こんにちは。管理人の河内です。
今回はバロック美術の先駆者でありながら、無類の暴れん坊画家カラヴァッジョの生涯を詳しく見ていきたいと思います。
弱冠38歳で亡くなったカラヴァッジョは、その生来の気性の粗さから数々の暴力事件を起こし、画家として名声を得つつも何度も投獄されるなど波乱万丈の生活を送り、逃避行で逃げ込んだ先々で数々の傑作を生みだし美術史にその名を残しました。
そんなカラヴァッジョのたどった人生を詳しく見ていきたいと思います。
目次
カラヴァッジョは1571年イタリア北部、ロンバルディア地方ミラノでフェルモ・ディ・ベルナルディーノ・メリージの4人の子供の第1子として生まれました。
父はカラヴァッジョ侯爵フランチェスコ・スフォルツァの執事長でしたが、1577年には亡くなっており母親ルチーア・アラートリの手で育てられました。
一家は地元では名士でカラヴァッジョもある程度高い教育を受けたと思われます。伯父は司祭で兄弟の一人も聖職者になっています。
カラヴァッジョが4、5歳ごろまではミラノで暮らしていましたが、ペストが流行したため1576年にそこから30マイル東の小都市カラヴァッジョに移りました。
「カラヴァッジョ」の名は後年この街にちなんで名乗っています。
1584年4月、カラヴァッジョは12歳でミラノの画家でヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの弟子であったシモーネ・ペテルツァーノの工房に弟子入りします。
若いころの記録はほとんど残っていないため詳細は分かりませんが、1590年には母親が亡くなり2年後にカラヴァッジョは兄弟たちと一家の財産分与をした記録があります。
しかしそれ以降は“カラヴァッジョ”に記録がないことや、当時ミラノはレオナルド・ダ・ヴィンチらが活躍した往年の繁栄は影を潜め停滞期に入っていたことからより刺激的な芸術環境で腕を磨くべくその金でローマに旅立ったと思われます。
一方で17世紀の著述家のジョヴァンニ・ベッローリが伝記の中で、「彼はトラブルに巻き込まれミラノを去らざるをえなかった」と書いていることから、この頃から度々暴力事件を起こしていたのかも知れません。
当時ローマはルネサンス以降、歴代教皇たちによって町の改革が行われており、ヨーロッパ各地から仕事を求めて画家や彫刻家、建築家たちが集まってきていました。
そのため地方出身の若いカラヴァッジョがすぐに画家として成功することは難しかったはずですが、しばらくは相続した親の遺産で生活できたようですが、その金も早々に使い果たし、ローマで暮らし始めたころは困窮していたようです。
そのころの自分をモデルに描いたとされる『病めるバッカス』生活が困窮していたためか、病的な表情で描かれています。
1599年まではカラヴァッジョに関する記録がありませんが、おそらくどこかの時点でカヴァリエーレ・ダルピーノ(ジュゼッペ・チェーザリ)の工房に雇われたと思われます。
彼は当時一流のフレスコ画家であり、教皇や教会の大規模な注文をこなしていました。
しかしカラヴァッジョは一説には馬に蹴られたため病院に収容されたことでこの工房を辞めたようです。
その後、カラヴァッジョは枢機卿のフランチェスコ・デル・モンテの目に留まります。
この枢機卿は大変裕福で見識があり芸術を庇護する人物で、かのガリレオ・ガリレイの友人でもありました。
絵画をコレクションし、音楽を愛しローマの美術アカデミーであるアカデミア・ディ・サン・ルカの主要な後援者でもありました。
カラヴァッジョはこの枢機卿の邸宅に雇い入れられます。
そこで自邸に住みこませてもらい生活の安定を得て、枢機卿や裕福なパトロンたちのため柔弱な若者像や静物画、風俗画などを数多く描きました。
しかしそうした特定のパトロンのための小さな仕事では大金も名誉も得られませんでした。ローマではいわゆるプロテスタントの『宗教改革』に対抗するため新しい教会の建築が相次いでいました。そしてそれらを飾る大規模な装飾や祭壇画が必要とされており、そうした仕事にありつくことが名誉を手に入れるためには必要でした。
そして1599年ようやくカラヴァッジョにそうした仕事が依頼されます。
サン・ルイージ・デイ・フランチェージ聖堂のコンタレッリ礼拝堂のために2点の大作『聖マタイの召命』と『聖マタイの殉教』が依頼されたのです。
これはおそらく枢機卿デル・モンテの手助けがあったと思われます。
この2作品は大きな成功をカラヴァッジョにもたらします。これ以降カラヴァッジョには大作の制作依頼が相次ぎ2年後にはカラヴァッジョの名前はヨーロッパ中に広まりました。
1600年に『聖パウロの改心』『聖ペテロの磔刑』を制作。
1603年にはオランダの美術史家カレル・ファン・マンデルが「ミケランジェロ・ダ・カラヴァッジョという人物がいて、ローマで素晴らしい仕事をしている」と書いているほどです。
しかし残念ながらファン・マンデルにはカラヴァッジョの悪名も同時に届いており「…長剣を腰にお付きの少年を従えて~いつもケンカ腰で人々と仲良くやっていけない」とも書いています。
実際カラヴァッジョが上記の公的な最高を勝ち取ると同時にローマ警察の文章にカラヴァッジョの名がひっきりなしに登場します。
ステッキで同僚を襲い、兵士に対して剣を振るい裁判所に引き立てられています。
1603年には敵対する画家であり後にカラヴァッジョの伝記(批判的な)を書いたジョヴァンニ・バリオーネがカラヴァッジョと他数人を相手取り名誉棄損で訴え投獄されます。「バリオーネを傷つけない」と誓約書を書かされ釈放されますが、それを少しでも破ればガレー船の奴隷として送られることになっていました。
1604年にはレストランで熱いアーティチョークを盛った皿をウェイターに投げつけた上、剣で脅した罪で訴えられます。さらに同年末警官を侮辱して逮捕されています。
1605年ある婦人とその娘を脅したて裁判になったり、家賃を払わないうえに家主の家に石を投げつけた罪で告発されました。
1606年5月28日テニスの試合で掛け金の支払いを渋ったためラヌッチ・トンマッゾーニという男とその仲間と激しい喧嘩となりカラヴァッジョは深手を負います。しかし相手のトンマッゾーニはカラヴァッジョの暴行によって命を落としてしまいました。
カラヴァッジョは3日間ジュスティニアーニ侯爵の屋敷に身を隠したあとひそかにローマを脱出し以来ローマに戻ることはありませんでした。
それ以降の5か月間は明らかではなく同1606年10月までに、教皇の司法権が及ばないナポリに移動していました。
そこで1年足らずの間に祭壇画の大作を少なくとも3点制作しています。
この間、ローマの有力な友人やパトロンの尽力による教皇の恩赦を待ちますが結局得られずに翌年7月にナポリを出てマルタ島に移ります。
マルタ島に移った経緯は分かっていませんが、おそらく聖ヨハネ騎士団が絵を描かせるために呼んだのではないか、あるいは騎士団に入るためではないかなど諸説あります。そこでカラヴァッジョは騎士団長のアロフ・ド・ウィニャクールの肖像画(↓)を描いた返礼に名誉ある騎士に任じられました。
さらに「騎士団長は彼の首に金鎖を巻き、2名のトルコ人奴隷を送った他、彼の作品への評価と感謝の印をいくつも贈った」と記されています。
マルタ島では他にも数々の肖像画や『洗礼者ヨハネの斬首』などを制作しています。
しかしカラヴァッジョは、その性向のためにこれらの栄誉を長く享受することはできませんでした。カラヴァッジョは自分よりも身分の高い騎士といざこざを起こし投獄されます。
そこを何とか闇夜に紛れて逃亡するとその後シチリアに逃れます。
聖ヨハネ騎士団はこれによってカラヴァッジョに与えた一切の栄誉をはく奪し団から除名しました。
カラヴァッジョはその後追跡を恐れてシチリア島のシラクーザ、メッシーナ、パレルモなどを転々としながらもそれぞれの町で見事な祭壇画を残しました。
その後ナポリに戻りますが、今や彼は教皇庁だけでなく聖ヨハネ騎士団からも追われる身となっていたのです。伝記作家のベッローリは『彼は恐怖のため次々と移動した』と書き記しています。
1609年、カラヴァッジョがナポリで殺されたかあるいは重傷を負ったといううわさがローマに届きます。「彼はついに捕らえられ、顔をひどく切り刻まれてほとんど見分けがつかないほどになった」と書かれています。
このような中、ローマでは枢機卿のフェルディナンド・ゴンザ―ガやカラヴァッジョの友人たちが彼の赦免を願う運動をしていました。
1610年夏にようやく恩赦が認められるかもしれないとの期待を持ってカラヴァッジョはナポリを去り小さな船でローマの北130キロほどにある港町ポルト・エルコレに向かいます。
しかし上陸した矢先、人違いで逮捕されてしまいます。
釈放されたときには彼の荷物を積んだまま船は出航しており、怒ったカラヴァッジョは船を追いかけますが、熱い太陽のもとで熱病に侵され、それがもとで7月18日亡くなってしまいました。享年38歳。
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