こんにちは。管理人の河内です。
今回は誰もが知っている超人気画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの“死”の真相について取り上げてみたいと思います。
皆さんゴッホと聞いてどのようなイメージをお持ちでしょうか?
誰もが思い浮かぶのが「炎の人」という形容詞がつけられるほどの激しい気性の持ち主で、その性格から人付き合いは苦手、生前は絵がほとんど売れず極貧の中でいわゆる「耳切り事件」や精神病院への入退院を繰り返すなど精神に病を負った末、最後は絶望の淵で自ら命を絶ったという悲しい結末のストーリー。
それほど美術に詳しくない方でも大方の人が持っているゴッホのイメージはこのようなものではないでしょうか?
しかしこうしたストーリーの中には、後世の人たちによって演出ともいえる枝葉が付けられ、あるいは誇張されたフィクションが混ざっていることはあまり知られていません。
特に今回取り上げるゴッホの最期、「死」についての真相は当時の資料や周りの人々の証言などからそうしたイメージとは全く違うストーリーであったことがわかっています。
では実際ゴッホはどのようにして最期を迎えたのでしょうか?
現在分かっている資料を基にその真相に迫ってみたいと思います。
目次
実はゴッホの死の直前の行動については詳しいことはほとんど分かっていません。
数少ない確実な資料をもとに言えることはおおよそ次のことぐらいです。
1890年7月27日。
パリの北20マイルほどのところにある街オーヴェール・シュル・オワーズに滞在していたゴッホは、
逗留していた宿で昼食をとった後、午後の制作をすべく画材をもって出かけました。
そしてその後のどこかの時点で銃による傷を負います。
傷を負ったゴッホはラヴ―(定宿の主人)の宿に歩いて戻り、その30時間後に息を引き取りました。
そして宿に戻って亡くなるまでの間に、ゴッホは二人の医師による診察を受けています。
その診断の結果、弾丸は体内に留まったままであり、脊柱付近に滞留しているということ、
傷を負わせた銃は小口径のピストルであることが分かっています。
そしてこの時診断した医師によっていくつかの不可思議な点が指摘されています。
それは弾丸が異常な方向、つまり自分で自分を撃ったのにはかなり無理な角度から侵入しているということ、そしてある程度距離の離れたところから発射されている(至近距離ではない)ということです。
これらの疑問点については後半でさらに詳しく述べたいと思います。
翌日、ゴッホは警察による短い聞き取り調査が行われていますが、事件当時ゴッホがどこにいたのかは不明のままであり、その凶器となった銃やゴッホが持って出たはずの画材道具はどうなったのかわからずじまい、傷を負わせたのも実際本人なのか他人なのかも名言はしませんでした。
では当時周囲にいた人物やそのほかの記録からもう少し丁寧に見ていきましょう。
ただここからの話は確証のあるものだけでなく、うわさや推測も混じっているか可能性があります。
ゴッホはこの最後の数週間、毎日のように宿にしていたラヴ―の店から数ブロック離れたところにあるドービニーの庭に出かけて絵を描いていました。(ドービ二―はゴッホが尊敬していた画家。ドービニーの庭はこの画家の邸宅の庭のこと)
7月27日ゴッホはいつものように朝から道具箱やイーゼル、キャンバスなど一式を携えてスケッチに出た後、お昼にはラヴーの宿で昼食を取りに戻りまた仕事に戻りました。
しかしその日の日没後、ラブーの宿に戻ったときはカバンもイーゼルも持っておらず手ぶらで、足を引きずって帰ってきたのです。
ゴッホは店の外のテラスでたむろしていた幾人かの客たちやラヴーには一言もかけず、真っすぐ自室の屋根裏部屋に向かいました。
不審に思った彼らはゴッホの後を追って部屋の扉にそっとに耳をそばだたせると、中からうめき声が聞こえてきます。
心配になった主人のラヴーが部屋の中に入ると、ゴッホはベッドの上で苦痛に身もだえしていたのです。
ラヴ―に気づいたゴッホは自分のシャツをたくしあげ、腹に開いた小さな穴を見せてこう言いました。
「僕は畑で自分を傷つけた。そこでリヴォルバーで自分を撃った」と。
すぐに医者が呼ばれました。
その医師はたまたまバカンスでオーヴェールに滞在してた産婦人科医のマゼりという医師でした。
彼の診断によれば弾丸は貫通しておらず腹腔の奥で肺に穴を開けて動脈を掠め、脊髄近くにとどまっているというもので致命傷と見られました。
しかしここで前述のいくつかの奇妙な点が浮かびあがってきます。
もしゴッホが自殺を図ったのなら頭部、もしくは心臓を狙うはずですが、被弾した個所は心臓から遠く離れています。
さらに銃口は下を向き自分で撃ったのなら骨に当たらない限り弾は貫通するはずです。
これは「余りにも非常に遠くから」撃たれたことを示していました。
その後、オーヴェールでのゴッホの保護者的関係にあったガシェ医師が到着します。
その時ゴッホは何とベッドの上でパイプをふかしていました。
そして「誰か僕のために腹を切開してくれませんか?」と願い出ます。
しかしマゼりは産科の医師でガシェは栄養学と神経症の医師であったため、ふたりとも専門外ということでこの申し出を拒みました。
ガシェ医師はなすすべもなく包帯を巻いただけで、後はパリにいるゴッホの弟テオに向けて事情を説明した手紙を書き、翌日若いオランダ人画家ヒルシップに依頼してテオに届けさせました。
翌朝にはオーヴェールの町はこの事件の噂でもちきりです。
ここで噂が噂を呼び真偽不明の脚色がされていったようです。
翌日警察がゴッホに事情聴取にやってきました。
そこで警官はこう尋ねました。「自殺したかったのかね?」
これに対しゴッホは「はい、そう思います」と答えています。
すると警察は「自殺は罪だよ」と言いました。
やはりゴッホは自殺を図ったのでしょうか?
ゴッホは苦痛で意識が混濁するなか「自分一人でやった」と答える一方で「誰も責めないでください」と奇妙なことも言っています。
翌28日の正午、テオは知らせを受けて血相を変えて兄のもとに駆け付けます。
ラヴ―の宿についたときにはテオは最悪の事態を予想しその顔は「悲しみで歪んでいた」と宿の主人の娘は証言しています。
しかし実際兄と対面してみると思いのほか元気であり、テオが見た部屋はまるで自殺を試みた人間の部屋ではなく、まさに通常通りの様子でゴッホはベッドの上で起きてパイプを吸っていました。
「彼は期待していたより多少良かった」が「しかし実際には病状は非常に悪い」と妻への手紙で書いています。
二人は抱き合い、ゴッホは弟がつきっきりでいてくれたこと感謝しました。
その夜遅くまで二人で語り合いました。
おそらくこの時テオもまたみなと同じように事件について本人に聞いたはずです。つまり本当に『自殺を図ったのか?』と。しかしゴッホは何も答えなかったといわれています。
しかし妻のヨーへの手紙でテオは「詳しいことは書かない。あまりにも悲しいことだ。」と書いているところを見ると何かを打ち明けられたのかも知れません。
日が沈むにつれゴッホが使っていた屋根裏部屋は冷え始めました。
ゴッホの呼吸も次第に粗くなり夜中の0時半ごろにはゴッホは弟の腕に抱かれ苦しい呼吸にあえぎながら「このまま死んでいけたらいいのだが」とテオにいいます。
そして午前一時を回ったころゴッホは目を大きく開いたままその心臓は鼓動を止めました。
翌朝テオは悲しみを堪え葬儀の準備や案内状の印刷発送などを一気にこなします。
しかし地元の教会で葬儀を上げることはゴッホが異国人のプロテスタントであったことや自殺の疑いがあったことなどから拒否されてしまいます。
そのためテオは街の上の荒れ果てた剥き出しの土地にある墓地の区画を買い埋葬しなければなりませんでした。
翌7月30日葬儀にはパリから画材屋のタンギーやカミーユ・ピサロの息子(ピサロは老齢と病気で欠席)、エミール・ベルナールなどが駆け付け、ガシェ医師らの計らいで町の人々が参列しましたがゴッホの家族はテオのみでした。
これがゴッホが亡くなる前後に起こった経過です。
こうして炎の画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホンの37年という短い人生に幕が下りたわけですが、先にも触れたように一般的に言われているようにゴッホは本当に狂気の末に自殺を図ったのでしょうか?
“自殺”とするにはあまりにも不可解な点が多い彼の死,次回の「後編」ではその不信な点と様々な外的証言や事実を検証しその真相を探ってみたいと思います。
後半に続く・・・
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