パブロ・ピカソの代表作『ゲルニカ』を徹底解説! なぜゲルニカは白黒なのか?

こんにちは。

管理人の河内です。

 

今回は『20世紀美術最大の巨人』パブロ・ピカソの代表作《ゲルニカ》を深く掘り下げて解説してみたいと思います。

 

多くの逸話と伝説に彩られたピカソの画歴の中で、ある意味もっとも有名な作品がこの《ゲルニカ》ではないでしょうか。

 

《ゲルニカ》は、1937年に制作され現在はスペインのソフィア王妃芸術センターに所蔵されている縦3.5メートル、横7.8メートルという巨大なキャンバスに描かれたモノクロームの作品です。

 

ピカソといえば多感な青年時代に、友人の死という哀しい経験から生まれた『青の時代』や、数々の恋人たちとの生活からインスピレーションを得て名作が生まれたように、どちらかというと私的な経験から作品を産み出すタイプの画家という印象があります。

「青の時代」当時の自画像

 

しかしこの《ゲルニカ》だけは、戦争や暴力に対する政治的抗議の意思を示し、人間の愚かさや哀しさなど普遍的な問題をテーマにして描かれた稀有な一枚といえます。

 

第二次世界大戦下、ナチスに占領されていたパリのピカソの元に、ナチスの役人がやってきて《ゲルニカ》を見て『これはお前が描いたのか?』と尋ねました。

 

そこでピカソが『違う。お前たちがやったのだ(空爆を)』と答えたという話があります。

 

そんな《ゲルニカ》とは一体どのようにして生まれ、ピカソは何を表現したかったのか?見ていきたいと思います。

 

 

目次

《ゲルニカ》がたどった数奇な運命

 

1936年からピカソの故国スペインは、左派の共和国軍(人民戦線政府)とフランコ将軍率いる右派の国民戦線軍による内戦下にありました。

 

双方ともそのバックには旧ソ連とドイツ、イタリアなど外国勢力が後押しし、直接戦闘にも加わっていました。

 

当時パリに住んでいたピカソは、スペインの首都マドリードにあるプラド美術館の亡命名誉館長の任にありました。

 

そんなピカソが共和国政府からパリ万博に出品する作品の制作を依頼されます。

ピカソは共和国支持者であったことからこの依頼を承諾します。

 

そんな時期に(1937年4月26日)、ドイツ空軍がスペイン・バスク地方ビスカヤ県にある古都ゲルニカに無差別爆撃を行ったのです。

 

この爆撃は3時間に及び1600人の死者を出し、町は廃墟と化します。

 

当時ゲルニカの男性はほとんど戦闘に出ていたため、街には女性と子どもしかいなかったといいます。(そのためピカソの《ゲルニカ》にも女性や子どもが描かれているのです)

廃墟となったゲルニカ          :Wikipediaより

 

このニュースを聞いたピカソは、その非人道的な破壊行為に猛烈な抗議をするため当初《フランコ将軍の夢と嘘》という作品を計画していたのを変更し、この悲惨で凶悪な事件をテーマに一気に45枚もの下絵を描き上げたそうです。

 

そして何度も何度も描き替えを繰り返し1か月でこの作品が完成。

パリ万博へと出品されました。

 

 

スペイン内戦は、結局フランコ将軍による右派の国民戦線が勝利し、軍事独裁政権が誕生しました。

 

そのためピカソは故国スペインに戻ることはなくフランスで生涯を終えます。

 

 

《ゲルニカ》はその後フランコ政権の残虐さを広めるための、亡命共和国政府のプロパガンダとして利用されヨーロッパ各地やアメリカを巡回します。

 

その後第二次世界大戦の勃発に伴い、《ゲルニカ》はニューヨーク近代美術館に所蔵されることになり、“スペインに自由が戻るまで”という条件付きで無期限貸与されました。

 

ピカソが亡くなった2年後の1975年にはフランコも死に、スペインにも民主化の波がやって来たことで1978年に『ゲルニカ』のスペインへの返還交渉がスタートします。

 

 

しかし首都マドリードで行われたピカソの展覧会を右派が襲撃したり、議会を治安警備隊員が占拠したりするなど、スペインではいまだ右派残党による混乱が続いていました。

 

そこでスペイン政府はアメリカに対し『ゲルニカ』には万全の警備体制を布くという条件でようやくスペインに変換されることになります。

 

こうして『ゲルニカ』は故国スペインに返還されましたが、当初プラド美術館で展示された際は巨大な防弾ガラスに守られていました。

 

その後1995年、ようやく防弾ガラスは撤去され現在の展示となっています。

 

 

 

 

ゲルニカ解説

スペイン・マドリードにあるソフィア王妃芸術センター   :wikipediaより

ゲルニカは、縦3.5メートル、横7.8メートルという巨大なキャンバスに描かれたピカソの作品でも最大級の作品です。

 

完成当初はそれほど注目を集めなかったようです。

制作を依頼した共和国政府もこのような象徴的な表現ではなくもっと具体的で直接的なフランコ政権に対する抵抗の意思を感じる作品を期待していたため評判は良くなかったのですが第二次世界大戦後、世界中から喝さいを浴びるようになり、現在では世界で最も有名な反戦絵画となっています。

 

キャンバスに壁画として制作されたためか、通常の絵具ではなく工業用のペンキを使って描かれています。

油絵具に比べて乾きの早いペンキを使ったことによってこれほどの大作をたったの1か月で仕上げましたが、やはり保存状態は良くないようです。

 

描かれている場面は、よく見ないと分かりづらいですが家(部屋)の中です。

空爆によって破壊されたその“場所”には実際の空爆を表す爆撃機や銃など直接的なものは描かれず、攻撃の被害を受けた人々や動物などがバラバラにキュビズム的表現によって解体され象徴的に描かれています。

 

白黒のモノトーンによって、大きな三角形を中心に据えたシンメトリー(左右対称)の構図で描かれあちこちに散らばるモチーフは土台となる三角形のシンメトリー構図によってダイナミックな動きと安定を両立させています。

 

 

伝統と革新の融合

 

ゲルニカで特徴的なのは、牡牛や馬などが多く描かれていることです。

これらのモチーフは制作初期の段階から登場していましたので、ピカソのイメージに強くあったと思われます。

スペイン国立通信大学の教授ヤヨ・アスナール氏によれば「闘牛の国スペインでは、牡牛と馬は生と死のドラマを最も身近に感じさせてくれる存在。そこでピカソは虐殺された犠牲者を、牡牛と馬を使って表現した」と言っています。

 

また死んだ兵士が握りしめている折れた剣の上に花が一輪咲いていますが、これは希望の象徴と言われています。

 

そして天井には怪しく光る電球は爆撃を連想させ、机の上の鳥は精霊や平和の象徴だとされています。

 

こうしてピカソは虐殺の恐ろしさを、象徴を使って表現している点は、現代美術の巨匠ピカソも西洋美術の伝統を踏襲していると言えます。

 

 

このように象徴的表現を、ピカソが独自に生み出したキュビズム的表現で描いているところが興味深いところですね。

 

キュビズムについてはここでは詳しく述べませんのでこちらの記事を参照していただければと思いますピカソの画風 キュビズム

 

 

爆弾によって現実にバラバラにされたであろう人体を、キュビズムの様式を使い、写実的ではないピカソ独自の表現で切られた手足が転がっています。

 

 

さらに過去の作品からの着想を得るというのも西洋の伝統でありピカソが晩年特によく使った手法です。

 

爆弾の下で両手を上げる人物。

同じスペインの画家ゴヤが描いた『1808年5月3日』と同じポーズをさせている。

この絵もまた当時のナポレオン軍によるマドリード市民の虐殺を描いたもの。

 

 

死んだ我が子を胸に抱き泣き叫ぶ母親の姿は《ピエタ》から着想を得ているのでしょうか。

亡くなった子供の手にはキリストが磔刑で受けた傷“聖痕”らしきものが描かれています。

 

 

 

ゲルニカはなぜモノトーンで描かれたか?

 

もう一つの《ゲルニカ》の大きな特徴はモノトーンによる表現です。

 

しかしピカソが制作を始めた当初はモノトーンではありませんでした。

 

ピカソはこのゲルニカの制作の様子を撮影し記録として残しており、制作を始めてから32日目の写真をよく見ると、キャンバスのところどころ壁紙が貼られているのが分かります。

これらの壁紙には紫や金の色がついていたのです。

 

ピカソは制作の過程で色の着いた壁紙を何度も付けたり外したりして色彩の効果を模索していました。

 

しかし最終的にピカソは色を排除し、モノトーンでの完成を選びました。

 

その理由は二つの側面が考えられます。

 

まずはピカソがモノトーンによるインパクトの効果を狙った。

そして《ゲルニカ空爆》の報を受けた新聞の白黒写真を見たときの衝撃が忘れられなかったからという視覚的効果から。

 

 

もう一つはピカソのこの事件に対する憂鬱な気分の反映。

そして黒と白のコントラストによって暴力による悲劇性と犠牲者たちへの深い哀悼の気持ちを表現したという心理的な側面です。

 

 

しかし一点、完成間際まで画面中央の右側に描かれた女性の目からこぼれる涙だけは赤い色で描かれていました。

これも結局は見る者に哀れみや同情、慰めといった感情が入ってくることをよしとせず、涙自体も消してしまいました。

 

涙をなくしたことで戦争という暴力への怒りを表現したのです。

 

 

 

《泣く女》

《ゲルニカ》を制作中、ピカソは私生活でも大きなトラブルを抱えていました。

 

当時ピカソにはオルガという妻がいながら30歳近くも年の離れたマリー・テレーズと愛人関係にありました。

 

その上、女流写真家のドラ・マールとも深い関係になり三角関係ならぬ四角関係の修羅場を迎えていたのです。

 

ピカソの女性遍歴についてはこちらの記事にまとめてありますのでご覧ください⇒【ピカソ・エピソード⑤ 華麗なる?ゲスの極み?ピカソの女性遍歴)】

 

ドラ・マールは《ゲルニカ》制作に立ち会い、ピカソの制作過程を撮影した人物でした。

ピカソとドラ・マール

しかしピカソはなんと彼女たちが自分のことで争い合っているのを見ては楽しみ、冷淡にも彼女たちの嘆き悲しむ顔を作品にしていたのです。

 

 

一方で反戦のモニュメントとなる傑作を制作しながらもう一方で身内のこうした酷い行いをしながらも作品化していく、それこそが天才ピカソたる所以なのでしょうか?

 

そしてドラ・マールをモデルに完成したのがこの有名な《泣く女》だったのです。

 

《泣く女》は、《ゲルニカ》のために制作された多くの下書きのひとつで、当初《ゲルニカ》にも登場していましたが、結局ゲルニカには使われませんでした。

 

 

 

 

“ゲルニカ”まとめ

 いかがでしたか?

ギネスブックに載るほど多くの作品を描いたピカソの作品にあって異彩を放つ傑作《ゲルニカ》。

 

教科書などでご覧になられたことがある方も多いと思いますが、そこにはピカソの暴力に対する激しい憤りと反戦の意志だけでなく、哀しみをも表現した作品でした。

 

 

管理人も学生時代、スペインを訪れた際、直で《ゲルニカ》を見ましたが何とも言えない重苦しさと迫力がありました。

 

これだけの大作ですから日本に来ることはまずないと思いますので、もしスペインに行かれる機会があればぜひ見ていただきたい傑作です。

 

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