皆さんこんにちは。管理人の河内です。
この記事では20世紀美術の巨匠“色彩の魔術師”アンリ・マチスをご紹介します。
日本ではピカソはよく聞くけど、マチスって誰?
と思われる方はまだまだ多いかもしれません。
でもこのマチス、実はピカソに並び称されるほどの天才で、20世紀美術界のツートップといってもいいほどの画家なのです。
あともうひとりマルセル・デュシャンというただの男性用便器を「泉」と名付けて「これが芸術だ!」といった画家・芸術家がいますが、彼を入れてスリートップとする見方もあります。
ピカソが形体の破壊と再創造に取り組んだのに対して、マチスは色彩の解放をしたことで知られています。
簡単に言うとピカソは形(形体、フォルムなんて言います)、マチスは色(色彩)の人なんですね。
この作品をご覧頂ければわかるように、色も形も相当に単純化されていてピカソ以上にこどもでも描けそうな絵と思われる方もおられるかも。
僕も絵を勉強し始めたころ、恩師から「マチスはすごい!」「ピカソがその才能に嫉妬していた」なんて話を聞かされましたが、どこがどう凄いのかさっぱり分かりませんでした。
でも僕が実際にすごいと感じたのは学生時代、大回顧展でマチス作品を一堂に年代を追ってたくさん見る機会があったからです。
やっぱり本物を見るって大事だなあと一番実感させられたのがマチスなのです。
ブラウザを通して感じて頂くのには限界があると思いますが、この記事でその時代背景や人生を知ることでその理解度が深まり少しでもマチスの良さを知っていただければ幸いです。
目次
ピカソと並ぶ20世紀を代表する革新的画家。
ピカソが形体を現実のものから解放したとすれば、マチスは色彩を解放した画家といえます。
形も色もどんどん単純化させて、純粋に色彩の効果についての探求を続けました。その結果、晩年には切り絵という表現にいたります。
マチスは幼い時から神童として絵を描いていたピカソとは違い、大学で法律を学んだあと、病気療養中に暇つぶし的に絵を始めた遅咲きの画家でした。
紳士的で知的な人柄でしたが、反面神経質で心配症だったのもピカソとは対照的ですね。
正反対の二人の天才ですが、心の中ではお互い認め合い終生の友人でありライバルとしてリスペクトしていたようです。
マチスもまたピカソ同様その長い画歴のなかで様々なスタイルの変化がありました。
初期のころには自然主義的ないわゆるフツーの写実表現で描いていましたが、ゴッホや印象派の影響を受けて色彩と形体(フォルム)は次第に単純化し、自由なタッチと大胆な色彩表現へと向かいます。
マチスが美術学校で指導を受けていた象徴主義の画家ギュスターヴ・モローは、この頃すでに「君は単純化に向かうだろう」と予言しています。
すごい才能を見抜いていたんですね。
そして「フォーヴィズム(野獣派)」と呼ばれる新しい芸術表現を、仲間のアンドレ・ドランやアルベール・マルケ、モーリス・ド・ヴラマンクらと展開します。
※フォーヴィズムとは、ゴッホの影響を受けた自由で激しい色彩と大胆なタッチが特徴の20世紀の絵画運動です。
この「野獣派」という呼び名も興味深いことに「印象派」と同じく当時の批評家が皮肉と嘲笑を込めて言った言葉が元になっています。
しかしマチス自身はこの「野獣派」呼ばれることをひどく嫌っていたようです。
フォーヴィズムの旗手として活躍した後、南フランスの眩い陽光に魅了されたマチスは、色鮮やかで鮮烈な色彩表現に熱中しました。
マチスはモチーフのそのものの固有色や理論的色彩論よりも、感性で直感的に感じる色を頼りに色彩を扱いました。
そのほうがより画家の感情を表し、鑑賞者の心にダイレクトに伝わると考えていたからです。
この色彩のモチーフからの解放こそがマチス芸術の真骨頂です。
前世代の印象派によってもある程度の解放はなされていましたが、マチスは一切の固有色(=ものそのものの色。例えばリンゴは赤、レモンは黄色など)に拠らず、感性に従って色を使い、色自体の力とその組み合わせの効果を考え続けました。
そのために色だけでなく形(フォルム)も単純化させ「色でデッサンをする」という事をしたのです。
マチスのこれらの実験は美術史に大きな転換をもたらし、その後の抽象画への橋渡しとなりデザインの世界にも大きな影響を与えるなど、20世紀の最も重要な画家となりました。
晩年は癌を患って体が不自由になり、車椅子生活となります。
そして体力の衰えから、油絵ではなく切り絵による創作表現が主流となりました。
最晩年には南フランスのヴァンスで、修道院の礼拝堂の装飾に携わり、人生の集大成ともいえる作品を残しました。
1869年フランス北部ル・カトー=カンブレジに産まれる。
ほどなく一家はボアン=アン=ヴェルマンドワに移りマチスはそこで育ちました。
1887年、父の意向でパリへ出てパリ大学で法律を勉強し法律事務で働きます。
1889年虫垂炎で入院中に、母親の勧めで絵画と出会い画家へ転向する決意をします。
後にマチスは「楽園のようなもの」を発見したと語っているように、絵画に心の静穏と平安を見出したのです。
父はこれに失望しますが、決意は固く1891年私立の美術学校アカデミー・ジュリアンを経てエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入りギュスターヴ・モローの指導を受けます。
そこで生涯の友人となるジョルジュ・ルオーと出会います。
1898年アメリ―・パレイルと結婚。
新婚旅行で訪れたロンドンでターナーの作品に出合い感銘を受ける。
この頃アンドレ・ドランやジャン・ピュイらと出会い、またゴッホ、セザンヌらの強い影響を受け独自の表現を模索する。
1904年 アンブロワーズ・ヴォラールで初めての個展を開く。
新印象主義のポール・シニャックの影響で点描を用いて「豪奢、静寂、逸楽」を制作。
フォーヴィズム表現が確立する。
1905年サロン・ドートンヌに出品しモーリス・ド・ヴラマンクやアンドレ・ドランらと共に野獣派と呼ばれるようになります。
当初は批判に晒されますが、ロシアの富豪シチューキンやアメリカのスタイン兄妹などマチスの作品に共感するコレクターを得て次第に世に認められるようになっていきます。
しかし実際に激しい作風のフォーヴィズムとして活動したのは3年ほどで、それ以降は慰めや幸福感を生む作品を作り続けました。
1906年 大コレクターのガートルード・スタインのサロンでピカソと出会う。
アルジェリアを旅し、アフリカのアートに影響を受ける。
1907年~ 若手芸術家の育成を目的に美術学校を開く。
1910年イスラム文化の展覧会を見て影響を受ける。
1911年、12年と異国情緒を求めてモロッコを訪れる。そこでの体験がのちの作品に東洋的テーマによる連作を制作します。
1917年 南仏コートダジュールのシミエからニース郊外へ移住。
この頃にはフォーヴィズムの荒々しさは影を潜め、古典的な表現へと回帰する。
1941年十二指腸癌を患い車椅子の生活となる。
グワッシュ・デグべと呼ばれる切り絵の制作を取り入れる。
晩年は南仏ヴァンスのドミニコ会修道院のロザリオ礼拝堂で代表作のステンドグラスなどを手掛けます。
1954年没。
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マチスの代表作を簡単にご紹介します。
詳しくお知りになりたい方は、こちらもご覧ください。【「輝く色彩!」マチスの代表作をご紹介します~作品解説】
「食卓」 1897年 個人蔵
「豪奢、静寂、逸楽」 1904年 オルセー美術館像
「帽子の女」 1905年 サンフランシスコ現代美術館蔵
「コリウールの開いた窓」 1905年 ニューヨーク・ホイットニーコレクション蔵
「マチス夫人(緑のすじのある肖像)」 1905年 コペンハーゲン国立美術館蔵
「生きる喜び」 1905年 バーンズコレクション
赤いハーモニー(赤い部屋) 1908年 エルミタージュ美術館蔵
「ダンス」 1910年 エルミタージュ美術館像
「王の悲しみ」 1952年 パリ国立近代美術館蔵
マチスは学生時代、ルーブル美術館で古典の名作から学び、写実的な画風からスタートしますが、次第に師匠のモローが予言した通り色、形ともに単純化の道を進みます。
新印象主義の影響を受けて点描を使った作品から始まり、ゴッホの影響で大胆なタッチと強烈な色彩を駆使したフォーヴィズムを確立しました。
その後フォーヴの荒々しさは影を潜め、フォルム(形体)と色彩は次第に単純化していき、独特の色面による構成的な画風へと移行します。
マチスの特徴は、モロッコやイスラム世界を訪れた祭に、様々なインスピレーションを得て制作に取り入れたところにもあります。
より平面的で装飾的な作風はこれらから生まれたものです。
そして北アフリカや南仏の強い日差しと強烈な色彩など、自然からも多くのものを取り入れました。
マチスは常に、感覚を頼りに色彩の可能性を追求し、純粋に美しいもの、人に幸福感をもたらすものとしての絵画を追求します。
晩年体が不自由になったこともあり、油絵から切り絵表現が主流となります。
マチスの技法についてはこちらの記事も合わせてご覧ください。
【『色彩の開放者』マチスの技法、その変遷について解説します】
日本ではそれほど知られていない20世紀ピカソと並ぶもう一人の天才についてみてきましたが、いかがでしたか?
マチス芸術の最大の特徴は、色彩をモチーフに依らず、感覚を拠りどころに、その可能性を追求し、純粋な視覚芸術としての絵画を追い求めたという点につきます。
ピカソは天才ではありましたが常に周囲から影響を受け、いいとこ取りをするように吸収し、圧倒的な画力で手品のようにそこから新たなスタイルを築いていきました。
しかしマチスは自身の感覚を磨き、内発的動機から一つの哲学に基づいて新しい美術の境地を開いたのです。
ピカソが嫉妬した点もまさにそこにあります。
そのマチスの制作に対する哲学は、彼の言葉から見て取れます。
「私が夢見ている芸術は、人を苦しめたり抑圧したりするようなテーマのない、均衡と純粋と静けさの芸術、あらゆる頭脳労働者たち、例えばビジネスマンにとっても文筆家にとっても、ひとつの鎮静剤、頭脳の鎮静剤であるような芸術、その肉体的な疲れを癒すのが心地良いひじ掛け椅子だとすれば、まさにそのひじ掛け椅子のようなものだ」
「私は絵を見ることが味合わせてくれる、純粋に感傷的な満足以上のものを求めようとはしない」
マチスはこのように語り、絵画を純粋な癒しや幸福の手段として追求した画家だったのです。
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