こんにちは。管理人の河内です。
今回は、スペインバロックの巨匠ベラスケスの作品をご紹介したいと思います。
ベラスケス作品の魅力は何といってもその迫真性にあります。
ぱっと見は、写真と見まごうばかりのリアリスティックな表現ですが、近くで見ると何とも抽象的で鮮やかな筆さばきで描かれた人物たちは、その性格などの内面性から場の雰囲気まで一瞬でとらえたような感じがあり、ある意味通好みの画風といえるかもしれません。
ネットの画面ではなかなか伝わり辛い部分もあるかもしれませんがぜひご覧ください。
目次
1618年 60×103.5㎝ ロンドン・ナショナルギャラリー蔵
ベラスケス初期の作品。どっしりとした人物の存在感とテーブルに並んだ食材や金属、陶器などの生々しい質感が、理想化せず自然主義的な表現で見事に描かれています。
こうした態度は、ベラスケスの初期作品にみられる特徴で、さらにはイタリアバロックの巨匠、カラバッジョの影響による強い明暗対比が見て取れます。
このような厨房を主題にした当時の風俗が見て取れる情景は、ボデゴンと呼ばれ「厨房画」と訳されており当時流行したジャンルです。
手前左に大きく老女と若い女性が配され、奥の部屋(?もしくは鏡に映った情景とも見える場面)で、家事をせずにイエスの御言葉に聞き入っているマリアと、それを不満に思う姉マルタが描かれています。
この二つの場面をつなぐのは老女の右手のみで、両者は独立しているかのようです。
これは“人はそれぞれの使命において、主に仕える”ことを諭しているといわれています。
1619年 135×102㎝ ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵
マリアのモデルは妻ファナ。
ベラスケス初期の宗教画。神の子イエスの母となる聖母マリアが、マリアの母(イエスの祖母)アンナの胎内に宿った瞬間、神の恩寵によって原罪が免れるという教理「無原罪の御宿り」を描いたもの。
この教理は、はじめは東方で唱えられ、神学者の間で盛んに議論された後、1854年に法王庁から公認されたので、当時はまだ公認されていなかったものの、スペインでは人気のあるテーマでした。
今作は『パトモス島の福音書記者聖ヨハネ』と共に、セビーリャのカルメル会修道士修道院の祭壇画として手がけられたと推測されています。
聖母マリアは柔らかく両手を合わせるポーズで、純潔を表すまだ少女のような面持ちで描かれ、その頭上に輝く12の星々と足許の月、背後には偉大なる天上の力を表現した暗い空から沸き立つような雲が光に照らされるなど、厳しい明暗の対比を用いてドラマチックで非常に写実的に表現されています。
1628~29年 165×225㎝ プラド美術館蔵
バッカスとはお酒の神様。
活気と迫力あるこの作品は、親交のあったフランドルの巨匠ルーベンスの影響うけた最初の神話画です。
神話画であるにも関わらず、ベラスケスはそれを日常的な場面に設定し、異教の神々は英雄化も理想化もされずリアルな人間として描かれています。
この作品は1628年、ルーベンスがスペイン滞在中に着手され、イタリア旅行直前に仕上げられ国王の寝室を飾っていました。
ここで見られるようなベラスケスの真に迫るリアリズムは、イタリア旅行後は影を潜めます。
1631~32年 248×169㎝ プラド美術館蔵
別名「サン・プラシドのキリスト」と呼ばれ、18世紀までベネディクト派のサン・プラシド修道院に飾られていました。
ゴルゴダの丘で磔にされたキリスト最後の瞬間を静謐に、生々しい人間像として表現した真に迫るリアリティーがあります。
セビリアの伝統的な図像学に基づきイエスの両足は重ねられることなく四肢4本の杭で打ち付けられています。
1634~35年 209×173㎝ プラド美術館蔵
1635年に竣工した離宮ブエン・レティーロ「諸国王の間」に飾られた数々の国王を称える作品のうちの一枚。
まだ幼い皇太子が甲冑姿で指揮棒を掲げ、さっそうと馬を駆る勇壮な姿で描かれています。
左前方へ今にも飛び出そうとする駿馬と、パルドの森の退行する風景の組み合わせは純粋にバロック的な構図であり、下から見上げたような視点のために馬の胴部は誇張されて描かれています。
特に背景の青系の色など、色彩はまるで水彩画のように明るく透明感があります。
バルタザール・カルロス皇太子は、フェリペ4世の長男として生まれ、スペイン帝国王位継承者としての期待を一身に受けて育ちますが、残念ながら度重なる王家の近親婚のためか他の王子たち同様彼も17歳という若さで亡くなっています。
1644年 106×81㎝ マドリード プラド美術館蔵
モデルはフェルナンド親王の死後、マドリードに戻ってバルタザール・カルロス皇太子付きとなった矯人セバスティアン・デ・モーラ。
彼ら矯人は、宮廷の礼儀作法を無視して公私両面で国王と自由に付き合えたある種治外法権のもとにある存在でした。
彼らには一定の俸給が支給されていて、厳然たる人格として宮廷に生き、聖と俗という二極構造の一方を代表する存在だったのです。
こうした異形の者たちは、そのほかに巨人、超肥満体、黒人などがおり、みな道化、慰み者、奴隷として宮廷になんと50人以上もいたそうです。
ここに描かれているセバスティアン・デ・モーラは、人形のように短い脚を投げ出したある種愛らしいポーズではありますが、しかし彼の眼光は鋭く、じっとこちらを見返しているようです。不遇な運命を背負った彼らの怒り、それらを受け入れ抑制したような眼差しが、ベラスケスの卓越したリアリズムでむき出しにされています。見世物的な扱いを受けている彼らが、まるで絵を見ている私たちを見ているかのようですね。
1654年 ウィーン美術史美術館蔵
フェリペ4世の娘で、見合い写真としてベラスケスは幼少のころから幾度も彼女の肖像を描いています。
この作品では目を見張る豪奢なドレスの質感、装飾品などが自在なタッチで驚異的な実在感で表現されており、ベラスケスの技量が如何なく発揮されています。
マルガリータ王女はベラスケスが第二次イタリア旅行から帰国して間もない1651年7月フェリペ四世とマリーナとの間に誕生しました。
バルタザール・カルロス皇太子以来、生まれる男児は全て死産か早逝であったため、王位継承者のいないスペイン・ハプスブルク家は、彼女を神聖ローマ皇帝レオポルド1世に嫁がせることでその存続を図ろうとしていました。
しかし結婚後、不遇にも彼女は6人の子を産みますが、そのうち成人したのはたった一人、マルガリータ自身も21歳という若さで亡くなっています。。
今に残る4点のマルガリータの肖像は、彼女の成長記録であるとともに、ベラスケスの技量の成熟度をたどる貴重な記録でともなっています。
1634~35年 307×367㎝ プラド美術館蔵
フェリペ4世の30年戦争の終結の戦勝を記念して描かれた作品で、「諸王国の間」を飾った12枚の戦勝場面のうちの一つ。
南オランダの都市で、アントワープへの要地ブレダをめぐる攻防戦は1624年に始まりました。9か月の攻防の後、オランダ側が降伏を申し出て停戦協定が結ばれます。しかしその開城は、敗者であるオラン軍が武装したまま旗を靡かせドラムを打ち鳴らして軍隊行進のごとく堂々と城外へさるという異例のものでした。
画中では城の鍵を渡している場面が描かれていますが、これはベラスケスの演出によるもので史実ではないようです。降伏したにも関わらず左側のオランダ軍兵士たちは寛いだポーズで描かれていて、対する右側スペイン軍は規律正しく描かれています。
右奥の長槍の列が北方の風景をさえぎるように高々とそびえスペイン側の勝利を讃えているかのようです。
中央ではオランダ軍総督ナッサウが、スペイン軍の名将スピノーラに城の鍵を手渡していますが、ここには一般的な勝者と敗者の関係はありません。
勝者スピノーラがナッサウの肩に手をやり、征服者の雅量と敗者の恭順が強調されスペイン騎士道精神が謳われています。
1644年 129.8×99.4㎝ ニューヨーク フリックコレクション
この作品は1644年、フランス軍鎮圧のためにカタルーニャ遠征を挙行し、その途中でレリダ陥落を祝ってベラスケスに描かせたものです。
ベラスケスはこの作品を実に3日で仕上げたといいます。
完成後、すぐにマドリードの王妃のもとに送られ8月10日聖マルティン教会に展示されました。
1650年 140×120cm ローマ ドーリア・ハンフィーリ美術館蔵
尊大なポーズと威圧するような表情は宗教界の頂点に立つ教皇のイメージより、現世欲と猜疑心に固まった複雑なモデルの内面を過酷なまでに暴き出しているようです。しかしここまで露骨でリアルな表現が可能かと思うほど真に迫った描写ですが、やはりこの作品も近くで見るとベラスケス特有の荒々しく軽妙なタッチで描かれています。
ベラスケスはこの絵の褒賞として彫像入りの金メダルを教皇から送られました。
1650年、ベラスケスは聖ルカ美術アカデミーの名誉会員に選出され、この作品がそれの記念にパンテオンで展示されました。
その時、ローマ在住の他の美術家たちが「他の作品が絵に見えるほど、これのみが真実だ」と絶賛したと伝えられていて、ベラスケスが国外でも大きな評価を受けていたことが分かります。
1649~51年 122.5×177.0cm ロンドン ナショナル・ギャラリー蔵
制作年代については議論されてきましたが、現在は1651年以前イタリア滞在中であることで一致しているようです。
この作品は、後のゴヤが描いた「裸のマハ」と並んでスペイン絵画では唯一の裸体女性を描いた作品として知られています。
カトリックの本家イタリアでは、女神に名を借りつつも裸体画は公然と描かれていましたが、当時スペインでは裸を描くことは許されなかったようです。
場合によっては異端審問の検閲を受けることもあるほど厳しかったのです。
ゴヤの場合は、同じモデルを使って「着衣のマハ」を制作し、その存在は隠されており、またゴドイという強力なパトロンの庇護下にあったためお咎めがなかったようですが、ベラスケスは自由な雰囲気のローマでこれを制作したようです。
しかしここでもベラスケスはヴィーナスや天使の肉体に一切の粉飾や理想化をせず、リアルに描写した点で他の画家たちから際立っており、「女神を生身の人間として」描いたところにベラスケスの特徴があります。
1656年 318×276㎝ プラド美術館蔵
ベラスケスの生涯の総決算ともいえる作品です。
西洋美術全体の中でも最も重要な作品として位置づけられている名作で、世界3大名画の一つに数えられています。(あと二つはダ・ヴィンチ「モナリザ」、レンブラントの「夜警」またはエルグレコの「オルガス伯爵の埋葬」)
描かれた当初は「フェリペ4世の家族」と呼ばれており「ラス・メニ―ナス」は19世紀プラド美術館に入ってからの呼び名です。
王宮のベラスケスの大きなアトリエが舞台で、王女マルゲリータを囲んで数人の女官、侍女、小人と犬が配され、大きなキャンバスのわきにはベラスケス本人が筆を執って制作しています。
そして奥の鏡には、フェリペ国王夫妻が映っていて、この絵は全体として彼らの視界を通してみた場面となっていて王宮の日常の一場面を切り取ったような構成になっています。
一見すると、可愛い王女が主役に見えますが、この位置ではベラスケスからは王女の背中しか見えません。という事で実はベラスケスが描いているのは(=絵の主題は)王女ではなく鏡に映った国王夫妻なのです。その制作途中を見に来た王女というのがこの絵の設定で、しかもこの絵全体が国王夫妻の視点で描かれているという何とも複雑な構成になっています。
一番大きく描かれるはずの主役(国王夫妻)が描かれず、画面の外にいて、奥の鏡にわずかに映り込んでいるだけという実に謎めいた作品です。
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