こんにちは。管理人の河内です。
今回は【享楽のパリの夜を描いた画家】トゥールーズ=ロートレックの代表作をご紹介したいと思います。
19世紀末に活躍したロートレックは、印象派より少しあとの世代に当たるため、ゴッホやセザンヌらとともに『後期印象派』に分類されることもありますが、そもそも『後期印象派』自体が便宜上つけられた名称ですので、お互いに影響はし合っても主題や作風は全くちがうものでした。
ロートレックの描く作品の主題は主に夜のパリ。名門貴族の出でありながら、体の障害によって居場所を失った彼は、パリの歓楽街に自分の居場所を見つけました。そのため彼の代表作のほとんどがこうしたパリの夜に生きる人々を描いた作品なのです。
目次
1887年 54×45㎝ アルビ トゥールーズ=ロートレック美術館蔵
ロートレックはいつの時も優しかった母親をモデルにして何度も描いています。
この絵は3枚目に描かれた母の肖像画で、居間でくつろぎ読書している情景が描かれています。背景の家具や調度品からは貴族の優雅な生活がのぞき見えます。
この絵では印象派の技法である粗いタッチをそのまま見せる手法を使い、柔らかな光を表現し用としていますが、反面しっかりとしたデッサンや遠近法に基づいた古典的な手法による画面構成がされており、ロートレックが様々な手法を試しながら自身の表現を模索していたことが伺えます。
1888年 98×61㎝ シカゴ アート・インスティテュート蔵
この作品は、ロートレックがサーカスを主題にした最初の大作です。
1889年からこの作品がムーラン=ルージュのロビーに飾られ看板の役割を果たすようになり、それが後のロートレックのポスター画につながっていきました。
鞭を持った調教師ロワイヤル氏の身振りによって女曲馬師と馬が一体となり画面右下から広場へと飛び出しています。馬は奥に向かって疾走しているため遠近法によって短縮して描かれ、手すりの赤い線によってその動きは強調されています。
俯瞰した位置からサーカスの舞台を見下ろす構図によって舞台、観客、そのほかの芸人などはほとんどすべてが画面の縁で途切れています。このように全体ではなくその一部を切り取ることで空間の広がりと臨場感が生まれています。
また画面は対角線上に赤い手すりによって分断され、その線と交差するように、ロワイヤ氏と女曲馬師の視線がクロスすることで画面に動きと緊張感が強まっているのです。
この手すりはさらに画面奥へと鑑賞者の視線を呼び込みこれから始まる人馬の動きを期待させ、白の地に赤い線というコントラストが作品に強さと華やかさを与えています。
1890年 115×150㎝ フィラデルフィア H.P. マッキヘ二―・コレクション蔵
1890年から96年の間に、ロートレックは「ムーラン・ルージュ」を主題とした作品を実に30点以上も描いています
そのほとんどがダンスホールそのものよりも観客やダンサーに焦点を当てたものでした。
今作はそうしたものの初期の作品です。こうしたロートレックの作品からは、その場の雰囲気、雑踏や音楽が聞こえてきそうです。
この作品では遠景にシルクハットを被った客たちが描かれ、中景で無表情のヴァランタンとダンサーの女性が激しく踊り、前景では二人の婦人と男性が画面の縁に断ち切られる構図で描かれています。
ホールの床や奥の壁は緑系と黒で統一され、画面全体の暗い印象を決定付けていますが、上部奥の照明や手前の女性の帽子の飾りの明るい黄色とドレスのピンクが一層輝いて見えます。
また左奥のボーイの服の朱色、女性ダンサーのストッキング、手前夫人のピンクと画面をほぼ対角線に点々と赤が連なり見る者を画面の空間へと引き込んでいきます。
一見華やかなナイトクラブの情景のようですが、登場人物たちの表情はどれも憂鬱で無表情であり楽し気な表情の人物がいない不思議な空間です。
1891年 170×130㎝ アルビ,トゥールーズ=ロートレック美術館蔵
ロートレックはこのキャバレー『ムーラン・ルージュ』が開店以来のお気に入りした。
『ムーラン・ルージュ』とは「赤い風車」という意味で店には実際に風車が建っていました。
ここは当時モンマルトルで最大のキャバレーでしたが、「カジノ・ド・パリ」が新しくオープンしたため、『ムーラン・ルージュ』は負けじと人気の踊り子ラ・グーリュを雇い入れ、その宣伝のためにロートレックにこのポスターを依頼しました。
これが見事に成功。このポスターによってロートレックの名声は一気に広まり、『モンマルトルの画家』として定着していくことになったのです。
手前には通称『骨なしヴァランタン』と呼ばれたシルクハットの男性がグレーの影絵のように描かれ、中央ではダンサーのラ・グーリュが踊り、さらにその奥では彼女を取り囲んで見とれる客たちが黒く塗りつぶされたシルエットで描かれるという構図です。
激しく回転するため見える下着の白が、観客たちの黒とヴァランタンのシルエットによっていっそう引き立っています。
これら形体の単純化や、ヴァランタンのポーズ、切れ方などに浮世絵からの影響が見てとます。
ちなみに『骨なし』とはあまりかっこいい感じがしませんが、彼があまりにもダンスが上手く、手足の動きが速すぎてくねくねとまるで骨がないように見えたところからついたようです。
1892年 123×141㎝ シカゴ,アートインスティテュート蔵
この作品は初め中央のテーブルで親し気に集まっているグループを中心にした一回り小さな作品でしたが、ロートレックが後から下に25センチ右に16センチ継ぎ足して今の構図になっています。
テーブルに集まっているのは批評家エドワール・デュジャルダン、スペイン舞踏のダンサー「ラ・マカローナ」、写真家のポール・セスコー、シャンパンのセールスマンをしていたモーリス・ギベールらであり、後ろ奥ではロートレック自身と長身の従兄ガブリエル・タピエ・ド・セレイランが横切り、ラ・グーリュが髪を直しています。
右手前の下方から緑の光に照らされた不気味な女性は後から描き足されたもので、全く違う世界の住人のようでもあります。
ここに描かれているテーブルで集まる一団、ロートレックとガブリエル、ラ・グーリュとその友達、緑の女、4つのグループがそれぞれ互いに関心を示すことがなく交流はありません。人々が集合しまた四散していく場所、赤の他人が一時の快楽を求めて集まる実に近代の都会を象徴する場所、それが「ムーラン・ルージュ」です。そこはどんなものでも受け入れてくれる場所であり不幸と孤独を背負ったロートレックの居場所でもあったのです。
1892-93 80×60㎝ パリ国立図書館蔵
1886年に開店した『ディヴィアン・ジャポネ(日本の長椅子)』という店のために制作されたポスターで、ロートレックの石版画でも最高傑作のひとつと言われています。
少ない色数によって力図強い構成が特徴です。
舞台より客席に焦点を当てた構図で、舞台に立つイヴェット・ギルベールの頭部が画面の縁でバッサリと断ち切られ、逆に観客席に座るジャンヌ・アヴリルが主役という珍しい構図です。
アヴリルは当時人気上昇中のダイサーです。
口をしっかり結んで優雅に座る様子は黒い紙を切り抜いたようであり、曲がりくねったそのシルエットには浮世絵の影響が見られます。
右端の紳士は批評家のエドゥアール・デュジャルダン。彼の手袋の質感表現にはスピッティングという版画技法が使われています。これは網や歯ブラシなどを使ってインクを石版に飛ばして斑点のように散らす置き方のこと。
ロートレックはこうした芸術性あふれるポスターによって、グラフィックデザインを芸術作品として確立しました。
1894年 111×132㎝ アルビ トゥールーズ=ロートレック美術館蔵
赤い壁面に赤い絨毯。豪華な赤いソファーにクッション、ここはパリの高級娼家です。そのロビーで物憂げな表情で客を待つ数人の娼婦たち。右方向を見つめる女の隣には一人取り澄ました女性がこちらを凝視しています。彼女はこの店の女将なのです。
ロートレックはしばしばこの娼家に住み着き、まさに夜のパリを象徴する場所であるとともに、娼婦として社会の底辺で生きざるを得ない女性たちがここにいます。
そんな彼女たちをロートレックは威厳ある姿で描きました。
1892年 52×41㎝ オルセー美術館蔵
不敵な笑みを浮かべた女性がじっとこちらを凝視しています。
額の巻き毛、襟巻き、手を腰に当てある種尊大な態度がこの女性の職業を暗示しています。
ロートレックの卓越したデッサン力で素早く描かれたこの作品は、この女性の性格や口調まで描き切っています。
1892年 150×100㎝ パリ,国立図書館蔵
モデルのアリスティード・ブリュアンは風刺のきいた歌を歌う人気の歌手でした。
特徴のある帽子と真っ赤なスカーフを身に着け、手には枝のようなステッキを持って精悍なポーズをとっています。
また彼は「ミルリトン」という自分の店を持ち人気を博していました。
当初アンヴァサドールの支配人は、このポスターを気に入りませんでしたが、親友であるブリュアンが、このポスターを掲げるまでは出演はしないと迫ったことから採用されました。
1892年 84×44㎝ オルセー美術館蔵
ジャンヌ・アヴリルはフレンチカンカンの人気ダンサーでした(↓)。
彼女はルイジ・ディ・フォント伯爵を父に持つ貴族階級の出身でしたが、幼いころより家を顧みない父親と、アルコール中毒で折檻をする母のもとを飛び出し一時は精神病院で治療を受けていました。
退院後、カルチェ・ラタンや夜の街でダンサーとなり、1889年にムーラン=ルージュで舞台に立ちました。
そうしたときにロートレックがポスターに彼女を描き、人気はさらに高まりその後もスターであり続けました。
後にドイツ人画家と結婚した後はあまり幸せではなかったようで、晩年は貧しい境遇の中亡くなりました。
1895年 64×48㎝ オルセー美術館蔵
一見すると舞台が終わった後の楽屋で黄色いひだえりを外そうとしている女芸人のごく日常の何気ない姿が描かれています。しかし楽屋で1人かと思いきや、左上の鏡には老齢の男性がわずかに分かるように描かれています。その下にはテーブルにグラスや皿があることから彼女が裕福な紳士と特別室にいることが分かります。
当時人気の踊り子や芸人たちには裕福なパトロンがついていたのです。
モデルの女性は日本風の着物を着て裸馬の背に乗る曲芸などで人気を博していました。
この頃一般的にも日本文化がもてはやされていたことから、彼女はどこで聞きかじったのか『シャ・ユ・カオ』が日本風の名前だと思ってこの芸名を着けていたそうです。
1896年 64×52㎝ オルセー美術館蔵
赤毛に色白で痩せた背中が印象的な作品です。
床に直に腰を下ろした上半身裸の女性を上から見下ろした構図で描かれています。
仕事を終えた後の休息なのか、これから舞台へ上がる前の支度部屋なのかは判別しませんが、非常にリラックスした印象を受けるとともに、女性の表情が分からないため一抹の寂しさや疲れを読み取ることもできます。
こうした日常的な一瞬を切り取る構図は浮世絵と尊敬するドガの入浴する女性たちを描いた作品からの影響が大きいと思われます。
モデルとの距離感が非常に近く、ロートレックならではのまさに画家とモデルが非常に近い=親密な位置にあることが感じられます。
1899年 41.0×32.7㎝ アルビ トゥルーズ・ロートレック美術館蔵
1899年、アルコール依存症の治療のためにロートレックはパリ郊外の病院に入院させられます。退院後ボルドーに向かう途中で英仏海峡に面した港町ル・アーヴルに立ち寄ります。ここはイギリスとの交通が盛んであったために町の酒場やキャバレーでも多くのイギリス人が働いていました。
この作品のモデルとなったのはそんな酒場のひとつ「スター」の金髪のメイド、ドリー。
ロートレックは彼女をとても気に入ります。彼女はロートレックの創作意欲をかき立てますが、旅の途中で道具を持っていなかったため、しばらくこの地に滞在してパリの友人ジョワイアンに絵具道具一式を送ってもらいました。それが届くのを待って描かれたのがこの作品です。
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