こんにちは。管理人の河内です。
今回ご紹介する画家は“ルネサンスの先駆者”と言われるジョット・ディ・ポンド-ネです。
どんな世界でも先駆者(パイオニア)というのはいるものですよね。
例えば、今でこそ日本人のプロ野球選手がアメリカのメジャーリーグで何人も大活躍していますが、そのもとをたどればやはり野茂英雄投手に行きつくと思います。
昨年引退したイチロー選手や松井選手、現役ではダルビッシュ有投手やマー君こと田中投手などがどれほど凄くても、メジャーで日本人が活躍できると世界に証明し道を切り開いたのは紛れもなく野茂投手でした。
彼がいたからこそ現在の日本人選手の活躍があるといっても過言ではないパイオニアだったと思います。
今回ご紹介するジョットとはまさに“ルネサンスのパイオニア”であり新しい世界の扉を開いた画家なのです。
管理人はそうした新しい世界を切り開いた者は、その後に続く者たちより一段格上に評価されるべきだと思っているのですが、そういう意味ではこのジョットは、あのダ・ヴィンチやミケランジェロよりも格上かもしれません。
しかしこれほど重要な画家でありながら、日本ではあまり一般的な画家とは言えなく管理人的には寂しいばかりですのでこの記事で少しでもジョットを知っていただければと思います。
目次
本名:ジョット・ディ・ボンドーネ
1267-1337
ジョットは13世紀半ば、美術史的に言えばビザンチン様式とよばれる時代にイタリア中部の都市で後にルネサンスの都として知られるフィレンツェ近郊の貧しい農家に生まれました。
彼は幼くして当時の有名画家チマブーエにその才能を見いだされました。
そのチマブーエのもとで修業を終えた後、ジョットはそれまでの伝統的な絵画様式を一変させる独自の画風を産み出しました。
特にパドヴァにあるスクロヴェー二礼拝堂の壁画や、アッシジにある聖フランチェスコ聖堂の連作壁画は圧巻で、美術史に新たな時代を切り開いた金字塔となっています。
ジョットの人柄についてはどの記録を見てもとても機知に富んだ愛想の良い人物であり、常にジョークを言う愛嬌も持ち合わせたとても好人物だったと評しています。
伝記作家ヴァザーリの書き残すところによると、ジョットは「才知に富み、大変愛想が良いうえ、いつでも当意即妙の応酬が出来る人だったので、彼の言行については今なおフィレンツェで語り草になっている」と述べています。
卓抜した技術と才能、人柄の良さで一躍大画家となったジョットの名声は、イタリア中に届き『神曲』で知られるルネサンス最高の詩人ダンテも当代最高の芸術家として讃え、ボッカチオは『デカメロン』にジョットを登場させその才能を賞賛しています。
晩年にはフィレンツェのシンボル、花の大聖堂と言われるドゥオーモの造営監督に任命されるなど当時から絶大な評価を受けていました。
こうした一人の芸術家(当時は単なる職人)が存命中に公に賞賛されたのもジョットが歴史上初めてのことでした。
そのためいろいろな伝説や逸話が残っていますが、有名なものにヴァザーリによって紹介されている円の話があります。
「あるとき教皇ベネディクトゥス11世がサン・ピエトロ旧聖堂に壁画が欲しいと思い、ジョットという人物とその作品がどのようなものかを調べるために廷臣を一人派遣しました。
廷臣はジョットに教皇のもとに持ち帰るためにデッサンを一枚所望します。
この申し出に対してジョットは紙に筆でさらっと完璧な円を描きました。
廷臣は意味も分からず自分がからかわれていると思い、ひどく困惑しながらそのデッサンを教皇に持ち帰りました。
ジョットがコンパスも使わず描いた様子を話すと、教皇と見識のある廷臣たちはたちまちにしてジョットの技量の卓抜さを理解した」というものです。
一方でジョットは多くの弟子を抱えた大規模な工房を経営する実業家の面も持ち合わせていました。
数多くの注文をこなすためにプロジェクトごとのチーム編成や組織を運営する優れた指導者でもあったのです。
自己の才覚と努力だけを頼りに農民の子から身を起こし、高い社会的成功を収めたジョットはまさに現代的な人間だったということが出来ます。
ここではジョットのたどった生涯を時系列でご紹介します。
詳しい生涯につきましてはこちらの記事をご覧ください⇒《フィレンツィエ絵画の父》ジョットの生涯を詳しくご紹介します!
1267年フィレンツェの郊外コレ・ディ・ヴェスピニャーノの貧しい農家に生まれる。
ジオットは、父の飼う羊の番人として育てられたといわれています。
1277年チマブーエの工房に入り修行する。
1285年ローマを訪れる。
1287年アッシジのサン・フランチェス聖堂の仕事に参加する。
1290年ごろに結婚、画家として独立。
アッシジのサン・フランチェスコ聖堂の天井装飾に携わり画家として本格デビューを果たし名声を高める。
1299年『アッシジの聖フランチェスコ伝』連作壁画を完成させる。
1300年教皇ボニファティウス8世から制作の依頼を受ける。
1303年パドヴァの富裕市民スクロヴェー二家の依頼で同家私設のアレーナ礼拝堂の壁画に着手。
これがジョットの画業の頂点となる。
1310年ローマに滞在。
1320年ごろにはサンタ・クローチェ聖堂内のペルッツィ家礼拝堂の壁画を制作する。
1328~33年ナポリに滞在。
1334年67歳の時フィレンツェの大聖堂造営総監督に就任する。
1337年1月8日フィレンツェで亡くなりました。
ここではジョットの代表作を簡単にご紹介します。
詳しい解説付きの記事はこちらをご覧ください⇒《ルネサンス絵画の父》ジョット・ディ・ボンドーネの代表作を解説します!
上述したようにジョットはその革新的な表現で“ルネサンスの先駆者”となったわけですが、ではジョットの画風のどのようなところが革命的だったのでしょうか?
それは説明するよりこの二つを見比べてみると一目瞭然だと思います。
左はそれまでの伝統的なビザンティン様式の祭壇画、右がジョットの作品です。
両方とも『聖母子』を描いた作品ですが、左のほうは平面的で装飾的、表情は硬くイラストチックな感じがします。
それはこの時代、描いた者がだれであれ、すべてが決まりごとの中で描かれていたため極めて無個性な作品なのです。
一方ジョットは、現代の私たちの目からすればまだ素朴で堅い印象は受けますが、左に比べるとかなり自然な描写であり、彫刻的ともいわれるボリューム感(立体感)があります。
さらにこの作品を見てみると、登場人物たちの身振りは演劇的なほど動きがあり、個々の表情はとても豊かでありそれぞれの感情が伝わってきます。
つまりジョットは実物的(リアル)な「人間性」を表現したのです。
しかしここでいうリアルな表現とは、現代の写真やそれをもとに描かれた“写実”とは違い、簡潔だが本質をとらえた堅固なフォルム、力強い量感と表現豊かな身振り、そして真に迫る表情などを指し、それまでの硬直し様式化されたビザンチン美術とは大きな変化をした点にその重要性があります。
ジョットの活躍した時代は、イタリア特にフィレンツェを中心に都市国家が政治的経済的に繁栄した時代でした。
神と宗教がすべての中心であったそれまでとは違い、自由と自信を身に着けた人々は、神からの「独立」を果たし、いわゆる「個人」という意識が誕生したのです。
都市は目覚ましい革新的気風と競争エネルギーに満ち、貴族や富裕な商人から下層の職人までが政治に関わり、商業と生産活動に携わる中で合理主義的で批判精神に富んだフィレンツェ人気質が育まれました。
こうしたことを背景に宗教に拠らない現実的リアリズム志向が生まれ、明快で革新的な空間意識をもち人間味あふれるジョットの絵画が生まれたといえます。
特にパドヴァのスクロヴェー二礼拝堂(アレーナ礼拝堂)はジョットの記念碑的作品です。
その劇的な迫力と輝く色彩はかつて前例のないものでした。
さらにもう一つ革新的な絵画的特徴は、複数の作品がマンガのコマのように連続して物語が進行していく点です。
日本では古来から絵巻物などで使われてきた手法ですが、これはそれまでの西洋宗教画には見られなかったものです。
作品の世界が一枚の中で完結しているのではなく、となりの作品へと連続してドラマが展開する、こうした表現もまたジョットによってはじめて取り入れられました。
(しかし残念ながらジョットの起こした表現の革命は、彼の死後ペストの大流行によって一度は後退してしまいました。)
製作技法は当時の壁画で主流であったフレスコ画によるものが多いのですが、壮年期には次々と舞い込む制作依頼をこなすため、「フレスコ・セッコ」という技法も使っています。
これは壁に塗った漆喰が乾かないうちに色を付けていく「フレスコ画」に対して、漆喰が乾いてから顔料を施す技法のことで耐久性は劣りますが後から手直しが出来たり融通がきくため多くの助手たちとともに制作するには都合が良かったためと考えられます。
ルネサンスを切り開いた画家、ルネサンスの父とも呼ばれるジョットいかがでしたか?
日本ではあまりメジャーではないので名前は知っていてもそれほど重要視されていない方も多かったのではないでしょうか?
ジョットの作品はその多くが教会や聖堂の装飾壁画ですので、なかなか日本にいては実物を見る機会もありませんが、ルネサンスだけでなく西洋美術史全般を通してもとても重要な画家ですので機会があればぜひイタリアに観に行かれることをお勧めします。
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