こんにちは。管理人の河内です。
今回はルネサンス時代、ドイツで生まれイギリスで活躍したちょっと変則的な画家ハンス・ホルバイン作の『大使たち』をじっくり解説してみたいと思います。
ホルバインと言えばあまり日本では知られていないかも知れませんが、日本の最大手絵具メーカー『ホルベイン』としてなら聞いたことがあるかもしれません。
絵を描く人ならほぼ間違いなく誰しもが聞いたことがある、使ったことがあると言えるほどの超大手メーカーの名前になるほど実は有名な画家なんですね。
今回はそのハンス・ホルバインの描いた謎めいた名作『大使たち』を深堀りしていきたいと思います。
目次
ではまず初めにハンス・ホルバインについて見ておきましょう。
ホルバインは、1497年ドイツのアウクスブルクで生まれました。
ホルバインは父と同じなまえを付けられていたので一般的にはハンス・ホルバイン(子)と表記されます。
主にスイスのバーゼルで画家としての初期の経歴を積みました。
バーゼルでは肖像画、祭壇画や壁画、ステンドグラスのデザインなど幅広く手掛け、ほかにもバーゼルが出版の中心都市であったことから本の挿絵なども制作し当地を代表する芸術家となりました。
しかしカトリックとプロテスタントの争いにより1526年イギリスへと渡ります。
一旦はバーゼルに戻りますがその後はイギリスで生涯を終えます。
1536年にはすでにイギリス国王ヘンリー8世のもとで宮廷のお抱え画家として最も有名な画家となりますが40代の若さで疫病のため亡くなりました。
この絵は縦の長さが2メートルほどもあるためほぼ等身大に近い大きさで描かれています。
威風堂々とした恰幅の良い貴族と聖職者と思しき二人の男性がじっとこちらを見つめています。
その風貌から彼らが当時まだ20代の青年であることは驚きです!
20歳以上年上の管理人よりよっぽど風格があります((笑)!
背景の鮮やかな緑の幕が、左の人物の衣装とテーブルに掛けられた布の赤といわゆる補色関係にあり鮮やかな対比が目を引きます。
二人の間には棚が置かれ彼らの所有物なのか様々な調度品や楽器、書物などが雑然と置かれています。
そして彼らの足元にはなにやら得体のしれない物体(細長い円盤のようなもの)が描かれ、これだけ緻密に整然と描かれた作品の中で唯一位置感を持たない状態で描かれています。
パット見たときにはそれほど気にならないのですが、一度気づいてしまうとがぜん気になりますね!
ではここに描かれている二人の人物はいったい誰なのか、見ていきましょう。
まずは向かって左側の人物から。
名前はジャン・ド・ダントヴィユ(Jean de Dinteville)実は彼がこの絵の注文主です。
見るからに豪華な衣装を身に着けているところから位の高い人物であることが伺えますが、このダントヴィユがタイトルとなっているフランスからイギリスに派遣された『大使』なのです。
彼の衣装は豪華そのもの。
山猫の毛皮を裏地とした重厚な黒いコートをはおい、その下には美しい光沢を放つピンクの絹地の服を着ています。
頭には彼の記章であるドクロがついており、胸には位の高い騎士の勲章のペンダントが下げられています。
またダントヴィユの右手に持っている金の短剣には「AET.SUAE 29」という文字が刻まれていて、これはラテン語の略でダントヴィユの年齢が29歳であったこと示しています。
一方、向かって右側の人物はイギリスを訪問中だったラヴ―ルの司教、ジョルジュ・ド・セルヴ。
二人は友人であり、当時ローマカトリック教会と関係を絶とうとしていたイギリス国王ヘンリー8世を思いとどまらせるという難しい任務を負ってイギリスに滞在していました。
(結局この任務は失敗に終わり、イギリスはカトリックから飛び出して独自のイギリス国教を作ります)
セルヴは古典学者でもあり大使として多くのヨーロッパ諸国に派遣されていました。
画中でセルヴが右ひじを乗せている書物の側面には25歳という彼の年齢が記されています。
伝統的なヨーロッパの肖像画では、描かれた人物の地位や教養の高さを示すために書物や所有物が一緒に描き込まれることが良くあります。
この「大使たち」は特にその特徴が強く、かなり多くの品々が二人の間に置かれた棚に無造作に置かれています。
そしてこれらの品々は、実は単に見せびらかしているのではなくそれぞれがメタファーとして様々な意味が隠されているのです。
例えばダントヴィユが肘をかけている一番上の棚にあるのは主に天体観測に用いる科学器具です。
一番左、青い地球儀のように見えるのは天球儀です。
表面には動物や星座の絵や名称がラテン語で克明に描かれています。
その横には円筒形の日時計、さらに象限機(しょうげんぎ、四分儀ともいう)と呼ばれる天体観測や時刻を調べるのに使う道具です。
そして下の段には音楽に関わる楽器や楽譜、コンパスや地球儀(1523年ニュールンベルグで発売されたもの)、T定規が挟まれている書物(これは1527年に出版されたドイツの数学の本)などは彼らの知性と教養の高さを示しています。
この地球儀には印がつけられポリジーPolisyという地名が描き込まれていますが、(実際にはこの程度の地球儀にそこまで詳しく地名が書かれていないはずなのですが)この地がまさにダントヴィユの城がある領地であるため、ダントゥヴィユが書かせたとも考えられます。
この作品自体も当初はその城に掛けられていました。
またその横にはリュート、ルター派の讃美歌集、フルートケースなどが置かれています。
この図からは分かりづらいですが、実はリュートの弦が一本切れて描かれています。
これはカトリックとプロテスタントの間で高まりつつあった対立への言及ともとらえられ、讃美歌集が宗教の調和を求める嘆願が込められているのではないかとも言われています。
以上のようにこれら克明に描きこまれた数々の品は、音楽、数学、天文学、地理学を意味していますが、これらは中世の大学において「四学」を示し彼ら二人の人物の教養の高さを示しているのです。
※「四学」は算数、幾何、天文、音楽を指し中世の大学で必修とされたリベラルアーツ(教養)のこと。
「大使たち」はまるで写真のように正確でリアリティのある作品ですが、この絵の魅力はそれだけではありません。
最も気になるのは、前述した彼らの足元に位置する把握できない斜めに伸びたような円盤状のもの。
これはいったい何なのでしょうか?
答えは…極端に斜めに引き伸ばされたドクロ(骸骨)です。
これは正面から見るのではなく、かなり絵に近づいて右斜めから見るとしっかりとドクロであることが確認できます。
皆さんは「アナモルフォーシス」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
ほとんどの方が「?」と首を傾げるような聞きなれない言葉だと思いますが、その意味を簡単に言うと作品を『そのまま見ても何か判別できないが、角度を変えたり円筒などに投影したりすると何かが分かる図像のこと』です。
だまし絵とはちょっと違うのですが、見方、見る位置を変えると本当の姿が見えてくるということなんですね。
そしてこの大使たちに描かれているドクロこそが西洋美術の歴史の中で最も代表的な“アナモルフォーシス”なのです。
ドクロは洋の東西を問わず人の死を意味し、時には死神そのものとして描かれてきました。
では一体なぜホルバインはこの不吉の象徴である髑髏を、一見分からないようなかたちでこの絵に描き込んだのでしょうか?
ここでは3つの仮説をご紹介してみたいと思います。
1つ目の説はこの髑髏の位置と棚に描かれ品々との関係に着目したものです。
つまり棚の上下それぞれの段には、共通するものが置かれています。
それらは段によって区切られることで世界を分けているのです。
つまり上の段は天を表し、下の段はこの私たち人間の世界、そして床は死の世界です。
このように二人の肖像がでありながらこの世界すべてを比喩として描きこんだというものです。
二つ目の説はある種の教訓として描かれたというものです。
西洋美術の伝統のひとつに「ヴァニタス」という寓意画としての静物画のジャンルがあります。
「ヴァニタス」とは「人生の虚しさ」のメタファーであり、こちらの作品のように豪華な品々とともに死を意味する髑髏や時間、人生の短さを表す時計、加齢や衰退を意味する熟れた果実といったものが描かれ間接的に地上の人生の虚しさや虚栄のはかなさを表現しているのですが、この「大使たち」もまたこの世の春を謳歌する若もたちもいつか死んでしまう。この地上(現世)でいかに富や力を手にしていようとも、私たち人間すべてに死が来ることを思い出させているのです。
この堂々とした気品と力溢れる二人の若者は、地位や富、権力、教養、全てを手にしている者として描かれていますが、しかしだからこそこの二人の足元に髑髏は描かれたというものです。
三つ目の説は伝統的な「イコノグラフィー」つまり西洋絵画におけるお約束として描かれたというものです。
これは髑髏と同じく一見して分かりづらいのですがダントゥヴィユの背後、カーテンの隙間から十字架がひっそり見える程度に描かれています。
この十字架と骸骨をセットとして考えるとゴルゴダの丘におけるキリストの十字架の足元には髑髏が置かれるというのは「伝統的イコノグラフィー」でお決まりの構図です。
ですのでそういう意味で足元=地面に髑髏が描かれたのではないか?とする説です。
以上3つの仮説をご紹介してきましたが、西洋絵画にはこのようにいくつもの約束事や背景がありそこからいろんな読み解きができるのもこの絵の魅力ですね。
いかがでしたか?
今回はハンス・ホルバインの「大使たち」について細かく解説してみました。
こうした「絵解き」「謎解き」という文化は近代まで続く西洋美術の伝統でもあります。
いつもは絵なんて「難しくて良くわからない」とか「何が言いたいのか理解できない」なんて言ってなかなか美術に興味が持てない方も西洋美術にこうした知的好奇心を刺激するような要素がふんだんに取り込まれていますので、そうした観点から美術に親しんでいただけると嬉しいですね。
同じようなアプローチの記事がこのほかにもありますのでこちらも是非合わせてお読みください。
・【美術館での手引きに】西洋化がを読み解くための《象徴(シンボル)寓意(アレゴリー)》をご紹介します。(前編)
・【美術館での手引きに】西洋化がを読み解くための《象徴(シンボル)寓意(アレゴリー)》をご紹介します。(後編)