こんにちは。管理人の河内です。
今回は、「バルビゾン派」の巨匠ミレーの生涯を少し詳しく辿ってみたいと思います。
フランスの地方の農家出身の少年がいかにして巨匠になっていったのでしょうか?
本名ジャン・フランソワ・ミレー
1814年10月4日、フランス北西部、ノルマンディー地方マンシュ県の12家族にも満たない小さな村グリュシーで8人兄弟の長男として生まれる。
ミレー家は代々続く農家で、農家の中では格式の高い家柄でした。祖母や親戚たちと先祖代々の家に育ち、父もまた農民でしたが、教会の合唱指揮者もしていました。
少年時代は農業を手伝いながら、村の神父にラテン語や聖書、古代ローマの文学などを学び、教養を身に着けます。
1833年、ミレーはようやく父の賛同を得て、18歳で港町シェルブールに出てムシェルという画家のもとで絵の修行を始めす。
1835年父が他界したため一時は家業の農業を継ごうと帰郷しますが、祖母の強い勧めでシェルブールに戻り画家ラングロワのもとで絵の修行を続けることが出来ました。
22歳のときに、友人や保証人のおかげで奨学金を得てパリに出ます。
エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学し、アカデミズムの巨匠ポール・ドラローシュに師事する。
余談になりますがこのドラローシュ、あまり聞きなれない画家でしたが、近年大人気を博した『怖い絵』に登場したことで一躍日本で知られることになった画家ですね。
『怖い絵』はドイツ文学者・中野京子氏が2007年に著した本で、「恐怖」をキーワードに西洋美術史に登場する様々な名画の場面を読み解き、隠されたストーリーを魅力的に伝える本としてベストセラーとなった本で、2017年には東京や神戸で『怖い絵』に登場する作品を集めた展覧会が開かれ大好評でしたので実際にご覧になった方も多いかもしれません。
そこに登場したのがこの絵↓「レディ・ジェーン・グレイの処刑」
ここではこの絵について詳しい説明は省きますが、ミレーはこの絵を描いた画家に師事します。
26歳で「ルフラン氏の肖像」がサロン(官展)に入選。
奨学金を打ち切られて生活が厳しくなり、シェルブールに帰って肖像画家となります。
パリでサロンに入選したことは、田舎町では良い肩書ではありましたが、制作依頼はなく経済的に苦しい状況が続きます。
1841年シェルブールで仕立て屋の娘、ポーリーヌ―=ヴィルジニー・オノと結婚してパリに住みます。
最初の妻ポーリーヌ(↑)
1844年に妻ポーリーヌが肺結核のため病死。
サロンにも落選し落胆したミレーは1845年シェルブールに戻った後、家政婦のカトリーヌ・ルメール(↓)と知り合い同棲を始めます。
後のバルビゾン派の仲間たちと知り合う。
ル・アーヴルへ移り地元の風俗画や船乗りの家族の肖像を手掛ける。
この頃は18世紀の画家ブーシェやフラゴナール調の、華やかで温かい色調のマニエル・フルーリと呼ばれる手法で神話などをモチーフとした作品を描いています。
パリに戻り『聖ヒエロニムス』『バビロン捕囚』『木から降ろされたオイディプス』など神話画、宗教画などを制作。
1846年、カトリーヌ・ルメートルとの間に第1子が生まれる。
1847年サロン入選。好評を博す。
1848年「箕をふるう人」が絶賛され、政府買い上げとなるなど共和政府からの制作依頼を受けるようになりました。
1849年パリで流行したコレラを避け、家族と共にバルビゾン村に移住。
当地で田園地帯の農民の貧しい現状に触れ、それまでの宗教画などから離れて、貧しい農夫や羊飼いなどの人々の生活を描くようになる。
1850年 代表作「種をまく人」をサロンに出品。
1853年カトリーヌと正式に結婚する。
サロンで銀賞を受賞し、名が知られるようになる。
1860年、画商のアルチュール・ステヴァンスとエヌモン・ブランと契約したことで経済的な余裕が生まれます。
1865年建築家ガヴェが、高額でミレーの作品を購入するなど一気に金銭的余裕が生まれまれ、妻の湯治のために毎年ヴィシーを訪れるようになりました。
1867年パリ万国博覧会に出品。
1868年資産家フレデリック・アルトマンから連作風景画の大作「四季」を依頼される。
(『春』『夏』『秋』まで描き上げましたが『冬』は未完のまま亡くなる)
レジオン・ドヌール勲章を受章する。
1870年にはすでに経済的にも画壇での評価も定まり、サロンに固執する必要はなくなり、サロンへの出品はしなくなります。
また激化する普仏戦争を避けてシェルブールに移ります。
しかし、この地で風景画をスケッチしていると、度々プロシアのスパイと間違われて逮捕されることがありました。
サロンの審査員になる。
1874年国からパリのパンテオンの壁画を依頼される。
1875年1月3日バルビゾンで家族に見守られながら死去。享年60歳。
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