようになります。
実際、1514~17年に描かれた「火災の間」の装飾では、デザインはラファエロが描いたものの、主にジュリオ・ロマーノとジャンフランチェスコ・ペンニによって描かれました。
こうしたことから、作品の質が落ちたとラファエロのライバルたちからは批判を浴び、ヴァザーリでさえもこの頃の作品にはラファエロ特有の優美さと甘美さに欠けているとし「彼は自分の下絵に従って、他人に彩色させているからだ」と記しています。
そんな中、1517年枢機卿ジュリオ・デ・メディチから、フランスのナルボンヌ大聖堂のための祭壇画「キリストの変容」を依頼されます。
そしてこれがラファエロ最後の作品となりますが、この作品の素晴らしい出来栄えにより、改めてラファエロが当時最高の画家であることを人々に認めさせました。
1520年、春ラファエロは病気で倒れ、4月6日の彼の37歳の誕生日に息を引き取ります。
彼の遺骸はラファエロの希望により、ローマのパンテオンに収められています。
【ラファエロに関するそのほかのお勧め記事】